【えせほし─似非星─ 】 kyo-ko

『1/4の絆』

(2)

 どんな夢を見ているのか、角松は、ケイコ、カズヒロ、としきりに繰り返す。
「そうか…。そうだったな…」
 如月はぽつりと呟くと、放心したように椅子に腰掛けた。正直に言えば立っていられなかったのだけれど。

 このような状態で呼ぶ名前だ。特別な存在であることは間違いない。角松には還る場所があり、待っている人がいるのだと、認識していたつもりでも、実際には分かっていなかったのかもしれない。
 自分がその人たちの代わりになれるとは思わないし、そんなことは思いもしないが、角松がこちらにいる間だけは、彼の寂しさや苦しみをまぎらわせてやれるのではないか、と自負していた部分はある。

 彼の抱いている喪失感を、少しでもやわらげることが出来るのではないか、と。
 しかし、それは如月の自信過剰でしかなく、自分の存在は角松には何の慰めにもならないのだと思い知らされたようだった。

 如月は、何かにすがるように、無意識にテーブルの上に左手を伸ばした。かさり、と乾いた音と共に、ざらつく感触が指先に残る。ハッとして目を向けると、そこには自分で持ってきた新聞があった。
 反射的にそれを手に取り、並んでいる細かい活字を見つめてみても、内容はこれっぽっちも頭に入ってこない。ただ、それでも闇に沈もうとしていた意識を、現実に引き戻すことには役立ってくれた。


 それからは、どうにか平静に話すことが出来たと思う。
 叫びにも似た声をあげて目を覚ました角松に、あえて家族の話から始めた。自分が気にも留めていないということを再確認するかのように。

 『ケイコと…、カズヒロ…というのか、家族は』
 『ようやくお目覚め…だな』
 そんな軽口めいた台詞を柄にもなく言って、微笑んでみせることすら出来たのだから、自分で健闘を称えてやりたいほどだ。

 しかし、目覚めた角松は、ひどく驚いた顔をしていた。まるで幽霊でも見たかのような。
 いや、おそらくすぐに如月の顔を認識できなかったのだろう。彼が長年連れ添ってきた家族との絆に比べ、如月との繋がりは短くて薄い。長時間の昏睡から目覚めてすぐには、如月を思い出せなくても無理はない。
 あるいは、どうしてそこに妻や息子がいないのか、と違和感を覚えていたのだろうか。


 角松がようやく自分の置かれた状況を把握し、瞳に宿った光が落ち着くと、如月もまた本来の自分を取り戻すことが出来た。それはきっと角松が草加の名を出したことと無関係ではない。

 角松と言う男はいつもそうだ。
 いつもここではない、どこか遠くを見つめている。如月ではない他の誰かのことを考えている。それこそが如月に心を許している証拠なのかもしれず、甘えているだけなのかも知れないけれど。

 そして、それを無邪気に喜べるほどには、如月の心は広く出来ていないのだ。残念ながら。
 その後は事務的としか呼べない、そっけない対応に終始し、角松に全ての説明を済ませると、適当な口実を作って病室を後にした。


 自分の愚かさが身に沁みたのは、宿に戻ってベッドに横になってからだった。
 あの時の角松は、生死の境をさまよった末に、ようやく意識を取り戻した所だったのだ。もう命に別状はないとは言え、知らない場所での不安もあるだろう。ただでさえ異国の地なのだから。

 今頃は心細く思っているだろうか。如月の様子がおかしかったのを不審に思っているかも知れない。それでも今、角松が自分のことを考えてくれていたら、どれほど嬉しいだろう、と如月は思った。
 きっと角松は、自分のことなど欠片も思い出していないだろう、という確信もあったのだけれど。


 昨日の反省から、今日はもう少し角松に優しくしてやろう、とそんなことをぼんやり考えながら、習慣のように新聞に目を向けた如月は、その片隅に小さな広告を見つけ、絶句した。
 『書生募集』という書き出しで始まるそれは、ごくありふれた広告のようであったが、そうではないことを如月は誰よりも知っていた。まぎれもなく角松への帰還命令だった。

 …角松は、行ってしまうのだ。

 如月はその事実に、自分が予想以上の困惑と戸惑いと、喪失感を覚えていることに、自分自身でも驚いた。
 覚悟はしていたはずではないか。
 いつか別れがくることは分かっていたはずではないか。

 そもそも当初は、これほど行動を共にする予定ではなかった。草加がすぐに見つかれば、そこで任務は終わっていただろう。
 しかし幸か不幸か、草加は式典パレードの時まで動くことはなく、如月と角松はつかの間の安らぎを楽しむことが出来た。

 ほんの一週間ではあったが、あれが二人の蜜月であり、一番幸福な時間だったのだ、と今になって、如月はほろ苦く思い出す。
 自分を抱きしめる強い腕も、耳にささやく甘い言葉も、髪を撫でる武骨な指先も、何もかも色鮮やかに、如月の心にまだ留まっているのに。

 もう終わってしまうのだろうか…。


 心ここにあらず、という状況でも、足は自然と角松の元へ向かっていた。いつの間にか病室の扉が目の前にあり、如月は小さく微笑む。
 二人の最初の夜を思い出した。やはりあの時もこうして如月が角松の部屋をノックしたのだ。コンコンと二つ、そして少し置いてコンと一つ。如月が決めた合図に、角松はすぐにドアを開けてくれた。

 あの日に戻れたら、と思った。
 もう一度やり直したら、次はこれほどまでに角松に心を奪われずに済むだろうか。何もなかったように笑って、『元気で。またいつか』そんな風に明るく別れられるだろうか。

 二人が出会ってから三週間ほど。
 その時間を短いと思うか、長いと思うかは人それぞれだろうが、如月は永遠にも似て思えた。この三週間と、それから角松が無事に還ることが出来るようになる日までの時間と。

 それだけが今の如月に許された、角松を所有できる時だった…。


 コンコン、コン…。
 如月は病室のドアを叩いた。
「どうぞ」
 すぐに扉の向こうから声が掛けられる。

 中に入ると、もちろんそこには明るい笑顔で迎えて抱きしめてくれる男…ではなく、ベッドに横たわる怪我人が居た。如月はすぐに、二人が出会った日の夢想から醒めて、痛々しい姿の角松を見つめた。

 その目だけは強い意志を抱いて、炯々と輝いていたが、それだけにベッドに縛り付けられているのが気の毒だった。
 如月は巣立っていく雛鳥を見つめる母のようなまなざしで、角松に帰還命令が出ていることを告げた。その瞬間、今すぐにでも飛び立とうとする男の姿に、言い知れない想いを抱きながら。

 この男を繋ぎ止めておくことは出来ない。
 さりとて、再び自分の元へ戻ってくる保証など、どこにもない。

 如月は、ケイコでもカズヒロでもない。角松の友人でもなければ、未来から共にやってきた仲間でもない。もちろん恋人などで在りはしない。
 だからこそ、何かの絆が欲しかった。そんな想いが如月に言わせたのだろう。
 …あの一言を。


「4分の1は…同じA型の、私の血だ」


 本当はそんなこと言うつもりではなかったのだ。
 それはただの輸血に過ぎなくて、立場が逆なら、角松もためらうことなく如月に血を分けてくれただろう。二人が同じ血液型だった偶然が幸いしただけで。

 ましてや、こんなことを言ったら、角松は責任を感じるに違いない。そういう点では不器用で真っ直ぐな男だ。草加のことを考えても分かる。
 如月がしてやったことを、どうにかして返そうと思うだろう。あるいは罪悪感すら覚えるかもしれない。

 しかし、それは如月の本意ではなかった。角松には何にも囚われずに、何も考えずに、自然でありのままでいて欲しかった。それこそが如月が惹かれた角松洋介なのだから。

 それでも言ってしまったのは、如月の愚かさだ。
 この後別れたら、もう二度と会うことは出来ないかもしれない人に、何かを残したかった。自分のことを覚えていて欲しかった。記憶の片隅にでも存在していたかった。


 それほどまでに、……愛していた。

 これからもずっと愛し続けられるかどうかは分からないけれど、それでも如月は、最期の時まで自分は角松のことを忘れない、と知っていた。それは確信だった。角松は自分の中で永劫に生き続けるだろう。
 そして如月の血もまた、角松の中に眠っている。彼の命の源となり、脈々と、彼の中で流れ続けるのだ。

 そのことだけは角松に知っていて欲しかった。覚えていてくれなくても良い。自分のこともいつか記憶の彼方に捨て去っても。そんな絆が存在していたのだと、それだけを心に刻み込んでくれれば、十分だった…。


「如月、俺は…」
 困惑して、言いよどむ角松に、如月はやわらかな笑みを浮かべる。
「果物でも買ってきてやろうか?」
 角松の答えも待たず、すかさず帽子を手にして、如月は背を向けた。するとそれを追いかけるように角松の声が耳に届く。

「ここに居てくれ、如月…」
 その言葉を噛みしめるように、静かに目を閉じて聞いていた如月だったが、すぐに振り返ると、角松の枕元の椅子にそっと腰掛けるのだった…。


            おわり        

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ここまで読んで下さってありがとうございましたm(_ _)m

何となくここで一段落という感じでしょうか。
もちろんその後の話も書きたいですし、
書くつもりでもいますけど。
二人が初めて出会ってから、この日を限りに、
蜜月の時は終わってしまったのだろうな、と思います。

ところで。
この話を書く前に、例の場面を読み返していて、
ようやく気が付いたんですけども、
角松氏が昏睡から目覚めた日と、
「1/4」の日は同じじゃないんですね。

どうも如月さんが帽子を脱いだりかぶったり脱いだり
忙しいよなー、と思っていたんですが(笑)。
という訳で、一応翌日ということにしておきましたが、
もしかしたら、もっと時間が空いているのかも。

その辺は例によってテキトーで。すみません(苦笑)。

2005.07.14

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