【えせほし─似非星─ 】 kyo-ko

『1/4の絆』

(1)

 ──あんなこと、言うつもりではなかったのだ、…本当は。


 矢吹と別れ、教えられた病院にどうにか辿り着くと、すでに矢吹の指示が通っていたらしく、角松は担架に乗せられて、どこかへ運び去られてしまった。一人残された如月は茫然と立ちつくす。
 しかし、この長旅で角松の身体にはかなりの負荷が掛かっていた筈だ。一刻も早く適切な治療をしてもらえるならば、その方が良い。まだ容態は安心出来ないだろうが、それでもここまでやって来たことで、如月はようやく安堵した。

 すると、張りつめていたものが失われ、如月は軽いめまいに襲われる。ふらつきながら手近な柱に寄り掛かると、後ろから看護婦に声を掛けられた。
「大丈夫ですか?」
「…はい、大丈夫です」

 と、自分では応えたつもりだったのだが、どうやら全然大丈夫ではなかったらしい。問答無用で病室に叩きこまれた。思えば数日前から不眠不休だ。無理もない。
 頭を殴られて昏倒し、縄で縛りあげられるは。角松を担いで車に乗せて運転させられるは。1/4もの輸血をし、長時間の手術に付き添わされるは。翌朝から一昼夜をかけて天津まで移動するは。

 見かけによらず強靭に鍛えられた心身を持つ如月といえども、参って当たり前だった。それでも検査の結果、単なる貧血で、増血剤を出されただけというのは、やはり如月がよほど頑丈だということだろうか。


 病院の寝台でぐっすりと眠ると、翌朝には、全身に鉛のように張り付いていた疲労もすっかり抜け落ちていた。残念ながら、増血剤の副作用なのか、胃の調子が悪く、爽快な目覚めという訳にはいかなかったけれど。

 しかし、寝台の上でぼんやりとしているのは性に合わず、勝手に退院させてもらうことにした。文句を言う看護婦から、どうにか角松の病室の場所を聞き出して、まずはそちらに向かう。
 昨夜の醜態が嘘のように、きびきびとした足取りで病室に着くと、角松はやはり眠っているようだった。それでも顔色が良くなり、昨夜よりもずっと落ち着いた様子に、如月はホッとする。

 命に別状はなく、すぐに目覚めるだろう、という医師の説明も聞いてはいたが、こうして直接目にして見るまでは、納得出来なかったのだ。
「角松…」
 如月は寝台の横に置かれた椅子に腰を落とす。そして眠る男の姿を見つめた。

 服の合わせから見える包帯が痛々しい。どこか面やつれしたような頬には、うっすらと不精ヒゲが伸びてきていた。乱れている前髪をそっと直してやると、多少は見られる顔になった。
 さりとて、一日二日で治るような軽い怪我ではない。ここまでは追っ手も届くまいが、角松が快癒するまで、いったいどれほど掛かることか。一週間か十日か、一ヶ月か。

 その間、如月は安穏としている訳にもいかなかった。
「また来る」
 角松に、一言それだけを残して、如月は決然と病院を後にするのだった…。


 長年、大陸で仕事をしてきた如月ではあるが、上海を基点にしているので、さすがに天津にまでは手が及ばない。身を隠せるような場所も、すぐには思い浮かばなかった。
 こちらで顔が効くような知人には、何人か心当たりがあるが、それで矢吹を頼って失敗したばかりだ。草加の影響力がどれほどの物かは知らないけれど、同じ轍を踏むのはごめんだった。

 仕方がなく、如月は報告を兼ねて『上』に電信を打つと、その足で病院からも程近い宿屋に向かった。皇宮飯店という名前は立派だが、中身はそれほどでもない地味な店構えである。
 ここで角松の様子を見ながら、次の指示を待つことになるだろう。いつまで滞在することになるか分からないが、矢吹の車を売払ったので、手持ちの金にも余裕がある。しばらくはどうにかなりそうだ。

 見通しの良い二階の角部屋に落ち着き、いつもの支那服に着替える。すっかりこの格好に慣れてしまって、自分が日本人であることも忘れそうだった。
 頭の硬い上官であれば、軍人としての誇りが云々…、と説教されるかもしれないが、如月の上官でもあり養い親でもある狸親父は、そんな瑣末なことにはこだわらない。その点は気楽だ。

 この部屋も値段の割になかなか居心地が良く、ベッドのスプリングの硬さも気に入った。如月にしては珍しく、ごろりとだらしない格好で寝転がると、途中で買ってきた肉饅頭を頬張りながら、新聞の隅々まで目を通す。今の所、目立った動きもないようだった。
 このままここで眠ってしまっても問題ない所だが、やはり角松の容態が気になる。時間の許す限り、傍にいてやりたかった。
 たとえ何の役にも立たなくとも…。


 そうして、何の変わりもない日が二日続いた。
 朝起きて、朝食を済ませて新聞を読みながら、面会時間まで暇を潰し、後はひたすら角松の枕元で様子を見る。医者でも看護婦でもない自分は、こうして見つめることしか出来ない。

 いや、それも本当は許されていないのだろう。
 自分は角松の家族ですら…、ないのだから。
 恋人でもなければ、友人でもない。さりとて単なる仕事の関係だけではない。如月には自分たち二人の関係を表す言葉が見つからなかった。

 絆が欲しかった。
 この人と共に生きた証が欲しかった。
 いつかは遠い世界に戻ってしまう人だから。

 自分が女だったならば、迷わず角松の子を宿しただろう、と如月は詮無いことを考える。これまで女になりたいなどと思ったことはなかったが、初めて羨ましいと感じた。
 それでも自分は自分で居るしかない。…このままで。


 『お前は…、それで良いのかね?』
 ふいに、過日の矢吹の言葉がよみがえった。
 良いも悪いもないだろう、と如月は小さく微笑む。自分は地を這う蟲のようなもので、空を飛ぶことも海を泳ぐことも出来はしないのだ。

 だが、角松ならば羽が生えていなくても、強引に空を飛んでしまいそうな気がする。自分には決して真似出来ないことを、目の前で易々とやってみせる存在に、心惹かれるなと言うのが無理な話だ。

 また角松の笑顔が見たい。
 自分の名を呼び、髪に触れ、抱きしめて欲しい。
 誰かをこれほどまでに欲したのは、誰かにここまで囚われたのは初めてだった。


「角松…」
 こうやって眠る男に何度呼びかけたことだろうか。応えがないことも承知の上で、ただひたすら。
 すると、ふいに角松が苦しげな呻き声を上げた。如月はハッとして角松の顔を覗きこむ。これまでも何度かこんなことはあったが、結局目を覚ますことはなく、また深い眠りに落ちてしまうのが常だった。

 しかし今回はどうも様子が違っている。脂汗を流しながら、うわ言のようにしきりに何かを呟いていた。そっと耳をそばだてると、どうやら誰かの名前を呼んでいるようだ。

「…圭子…、どこだ…、一洋…」
 角松の言葉がようやく聞き取れたその瞬間、如月の中で何かが崩れ落ちたような気がするのだった…。


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