【えせほし─似非星─ 】 kyo-ko

『籠の鳥』

(5)


 『角松を解放しよう』
 そう立石は言わなかっただろうか?

 男の言葉がゆっくりと頭に染み透ってくると、ようやく気持ちも落ち着いた。如月は笑いを収め、驚いて傍らの男を見返す。
 しかし、立石の色素の薄い琥珀色の瞳も、どこか困惑しているように見えた。

「本当か」
 いつでも傲然と不敵な笑みを浮かべていた男の、珍しくも煮え切らない態度に、如月は不審げに訊ねる。


 すると立石は額に落ちかかった髪を、無造作に掻き上げた。
 おそらく仕事中はきっちりとまとめられているのだろうが、今は眠っていたこともあり、前髪も乱れている。そこがまた、ぞくりとするような男の色気をかもし出していたけれど、もちろん如月は、その程度で篭絡されるほど甘くはない。

 が、何故だか瞳は、立石の一挙手一投足を追ってしまう。
 男は如月の視線を斜めに受け止めながら、困ったように微笑んだ。
「私には角松を解放する権限はない。しかし誰かに奪われてしまったのなら、仕方がないことだ。無論、失策を咎められはするだろうが、君に短刀を突き立てられるよりは良いからな」

「真意は何だ」
 如月はなおも追及をゆるめない。立石という男の人間性までは良く分からないが、そう簡単に自分に不利なことをするとは思えなかった。何か裏がある筈だ、と如月は確信した。


 しかし、立石は如月の鋭いまなざしにも、薄笑いを返すばかりだ。
「信用がないのだな」
「これまでの言動を思い返せば当然だろう」
「少々やりすぎたかと、後悔しているよ」
「白々しいことを言うな」

 如月の顔が怒りに震えると、それに反して立石の笑みは深くなる。
「君は、私が何かを企んでいるのではないかと思っているのだろう?」
 如月は何も答えはしないが、それが肯定の証だった。
 立石は言葉を継ぐ。
「生憎だが、何もない。私はそれほど深慮遠謀が得意な方ではなくてね。いつでも目の前のことを見ているだけの小者さ」

「そうは見えない」
「今も私の関心事は、目の前の君のことだけだ。やはり君には絶望よりも怒りが似合う。怒りに燃えた君は美しい。とそんなことをね」
 立石は冗談めかした口調で言いながら、喉の奥でくつくつと笑った。


 …やはり揶揄されているだけか。
 いつまでも、この男の悪ふざけには付き合っていられない。如月はもう一度念を押した。
「角松を、解放するんだな?」
「いや、君が勝手に奪って行くだけだろう? 私は知らんよ」

 そう言いつつも、立石は寝台の脇に置かれていた机の引き出しから、小さな鍵を取り出す。それを如月の方に放り投げて、しれっと言ってのけた。
「それが角松を捕らえてある部屋の鍵だ。安心したまえ、丁重にお預かりしているよ。多少は弱っているかも知れんが、君が迎えに行けば、自力で脱出することも可能だろう」


 如月は恐る恐る鍵を拾い上げた。まだ立石を完全には信用し切れない。これも何かの罠かもしれなかった。
 が、他にすがるものがないことも確かだ。
「何故こんなことを…?」
「さあ…、私にも分からん。ただ…、そうだな。野生の鳥には籠の中よりも、自由な世界が似合うから、と言っておこうか」

「意味が分からない」
 立石良則という男の何もかもが如月には理解出来なくて、形の良い眉を思い切りひそめた。そうすると立石が喜んでしまいそうだと思いながらも、この男の前では感情をむき出しにしてしまう。一度全てをさらけ出してしまったからだろうか。

 案の定、立石は琥珀色の瞳を細めて、楽しげに微笑んでいた。
 如月は小さく吐息を付く。そして手の中の鍵を握りしめた。ごつごつした金属が手のひらに食い込んで、白い肌の上に桜色の痕を残す。


 ……この鍵が私と角松をつないでいる。
   これがある限り、私は大丈夫だ…。


 如月は覚悟を決めた。立石の方に身体ごと向き直り、きっぱりと言う。
「私を、抱くが良い」
「それは…、何の冗談かな」
 突然の如月の言葉をにわかには信じられないのだろう。立石は表情を変えることなく、薄笑いを浮かべたままだ。

 如月はそれに構わず言葉を継ぐ。
「角松を解放する条件は、一晩あんたの物になることだったな。だが私には差し出せるものが他にない。…この身体だけだ」
「だから私に抱かれると?」
「そうだ」
 如月の決心はもう揺らがない。


 すると初めて立石の表情が変わった。鋭い光を放っていた琥珀色の瞳が、穏やかな深い色に染まる。それは静かな哀しみに縁取られていた。
 …いや、憐れみだろうか。
 つと視線を下に落とすと、独白めいた呟きをこぼす。
「君という人は…」

 そしてまたこちらに顔を上げた時は、すでに元の立石良則だった。
「呆れたよ。義理堅いと言うのか、律儀と言うのか…。私にそこまでする理由など、君には無いだろうに。ずっとそうやって生きてきたのかね?」
「私はこんな風にしか生きられない。それに…」
「ん?」

 立石の低く響く声に促され、如月は続ける。
 不敵な笑みを浮かべながら。
「…あんたには借りを作りたくないからな」
「なるほど、尤もだ」
 立石もまた、弾かれるように笑う。傍らの如月が思わず見惚れてしまうほど、明るく屈託のない笑みだった。

「私としては…、君にたくさん貸しを作っておきたい所だが、君がそこまで言うのなら、仕方がない。それで手を打とう」
「そうして頂けるとありがたい」
 二人は顔を見合わせて、また笑う。


 如月は不思議だった。
 どうしてこんなに穏やかな空気が流れているのか。あれほどまでに憎んだ相手だというのに。まだ右腕は鈍い痛みを訴えてくるというのに。どうして自分は笑っているのだろう。どうしてこの男の隣は、居心地が良いのだろう。

 そこでようやく如月は気が付いた。
 自分が変わったのではない。立石が変わったのだ。

 如月を警戒し、信用せず、一歩たりとも自分から近寄ろうとはしなかった男が、いつしか如月を受け容れてくれている。自分のテリトリーの中に如月が存在することを、認めてくれたのだろう。

 だから如月も、無意識に張っていた戦闘態勢を解除する。何もまとうことなく、全てをさらけ出す。
 そうしないと、この男とは向き合えない。互いに何もかもを脱ぎ捨てて、身も心も裸になって、ようやく近づくことを許される相手なのだ。


 …まさに野生の獣だ。
 如月は感嘆する。

 こちらが武器を捨て、身にまとっている鎧を捨て、何一つ隠すことのない状態になって初めて、触れることが適う相手。そして、だからこそ、触れ合った時の喜びも大きい。

 こんな男は知らない。こんな人間は知らなかった。

 男は如月を小鳥に例えたが、それなら立石は孤高の獅子か。誰も近づくことの出来ない高みに傲然と寝そべっているそのしっぽの先に、迷い込んだ小鳥は留まることを許されたのだろう。
 如月の心に、初めて立石への興味が湧いた。

 もっと知りたいと思った。もっと近づいてみたいと思った。あるいは不用意に触れれば、噛み殺されてしまうかも知れなくとも。


「…抱かないのか?」
 誘うように甘くささやいてみると、男はやはり不敵に笑った。
「そこに立ちたまえ。その腕では自分で服を脱げないだろう。私が脱がせてやろう…」

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