【えせほし─似非星─ 】 kyo-ko

『籠の鳥』

(4)


「大丈夫かね?」
 男のしなやかな指先が頬に触れるのを、如月はぼんやりと感じていた。その手があまりにも冷たくて、まるで氷を押し当てられたようだったけれど、それだけに心地良かった。沸騰した頭も覚めて行くようだ。

「発熱しているな。腕のせいか…」
 医者が診療してでもいるかのような静かな男の声が、如月の耳元で響く。お前のせいだと言ってやりたかったが、今の如月には指一本動かすほどの力も残っていなかった。

 それを立石も分かっているから、これほどまでに無防備に近寄ってくるのだろう。本来の状態であれば、たとえ素手でも遅れを取るような如月ではない。


 と、いきなり身体がふわりと浮かんだ。
 立石によって横抱きに抱え上げられているのだと、如月はもうろうとする意識の中で、どうにか認識する。これではまるで新郎によって寝台に運ばれていく花嫁だ。

「……何、を…」
 必死に声を振り絞ると、立石はこともなげに言う。
「その腕をどうにかしないとな。医務室には当直の者も居る筈だ。応急手当くらいは出来るだろう」

 如月は何も応えることが出来なかった。立石の目的も行動も意図も、何もかもが理解出来ない。いったい自分をどうしたいのか。自分に何を求めているのか。
 …それはもしかしたら、立石自身も分かっていなかったかも知れないのだけれど。

 大人しく立石に運ばれながら、如月は覚悟を決める。

 このまま治療をするとしても、その後は角松と共に囚われるのだろう。
 助けに来ておきながら、救うことはおろか、負傷したとあっては単なる足手まといだ。迷惑以外の何者でもない筈だが、きっと角松は一言も責めはしないと分かっていた。

 その優しさが、今はどうしようもなく辛い如月だった…。


 程なくして、治療は滞りなく終わった。医務室ではむろん如月に不審な目を向けられたが、立石の一言で片付けられた。誰もがこの男を怒らせてはいけないと知っているのだろう。
 如月の右腕には痛々しい白い包帯が巻かれた。支那服から右腕を出すことは難しかったので、上着はただの白いシャツに着替えさせられている。これも立石の指示だ。

 薬が効いたのか、如月の意識は徐々にはっきりしてきた。また同じように抱きかかえられて、どこかの部屋に戻った時には、もう自分の足で歩けるほどに回復していたが、立石が下ろしてはくれなかった。


「どこへ行くつもりだ」
 尋ねた如月に、やはり立石は楽しげに応える。
「無論、私の部屋だよ」
 その言葉どおり、扉を開けると見覚えのある部屋だった。角松と共に囚われなかったことに安堵しながらも、これもほとんど虜囚と変わりはしないのだろう、と思い直した。

 今は灯りが付けられているから、中の惨状も手に取るように分かる。
 見るからに争った形跡の残った寝室。窓は大きく開け放たれ、カーテンがはためいている。枕や毛布が床に散らばり、シーツは乱れ、壁には刺さったままの短刀。ひどい有様だ。

「眠れるような状態ではなさそうだがね」
 男はくつくつと喉の奥で笑った。
 それには構わず、如月はきっぱりと言う。
「下ろせ」
「仰せのままに」
 あくまでも立石の冗談めかした態度は変わらない。


 それでもこの男が常軌を逸していると思うのは、如月を自分の寝台に下ろしたことだ。しかもちょうど左手が、壁に刺さった短刀に届くような位置に。偶然ではあるまい。そんな迂闊な男ではないだろう。
 男の意図は相変わらず読めなかったが、如月は迷わず壁から短刀を引き抜いた。目の前に使える武器があるのに、手に取らないのは馬鹿げている。

 そして立石は、と見れば。窓を閉めてカーテンを直していた。…如月に背を向けて。
 如月は心底から呆れた。
 刺してみろ、その短刀を投げてみろ、とでも言われているようで、如月はそれならば挑発に乗ってやろう、と短刀を構える。


 …が、投げることは出来なかった。
 理由は分からない。自分の腕のことや、角松のことを思えば、同情の余地などない。何も命まで取ろうとは思わない。ただ自分と角松が逃げ延びるための時間を稼げれば、それで良い。
 そう思ったが、やはり出来なかった。

「投げないのかね?」
 背を向けたままで男が尋ねてくる。

 …試されていた…?
 如月の頬がかあっと紅潮した。怒りのためか羞恥のためか。
「くそっ」

 如月にしては珍しく口汚い言葉を発し、手にしていた短刀を思いきり壁に叩きこんだ。上質そうな壁紙が切り裂かれてめくれ、短刀は勢いのあまり、形がいびつに歪む。こうなっては投げても的には当たるまい。


 武器として不完全かつ不恰好な姿を、屍のようにさらす短刀を見つめ、如月はまるで今の自分のようだと思った。

 心は立石を明らかに『敵』と認識しているのに、手を出すことが出来ないなんて。
 自分でも自分が理解出来ずに、唇をきつく噛みしめる如月に、ゆっくりと振り向いた立石は予言のように告げた。
「今やらねば、いずれ後悔するぞ」

「ああ、そうだろうな…」
 如月はうなずく。すでに今も十分に後悔している。これからも何度も後悔するに違いない。それでももう武器はない。素手で、しかも片腕でこの男に勝てるとも思えない。万事休すだった。


 ふいに、如月の喉の奥から笑いが込み上げてくる。ひどく乾いた酷薄な笑いが。
「これで満足か、立石。お前の望みどおり、私はこれ以上はないほどに絶望している。この顔が見たかったのだろう? 私を苦しめたかったのだろう? さあ、喜ぶがいい!」

 如月は狂ったように笑い続けた。どこか心のたがが外れてしまったのか。その有様には理性の欠片も存在しなかった。


 すると立石は、如月と並ぶように寝台に腰を下ろす。そして笑う如月を、傷ついたようなまなざしで見つめると、そっとつぶやいた。
「今の私はそんな君を見ても、少しも喜ばしいとは思えない。何故だろうな…」
 そのまましばらくの間、立石はなにやら考え込んでいたが、やがて意を決したように、如月にきっぱりと言いきった。

「分かった。角松を解放しよう」

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