【えせほし─似非星─ 】 kyo-ko

『籠の鳥』

(3)


「如月か…、良い名だな。まさに月の如き君に、相応しい」
 立石は意外なほどにやわらかく微笑むと、臆面もなく、そんなことを言う。腕を折られた相手に言われても嬉しくもないが、男の態度に如月の胸の奥がざわりと揺らめいた。

 この感覚には覚えがあった。
 これまでの任務において、命を失うかもしれない危機に何度も直面した。その度に身体の奥の方から、まるで警告を発するかのように、不安げな揺らめきが襲ってきた。本能というものだろうか。それが如月を救ってきたとも言える。


 そして今も。
 立石と対峙していると、如月は得体の知れない恐ろしさしか感じない。
 腕を折られたことではなく、もっと根源的なことだ。自分も任務であれば、平気で人を傷つけ、殺すこともある。立石も同じだろう。それは良い。そこまでは理解できる。如月とて逆の立場なら同じことをした筈だ。

 しかし、自分を殺そうとした相手に向かって、平気で微笑みかけ、賛美の言葉すら与えるとは…。如月には立石がこの状況を楽しんでいるとしか思えなかった。それが理解出来ない。

 角松であれば、自分を狙った相手にも、警戒心のない明るい微笑みを向けることすら、やってのけるかもしれない。そのくらいの度量の広さはある男だ。
 如月にはそれも理解出来ないが、そこがどうしようもなく惹かれてしまう理由でもある。

 だが立石は、如月への警戒を解いてはいない。それどころか欠片ほども如月に心を許してはいないことも伝わってくる。
 それなのに、何故、あんな微笑みを浮かべることが出来るのか。何故、あれほどまでに楽しそうな表情を浮かべているのだろうか…。


「要求を聞こう」
 如月は立石をほとんど無視するように、単刀直入に本題に入った。
 そのことが、またも男を悦ばせたようである。立石の笑みはますます深まった。
 そして、やはり楽しげに応える。
「なに。難しいことではないよ。君が私の物になってくれれば良い。
 …永遠に、と言いたい所だが。
 そうだな、今宵一夜限りとしておこう。とりあえずはね」

 立石の言葉に、如月は少なからず落胆した。
 これまでにも如月を抱きたいと言う男など幾らでもいた。この男もやはり同じなのか、と思った。好色で独占欲が強く、己の意のままになる人形が欲しいだけなのか、と。
 場合によっては、その望みを叶えてやることもあったが、如月からすすんで身を任せたことはなかった。

 求められずとも自分から身体を差し出したのは、たった一人の男だけだ。誰に抱かれても求められても満たされることのなかった如月が、ただ一人、執着した男はいま、目の前の男に囚われている。
 彼のためになら、いくらでもこんな身体くらい投げ出せる。むしろ、この程度で良いのか、とホッとしたくらいだった。

 それが甘すぎる認識であったことを、如月はすぐに思い知らされることになるのだけれど…。


「つまり、あんたに抱かれろということか」
 如月が尋ねると、立石はくすりと笑った。
「生憎だが、私にはその手の嗜好はない。だが、なるほど君となら楽しめそうだ。悪くはない提案だな」

「要求は何か、と聞いている」
 身体を欲しているのではないとすれば、いったい何をもって『私の物』と認識するのか。如月にはそれ以上に差し出せる物など存在しない。
 すると立石は舌先で薄い唇を舐めながら、鋭い瞳を糸のように細めた。にやり、と音がしそうな笑みに、如月の背が総毛立つ。

「君を泣かせてみたいんだよ。その美しい顔が、絶望と悲嘆に染まるのを見たいんだ」
 立石の言葉に如月は絶句する。
「……加虐趣味か」
「そのような言われ方は心外だな」
「だが、その通りだろう」

 如月の声が荒くなると、男はまた無邪気とも呼べるような笑い声を立てた。
「…良い顔だ。君は怒るとますます美しくなる。ずっとそうやって居てくれないか。それだけで十分だ」
「ふざけるのも大概にしてもらおう」
「私は本気だよ」
 立石は笑っている。本当に楽しそうに。


「…理解出来ない」
 困惑のあまり如月がつぶやくと、立石は思いもかけないことを言った。
「それならば、こう言えばお気に召すかな。君がずっと笑顔で居てくれれば良い。君の笑顔を見ることが私の幸せだよ、…と」

「え…?」
 それはかつて、如月が角松に言われた言葉だった。
 出会った頃はほとんど笑顔を見せることもなかった如月だが、徐々に打ち解けるようになると、微笑みを浮かべることも出来るようになった。そんな時、角松が言ってくれたのだ。
 『…あんたはそうやって笑ってろよ。その方がずっと良いぜ』…と。

 ふいに甦って来た愛しい男の面影に、戸惑いを隠せない如月に、立石は容赦なく追い討ちをかける。
「今の台詞と、私の先刻の台詞と、いったい何が違うと言うんだね?」
「何を馬鹿なことを…」

「馬鹿なものか。私が君に求めているものは、怒りや悲しみであるかも知れないが、どちらも同じ感情の発露だろう。
 君が必死に隠そうとしている心を露わにしたいと、その頑なな鎧を剥ぎ取ってしまいたい、と望んでいるだけなのだよ。
 私も、…君の大切な男もね」

 男の声はまるで蜜のように甘い。いや、徐々に身体を蝕み侵していく毒のように、触れた皮膚から染みとおって、気付いたら手遅れになっている、そんな声だった。
 …惑わされてはいけない。この男は自分を揶揄して楽しんでいるだけだ。乗せられてはいけない。怒ったら、感情を剥き出しにしたら、相手の思う壺だ。


 如月の心の一部は必死に警告を発していたけれど、唇から勝手に溢れ出る言葉は、もう留めることが出来なかった。
「…違う、違う、違う…ッツ!
 お前なんかとは違う。お前のような卑劣な人非人じゃない。角松は…、角松は私のことを思って…ッ!」
「私が君のことを思っていないとでも…?」
「いるものか…ッツ!」

 これほどまでに感情的になったのは初めてだった。
 左手に持っていた短刀を、ろくに狙いも定めずに投げつける。当然ながら立石にはかすりもせず、男も微動だにしなかった。
 如月は燃えるような目で立石を睨みつけた。それでも立石は変わらず、薄ら笑いを浮かべている。

 そこが我慢ならなかった。どうにかしてその仮面のような笑いを剥ぎ取ってやりたかった。
 それは先刻、立石が如月に求めたものと同じ感情だ。しかし如月本人は気が付いていない。そんな余裕はなかった。

 目の前が深紅に染まり、如月はただひたすら思いつく限りの罵倒を、笑いを浮かべ続ける男に浴びせた。自分の中にこんな煮えたぎるマグマのような感情が眠っているとは知らなかった。
 全てを解放することで、心のどこかでは快哉を叫んでいたことも自覚していたけれど、もちろんそれを立石のおかげだと感謝する気にもならなかった。


 そして吐く言葉すら無くなった時、如月はぐったりと床に倒れこんでしまうのだった…。

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