【えせほし─似非星─ 】 kyo-ko

『籠の鳥』

(2)


「…ん…ぁあ…ッツ」
 鈍い音と同時に放たれた苦しげな声に、男は事態を悟った。
 …折れたな。

 ある程度は加減していたつもりだったが、どうしてもこの小鳥を逃がすまいとしたせいで、力が入りすぎてしまったのだろうか。折れても構わないと思ってはいたが、実際に折ってしまうと、さすがの男もほんの少したじろいだ。

 そして、その隙をつかれた。
 すかさず逃げ出した侵入者は、床に落とした短刀を拾い上げ、左手で構える。服の上からでも右腕が力無く垂れているのが分かった。
 開け放たれた窓から、月光が差し込む。そこに立つ侵入者の輪郭も浮き彫りにして。
 その姿に男は思わず息を呑んだ。


 …まさか、これほどとは。

 濃緑の支那服に身を包み、白い額に落ちる長い前髪が、風にふわりと揺れる姿に目を奪われながらも、どうしてもこれが現実のものとは思われなかった。
 あるいは月光が人の形をとったら、こんな風になるだろうか。

 しかし、青年の形の良い唇からこぼれるのは、似つかわしくない殺伐さだった。
「次は…、殺す」
「あの男が死んでも良いのかね?」
「そんな言葉を信じるとでも」
「…それなら好きにしたまえ」

 男は不敵な笑みを湛えたまま、両腕を広げた。何故かは分からないが、自分は殺されないという確信が在った。目の前の美しい小鳥が、全身から殺気を立ち上らせていても。
 いや、それだからこそか。殺気を消すことすら出来ないほどに、取り乱した相手に遅れを取るほど鈍くはない。ましてや片腕ならば尚の事。


 男の余裕が伝わったのか、支那服の青年は、それ以上こちらに近づいて来ようとはしなかった。そこで男は追い討ちをかける。
「その腕では、大切な男を助けるのはおろか、逃げることも出来まい? いったいどうする気だね。それとも…、本当にその背に羽根があるとでも言うのなら、話は別だが」
「ある訳がない」

「そうだろうな」
 男は喉の奥で、くつくつと笑った。どうやら青年は冗談がお気に召さないらしく、言うたびに端正な容貌が険しくなってゆく。そんな顔すら美しく、男の心を揺り動かした。

 こういう相手は、微笑ませるよりも怒らせてみたい。そしてそれより啼かせてみたい。苦痛に喘ぐ様も、悲嘆に暮れる顔も、さぞや美しいことだろう。
 男の目がまるで蛇のように細められる。獲物はむろん、目の前の青年だ。


「私の言うことを聞くならば、ここから逃がしてやっても良いが」
「断る」
 青年は即答した。その潔さも、踏みにじりたくなるほどに心地良い。
「ならば、ここで死ぬか? それとも危険を承知で逃げてみるか。自殺行為に等しいがな」
 男の唇から笑みは消えない。からかうような声音もまた。

 それも当然だ。男は分かっていたのだから。この美しい青年が、自分に屈するより他に、道がないことを。

 青年が助けようとしている男は、彼の死を望まない。そしてもちろん青年は、囚われの男の身を危険にさらすことは出来ない。そしてここは三階だ。窓から飛び降りるのは、文字通り自殺行為である。
 手負いでなければ、他にも方法はあったかもしれないが、おそらく利き腕の右腕を折られた以上、出来ることは限られているだろう。


 青年はきり、と唇を噛みしめた。ただでさえ赤みを帯びた薄い唇が、ますます艶めかしく朱に染まる。
 やがて、意を決したかのように言った。
「あんたの要望を受け容れる前に、こちらにも条件がある」
「聞こう」
「私はどうなっても構わない。だから角松を解放して欲しい」
「自己犠牲か…。ずいぶんと涙ぐましいことだ」

 男は、欠片ほども迷いの見えない青年に、かすかな哀れみを覚えた。これほどの想いが相手に伝わっているのだろうか。だとしても、おそらく報われることはあるまい、と。

 …私ならば。

 ふと、そんな言葉が心をよぎる。
 それに気付いて、男はあまりの愚かしさに苦笑を浮かべた。自分ならばどうしてやれるというのか。会ったばかりの、名も知らぬ青年に。ましてや、この青年が求めているのは自分ではない。


「解放するのか、しないのか」
 青年が焦れたように訊ねて来た。意外と短気なのだろうか。
 男は困ったように微笑みながら応える。
「それは私の一存では不可能だな」
「あんたがここの最高責任者ではないのか」

 だからこそ、ここを狙ったのだ、と言う口調に、男は内心でほくそ笑んだ。青年が狙ったのが他の者であれば、まんまと目的を達成していたに違いない。
 この部屋を選んでしまったのが、青年の不幸であり、男の幸運であった…。

「それでも出来ることと出来ないことがある。君を逃がすことくらいは出来るがね」
「私は逃げない」
「ならばどうする?」
 男の問いに、青年はほんのわずかに考え込むような表情を浮かべたが、またすぐに切れ長の黒い瞳をこちらに向けた。

「あんたの要求は呑む。その代わり、角松には手を出すな」
「良かろう」
 男は笑った。今までに、これほどに明るい笑顔を浮かべたことはないくらいに。


 …逃がしはしない。私の小鳥。

 男の高笑いが闇に包まれる部屋の中に、響いては消えて行った。
 そして男は謳うように尋ねる。
「君の名を聞こう。私は立石良則だ」
 青年は、そっと目を伏せると、消え入るような声で答えた。

「……如月克己」

<<BACK     NEXT>>

戻る     HOME