『不可侵領域』 |
(3)何度か運転を交代して、車はようやく北京に程近い場所まで辿り着いた。ここから天津まではもうそれほど遠くはない。すでに新京を経ってから、丸一日以上が経過してはいたが。そこで矢吹はおもむろに車を停める。如月が不審そうな目を向けるのにも構わず、車から降りた。 助手席側に回ると、如月もドアを開けて降りようとするので、それを無言で制止する。 「どうかしたのか」 形の良い眉をひそめる如月に、矢吹は微笑みを浮かべた。そして告げる。 「ここでお別れだ。もう一人でも辿り着けるだろう。この病院に連絡をしておいたから、患者を運び込めば、すぐに診てくれる筈だ」 そう言いながら矢吹は、無理やり如月の手に小さな手帳の切れ端を押し付けた。 如月はそれにすばやく目を走らせると、またすぐに顔をこちらに戻した。ますますその表情は険しくなっている。あまりにも分かりやすく表出する如月の感情に、矢吹はどこか満足感を覚えた。 「あんたはどうするつもりだ」 「心配してくれているのかね?」 からかうような口調が気に触ったのか、如月の声が一段階低くなった。 「質問に答えろ」 「私が天津に行く理由はない。とにかく新京から早く離れたかっただけでな。北京まで出ればどこでも身を隠す場所はある。そういうことだ」 それは嘘偽りない本心だ。むしろ今ここに如月と共にいることの方が、矢吹にとっては予定外なのだから。 そんな矢吹の内心を汲み取ったのだろう。険しかった如月の表情が少しやわらぐ。 「あんたの役目は終わったと?」 「そう取ってもらっても構わんよ」 「……そうか…」 如月はうつむき加減にそれだけを呟いた。そんな姿はまるで捨てられた子供のように心細げで、いとけなく見えた。 矢吹はたちまちひどい罪悪感を覚えるが、同時に、自分にはその資格すらないのだ、と思い直す。罪悪感などというものは、許されたい者が抱くのだ。決して赦されてはならない自分に、そんなものは必要ない。 矢吹は静かに目を閉じて、覚悟を決めた。 そしてまた目を開くと、今度は真っ直ぐに如月を見つめる。 「私を殺すかね?……克己」 敢えて、別れたあの日以来、呼んでいなかった名を呼ぶと、如月は一瞬驚いたように目を見開いた。 しかし、すぐに平静を取り戻し、車を降りてくる。 …いよいよか。 あるいは、この日が来ることをずっと待っていたような気がする。 今、矢吹の心は穏やかだった。如月の手に掛かって死ぬのなら、こんな自分にしては、ずいぶんと恵まれた最期ではないか。 大切に慈しみながらも、決して手に入れることの出来なかった存在。だからこそ、気のないふりをして、如月自身に全く興味のないふりをして、自分をも偽ってきた。 その罰がこれだとしたら、よほど自分は運が良い。 「どうした、やらないのか?」 武器のないことを示すように両手を広げて、如月の前に真っ直ぐ立つ。いまさら抵抗する気など欠片ほどもないが、たとえ矢吹が必死に抵抗したとしても、本気になった如月に敵う筈もないだろう。 それに何より、角松をこんな姿にした原因は矢吹にもある。少なくとも如月を裏切ったことは確かで、そんな相手をみすみす逃がしてやるほど、如月はお人好しではない筈だった。 矢吹が知っているかつての如月ならば。 しかし、矢吹をじっと見つめていた如月は、ほんのわずかに口角を持ち上げると、微笑みを形作った。 「なぜ俺があんたを殺さなきゃならない?」 「私を恨んでいないのか…?」 意外な想いで尋ね返した矢吹に、如月の笑みはますます深まる。 「あんたを殺して死んだ人間が生き返ったり、怪我をした人間が元に戻るのならば、俺も迷うことなく、そうしただろうな」 「…お前は私を赦すと言うのかね…?」 罪があるのは確かなのだから、罰せられるのが当然だと、そう思っていた矢吹は、おもいもかけない事態に途方に暮れた。 こんな如月は、…知らなかった。 …やはり、あの男が変えたのか…。 矢吹は思わず車の後部座席に目を向けた。その視線の意味を如月も分かっただろうか。 如月は相変わらず微笑みを浮かべ、こともなげに言ってのける。 「俺にはあんたを赦すことが出来るような、そんな人間じゃない。赦されたいなら他を当たってくれ。お門違いだ」 「…そうだな。もう私には、お前がその手に掛けるほどの価値もないな」 突き放されたような気がして、独白めいて呟くと、如月はすぐに応えた。 「それは逆だ。あんたは医者で、まだこれからもたくさんの人の命を救うんだ。ただ奪うばかりの俺とは違う。俺が死んでも、この先命を奪われる人間が救われるだけだが、あんたが死んだら、生き残れる筈の人も死んでしまうかも知れないんだ。そうだろう?」 「つまり…、私の価値は医者であることか」 この先、医者を続けて行くことが出来るかどうかも分からないのだが、如月がそう言うのならば、おそらくそうなのだろう。 「辞められるなら、とっくに辞めてるだろ」 「ああ…、そうだな」 矢吹はぽつりと呟いた。 医者としての使命感に燃えていた日のことなど、思い出せもしないほど遠い昔の話で、今はただ仕事だから続けていたに過ぎない。 如月が仕事で他人の命を奪うのと同じように、自分は救っているだけだった。結果の違いこそあれど、精神的には何ら変わりない。 だがそれでも、如月が自分が医者であることに価値を見出してくれるのならば、もうしばらくは医者であることを続けても良い、と思った。いつ辞めても構いはしなかったのだけれど。 「お前は…、それで良いのかね?」 もしかしたら聞いてはいけないことを、聞いているのかも知れなかった。 だが、踏み込むことが出来るのは今しかない。そこにある、と勝手に思い込んでいた如月の『不可侵領域』に踏み込むのは。 そもそも、如月に不可侵たるべき領域など、存在しないのだから。 そのことを矢吹は、あの男に教えられた。今は車の後部座席で昏々と眠り続けている男に。 境界を作り上げていたのは自分で、近づいてはいけないと思い込んでいたのも自分だ。だからこそ、如月もまた矢吹への境界を作り上げた。 かつての二人は、高い壁を隔てていながらも、それに気付かぬ振りをして、お互いに触れ合っているような気分に浸っていただけだった。 実際は、そこに壁など存在しないのに。 だから矢吹は、もう幻の壁も、境界も、不可侵領域も、見ることを止めた。在ると思うから在る、無いと思えば無い、単純なことだ。 そうしてようやく、何もかも取り払って、真っ直ぐに見つめた如月は、やはり変わらずいとおしかったから、それが答えなのだろう…。 「それで良いのかね?」 如月の応えがないので、矢吹はもう一度尋ねた。 すると如月はやはり静かに微笑む。これほどまでに笑みを見せてくれるのは、会うのもこれで最後だと思っているからだろうか。喜ぶべきか、悲しむべきか迷う矢吹に、如月は淡々と応えた。 「…私は、この生き方しか出来ない」 「……そうか」 口調が変わったことに気がついたが、それを言っても仕方がないことだった。自分を『俺』と呼んでいた頃のあどけなかった如月は、もうどこにも存在しないのだから。ただ、在りし日の幻を見せてもらっていたに過ぎないのだ。 「もう今更、信じてはもらえんだろうが、私は…、ずっとお前の幸せだけを願っているよ」 矢吹が心からそう言うと、如月は切れ長の目を驚いたように見開いて、それからすぐに、いたずらっぽく微笑んだ。 「それなら…、あいつの無事を祈ってやってくれ」 そう言うと、如月は親指を立てて、くい、と車の後部座席を指差す。矢吹がそれに無言でうなずき返すと、如月は安心したかのように背を向けた。 「じゃあな」 ずいぶんと軽い挨拶だけを残し、如月は車に乗り込んでいく。もちろん運転席側だ。 矢吹はそれにも何も応えることが出来ずに、ただじっと如月の小柄な背中や、細い肩や、風に揺れる黒髪を見つめていた。 そして車は走り去っていく。 荒っぽい排気音と共に、もうもうと砂ぼこりを撒き散らして。それは一人残された矢吹にも容赦なく襲いかかったが、それでも矢吹は立ち尽くしていた。 ただじっと小さくなって行く車だけを見つめていた…。 やがて、それも見えなくなった頃、矢吹はふと小さな笑みを浮かべた。先刻の如月の言葉の意味がようやく理解できたのだ。 ──自分の幸せを願うならば、あいつの無事を祈ってやってくれ。 つまりそれは、角松の存在こそが自分にとっての幸いである、ということなのだろう。どうやら矢吹は、盛大な惚気を聞かされたらしい。 「やはり…、助けるべきではなかったな」 かなりのやっかみを含んだ口調で、矢吹は一人つぶやくのだった…。 おわり |
ここまで読んで下さってありがとうございましたm(_
_)m
この話を書く前に、天津の場所を調べていて、 新京からのあまりの距離にびっくりしました。 こんな遠くまでラギ一人で、瀕死の角松氏を抱えて、 どうやって移動したんだ、と思ったら、 この話が出来ていたのでした。 でも多分、原作では矢吹さんとは 手術の後、すぐに別れている感じですよね。 まぁその辺は捏造で(笑)。 これでもそんなに原作とは齟齬がないと思うし。 ところでタイトルの「不可侵領域」が出てくるまで、 ずいぶん遅くなっちゃいました。最後の最後だもんなぁ。 そこが一番書きたい所だったのですが、 状況説明をしているだけで、長くなっちゃって…。 そのせいか、後半はモノローグばかりで、 すごく伝わりにくい文章になっていると思います。 力不足を痛感しました。スミマセン…。 次は頑張ります(苦笑)。 とりあえず『俺』口調の如月さんを書くのは楽しかったです。 2005.06.29 |