『不可侵領域』 |
(1)手術を終え、血に染まった手のひらを洗い流しながら、矢吹は深い安堵の息を吐いた。すでに夜半も過ぎ、窓の外は深い暗闇に包まれている。何気なくそちらに目を向けると、鈴を鳴らすような虫の音が聞こえてきた。おそらくは今までも鳴いていたものが、ようやく耳に入ったのだろう。 もう一度、息を吐くと、矢吹はまた顔を部屋の中に戻す。それを見計らったように、横から如月が手ぬぐいを差し出した。 そのまま無言で受け取り、手を拭いていると、如月の唇が物問いたげに開き、またすぐに閉じる。 長い前髪に隠れた黒い瞳は、手術台で眠る男の上に、ひたと注がれていた。 その美しい瞳がこちらを向いたことは幾度もあったけれど、そんな目で見つめられたことは、一度たりとて無かったような気がする。 ふいに、矢吹は自分の心の表面を薄い膜が覆ったことに気が付いた。それはじっとりと湿るもやのように形がなく、それでいて圧しかかってくるような息苦しさを伴っていた。 これは嫉妬か、独占欲か、あるいはもっと別のものか。 いい歳をした男がこんな感情に胸を焼くのは見苦しい。ましてや己のことならば尚更に。 思わず押し黙ってしまった矢吹をどう思ったのか、如月が静かに声を掛けてくる。 「角松の容態は」 感情を宿さぬ硬質な声音の中にも、不安げな揺らめきを感じた…、と思うのは過剰に意識をしているからだろうか。 「手術は無事に済んだ。だが、まだ予断を許さぬ状況だな。このまま意識が戻らないことも考えられる」 「…そうか……」 ほんの一瞬こちらを向いていた視線が、また男の方に戻された。矢吹の心に再び膜が現れる。もしもそれを舐めてみることが出来たなら、きっと苦い味がするに違いない。 「お前もここに来て座りなさい。頭の怪我を見てやろう」 傍らの椅子を指差す矢吹に、如月は顔を上げ、小さくつぶやいた。 「私は…」 「来なさい」 声が荒くなってしまったことも自覚していたが、抑えることは出来なかった。きっと疲れているせいだ、と自分を慰める。 程なくして、如月が物音一つ立てることなく、矢吹の前に置かれた椅子に腰掛けた。 傷口を見せることよりも、背を向け、無防備な姿をさらすことに抵抗を感じているらしいことは、如月の周囲の張りつめた空気で分かる。 …俺に触れるな、近づくな、と。 実際に口に出して、そう言われたこともあった。 出会ったばかりの、まだ少年だった頃の如月を思い出す。まるで野良猫のようだった彼が、多少なりとも懐いてくれるまでには、ずいぶんと時間が掛かったものだ。 それは、今となっては思い出すことも難しいほど、深い場所に眠っていた記憶だった。 ふいに訪れた感傷を振り払うように、矢吹は再び『医者』に戻った。 如月の艶やかな黒髪を指で掻き分けながら、頭の傷の様子を見る。出血は多かったものの、それほど深い傷ではなさそうだった。 薬を塗ってやると、傷口に染みるのか、如月が小さな呻き声を上げた。 その、ほんのわずかな吐息にすら、心が乱されるのを感じたが、だからといって、今の自分に何も出来はしないことも分かっていた。 「こちらは大したことはなさそうだ。だが、無理をせんようにな」 「すまない」 如月はたった一言で全てを済ませ、何事もなかったように立ち上がった。その決然とした背中を見つめ、矢吹はまだ己の指先に残る如月の髪の感触をそっと噛みしめる。 あの髪に、頬に、当たり前のように触れていた日もあったのだ…。 「あんたは俺に興味なんてないくせに」 「それを言うなら、お前もそうだろう。一度たりとて、私自身のことを尋ねたことがあったかね?」 「そんなの別に…、どうだって良い」 「相変わらずだな、お前は。…変わらず、残酷だ」 「あんたほどじゃないと思うが」 寝台の中、白いシーツを身体にまとわせて、如月は小さな微笑みを浮かべた。柔らかな頬の線には、まだどこか幼い少年めいた甘さが残っている。 それを、あどけない…と思うのは、自分の罪悪感を打ち消したいが故か。おそらく彼は見た目ほどには、あどけなくも、幼くもない筈なのだから。 「そうだな…。酷いのは私だ」 天井を見上げて、独白のような呟きをこぼした矢吹を、如月が驚いたように見つめていた…。 その時の如月の黒い瞳の色ですら、思い出せそうな気がする。それは決して遠い過去のことではない。それでもあの時も、ほんの少しも二人の距離は近づいてはいなかったのだろう。 矢吹が手を伸ばせば触れられる場所に居る如月は、今もなお果てしなく遠い。 「お前も眠った方が良い」 傷ついた男の身を案じて立ち尽くす如月に、矢吹はそっと声を掛ける。 「必要ない」 如月はこちらを振り向くことなく、きっぱりと言い切った。 「輸血をしているだけじゃなく、頭の傷のこともある。今のお前には安静が必要だ。これは医者としての忠告だぞ」 重ねて説得する矢吹の想いが伝わったのか、如月はようやくこちらに顔を向けた。それでも発する言葉は拒絶ばかりだが。 「私はここを動く訳にはいかない」 …せめて、角松が目を覚ますまでは…。如月はそっと付け加える。 「意識が戻るまで、何日掛かるか分からないのだぞ」 「それでもだ」 頑固なところも相変わらずだ、と矢吹は心の中で溜め息を付いた。 「それに明日からは移動になる。休息を取っておかないと身体が保たない」 「移動?」 どこか愛らしい仕草で小首をかしげた青年に、思わず笑みを誘われながら、矢吹は深くうなずいた。 「この隠れ家も今の所は見つかっていないようだが、いつ関東軍がやってくるか分からない。私の家に踏み込まれた以上、ここもそう遠くないうちに見つかるだろう。だが、私はまだ捕まる訳にはいかないのでね。お前も同じだろう?」 「それはそうだが、いったいどこへ。こうなっては安全な場所など…」 「無論、閣下を頼るのは最後の手段だ。まずは天津に行こうと思っている」 矢吹の言葉に、珍しく如月は大きく目を見開いて、きょとんとした。 「どこだって?」 「天津だ」 「…正気か?」 驚く如月に、矢吹は不敵に笑いながら答えた。 「眠る気になったろう?」 からかうような響きを感じ取ったのか、如月は不機嫌そうに眉間にしわを寄せながらも、小さくうなずく。 「お前が傍に居ようが居まいが、彼の容態にさしたる影響はない。明日に備えて、今はゆっくりと休んでおくことだ」 多少の皮肉も含みはしたが、矢吹が如月の身を案じているのは本当だ。如月も不承不承ながら、うなずいた。 「あんたも休めよ」 「ああ、分かっているよ」 矢吹が微笑みながら答えると、如月はようやく納得したかのように背を向けた。それでも後ろを向く一瞬に、男が眠っている寝台に視線を投げかけたのを、矢吹は見落としはしなかった。 静かな夜の中に、如月が閉めた扉の音が響く。耳の中に残ったその音を厭うように、矢吹は深い吐息を付いた。 「…何故、私はこの男を助けたのだろうな…」 草加のためか、それとも如月のためか。 あるいは医師としての最後の良心がそうさせたのか。 矢吹自身にも分からなかったが、一つだけ分かっていることがあった。 おそらく自分は、この日のことをずっと後悔し続けるだろう。この男を生かしたことを、悔やみ続けるだろう、と……。 |