【えせほし─似非星─ 】 kyo-ko

『不可侵領域』

(2)

 翌朝、目を覚ました矢吹が、角松の眠っている部屋に行くと、すでに如月はそこにいた。それもいま来たばかりという風情ではない。寝台の傍らに置かれた椅子に腰掛けて、じっと眠る男の姿を見つめている。
 小さな窓から差し込む朝日に、端正な横顔が浮き彫りになるが、その頬の線がいつもに増して鋭く見えるのは、気のせいではないだろう。明らかに面やつれのした様子に、矢吹はそっと眉をひそめた。

 しかしすぐに如月がこちらを振り向いたので、取ってつけたような愛想笑いを浮かべる。
「良く眠れたかね?」
 否、ということを知りながらも、あえて尋ねてしまったのは、それを認めたくはない意地だろうか。

 それには如月は無言でうなずいてみせた。矢吹もまたうなずき返す。
 たとえ眠れなかったとしても、今日の予定は変えることは出来ない。血反吐を吐いてでも、天津まで辿り着かなくてはならなかった。もちろん如月も、それは承知の筈だ。


「意識は?」
 尋ねながら矢吹が寝台に歩み寄ると、如月は静かに首を横に振り、場所を譲るかのように立ち上がった。
 だが、矢吹は椅子には座らずに、そのまま角松の様子を診る。昨夜よりは呼吸も整い、落ち着いているようではあるが、依然として安心出来ない状態であることには変わりない。

 これほどに傷ついた身体での長時間の移動は、それだけでもかなりの負担になるだろうし、最悪の事態も考えられる。が、この家にじっとしていては、ただ座して死を待つのと同じだ。

「まだ死なせる訳にはいかんからな…」
 呟きながら、矢吹はふと大きな手のひらを思い浮かべた。
 この男を死なせてはならないと、そう誰かが考えたのだろうか。まるで、見えない手に操られた将棋の駒のように、自分と如月があの場に居合わせて、角松の命を救ったかに思われた。あるいはそれが天命というものか。


 死にゆく者は、何をやっても死んでしまう。
 生きていく者は、何もしなくても生き残る。

 それは矢吹も医者として身に沁みていた。
 だからおそらく、この男はここでは死ぬまい。きっと天津に無事に辿り着き、設備の整った病院で治療を受けて、ほどなく傷も回復するだろう。 その隣に如月が一緒に居る保証はどこにもなかったが。

 しかし、操る『手』にはなれなくとも、矢吹にも駒としての意地も誇りもある。今はただ最善を尽くすだけだった…。


 矢吹が角松の傷の具合を調べて、包帯を巻き直していると、いつの間にか外に出ていた如月が戻ってきた。
「車の支度をしてきた。今すぐにでも出発できるが?」
「そうか、それなら行くとしよう」
 こういう時は、何も言わずとも動いてくれる如月の機転がありがたい。

 矢吹はさっそく、外した戸板とシーツで作った即席の担架に角松を乗せる。重くて大きな身体は、そのまま車に運び入れるだけでも重労働だった。
 角松をどうにか後部座席に押し込んで、横に寝かせ、革ベルトで落ちないように固定する。その作業は如月が手っ取り早く済ませた。傍で見ていた矢吹が、いささか不安に思うほどの荒っぽい手つきだったが、誰よりも角松の容態を案じている本人がそうするのだから、問題はないのだろう。

 そしてそのまま如月は運転席に座った。
「行くぞ」
「大丈夫かね?」
「問題ない」
 短い答えを返すのみで、如月はすぐに車を走らせる。それもかなりの速度だったから、矢吹はようやく如月が焦っているのだと気がついた。軍人としての勘が危険を告げてでもいるのだろうか。


 結局、車が落ち着きを取り戻したのは、新京からずいぶん離れてからだった。追っ手の姿も今は感じられない。美しく整備された都市の新京とは違い、すっかり道幅も狭くなり、路面も荒れているので、速度が出せなかっただけかもしれないが。
 如月は運転に集中しているのか、鋭い視線を前に向けたままで、声を発することすらない。ひたすら続く長い沈黙に耐えかねて、矢吹が口を開いた。

「あまり無理をするなよ。お前も体調が万全ではないのだからな」
「自分のことは自分が一番良く知っている」
 淡々と答えた声は、それでも矢吹の気遣いに応じるように、ほんの少し柔らかかった。

 …自分を一番見えていないのは、自分だと言うことか…。
 矢吹はそっと苦笑を浮かべる。

 一週間前の矢吹ならば、如月の言葉をそのまま受け取って、相変わらずだ、と思っただろう。三日前、いや昨日まではおそらくそう思ったに違いない。
 しかし、今の如月は矢吹が知っていた如月ではなかった。いつ目が覚めるとも知れぬ男の身を案じ、ただ傍らでじっと見つめ続けるなど、在りし日の如月から誰が想像出来ただろう。


 かつては自分が殺した血まみれの死体が転がっている横で、平然と食事をして眠るようなことも当たり前だったのだから。
 そんな如月を、良くも悪くも『人間』にしたのは、間違いなく後部座席で眠っている男だ。矢吹がどれほど時間を掛けても果たせなかったことを、角松はほんの十日かそこらで成し得たというのだろうか。

 この男が如月に何を話し、何をしたのか。
 いったい角松の何が如月を動かしたのか、矢吹には想像することも出来ない。だが、自分が今こうして角松を助けようとしているのも、あるいは同じ理由なのかもしれない、と思った。

 矢吹はちらりとバックミラー越しに、眠っている男に目を向けた。血の気を失った青褪めた顔色は変わらないが、それでも、生きたい、という言葉を全身から発しているようだった。


 そんな男とこの先も関わっていこうとする如月に、矢吹はほんの少し同情する。そして、自分はそうなるまいと拒絶するかのように目を閉じて、小さく呟いた。
「それでは少し休ませてもらうとしよう。先は長いからな…」
「ああ、そうすると良い」

 如月の、線は細いがよく通る声に心地良く浸りながら、矢吹は眠りに落ちていく。
 昨日も病院の通常勤務をこなし、家に帰った所で例の事件に追われ、ここまで逃げてきて、角松の手術を行った。昨夜ひと晩眠ったくらいでは、疲れた身体は回復してはくれない。
 矢吹が本格的に寝入ってしまうのに、それほど時間は掛からなかった。


 車は一路、天津までひた走る。
 新京から天津までは1000km以上もある、気が遠くなるほど長い道のりだ。一昼夜休むことなく走り続けても、辿り着けるかどうか。
 しかし、そんな不安など欠片ほども見せることなく、如月はただ前だけを見つめて、運転し続けるのだった…。


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