第三十章 記憶(中編)
「オレは……、どうすれば」
へたり込んでしまった京一の前に、優雅な足取りで進み出たのは御門だった。
「何を打ちひしがれているのです? いま貴方がすべきことは、そんなことではないはずですよ」
「でも、どうすりゃ良いのか分からねえんだよ。あのひーちゃんじゃ、何も……」
京一にとっての『剣』は人生の全てだ。誇りであり、支えであり、自己を確立するただ一つの要素だとも言える。
だから剣を否定することは、決して出来ない。
けれど、今の状態の龍麻と一緒に居ることは、剣を捨てるに等しいのではないか?
こんなにも何も持たない龍麻ならば、ただ優しく抱きしめて、髪を撫でて、キスをしてあげれば、それで幸福になれるのかもしれないけれど。
(本当にそんな生き方が、オレに出来るのか……?)
高校を卒業したら中国に行きたいと思っていた。もっと強くなるために、師匠の元に弟子入りするのだ、と。
だが、それは誰のためで、何のためだ。
ただ強くなれれば良いのか……?
龍麻を護るため、という大義名分が失われてしまうと、京一に残されたものは、もう何も無かった。
「……オレは……」
「しゃんとなさい。そんな空っぽの頭で悩んでも答えなど出ませんよ」
ペシ、と音を立てて、御門に扇子で叩かれた。
「何しやがる」
「貴方がウジウジしているからですよ。ずっと眠っている龍麻さんの傍に居続けた貴方が、どうして龍麻さんが目を覚ました途端に、迷い悩んでいるのですか?」
「それは……」
龍麻が目を覚ませば、全てが元に戻ると思っていたからだ。
いつ目を覚ますか分からなくても、いつか、必ずその日が来ると信じていられた。たとえ何年だろうと待ち続けるつもりだった。
だが、京一が待っていたのは、今の龍麻ではない。
「……なるほど、分かりました。貴方を必要としない龍麻さんであれば、貴方も龍麻さんを必要としない、ということですね」
京一はハッとする。
御門の言葉を否定したかった。そんなことはない。たとえどんな龍麻であろうとも、自分の気持ちが変わることはない、と。
けれど、出来なかった。ある意味で、真実を言い当てられていたようだったから。
押し黙ってしまう京一の姿に、御門は深い溜め息を落とす。そのまなざしには軽蔑の色が宿っていた。
「存外、冷たい人なのですね。どうやら私は貴方を買い被っていたようだ」
「待ってくれ。京一くんは戸惑っているだけだ。そうだろう?」
如月が必死に庇ってくれるけれど、京一は何も言うことは出来なかった。
「どうした、京一くん。君はそんな人では……っ」
「そういう貴方はどうなのですか、如月さん」
「え……?」
何故か、いきなり御門の矛先が如月に向かう。
「もしも、龍麻さんがずっとこのままだったら? 貴方のことも、私たちのことも何もかも忘れたままで生きていくのだとしたら?」
如月は迷うことなく答えた。
「ここに居る龍麻は、すでに黄龍の器ではない。おそらく力も失われてしまっているだろう。
だから彼が普通の生き方を望むならば、僕は身を引くつもりだ。忍びとしての僕と一緒に居ることは危険を伴うからね。彼を巻き込みたくない」
「貴方はそれで宜しいのですか?」
「もしも僕が、いつか忍びであることも玄武であることも全て捨てて、普通の人間として生きる日が来たら、その時には改めて友人になれるだろうね」
その言葉とは裏腹に、如月のまなざしは、そんな日は永遠に来ない、と告げているようだったけれど。
「お前はスゲェな……」
京一は素直に感心する。本心はどうあれ、彼には全く迷いがない。
思えば、龍麻が黄龍に乗っ取られそうになっていた時も、迷うことなく龍麻に剣を突き立てようとしていた如月だ。村雨が機転を利かせなければ、確実に龍麻の命を奪っていただろう。
誰よりも龍麻を大切に思っているからこそ、如月にはそれが出来る。龍麻を命がけで護ることも、龍麻の意を汲んで龍麻の命を奪うことも。
「オレには……、ンなこと出来ねぇよ……」
京一がぼそりとつぶやいた次の瞬間、左頬に焼け付くような痛みが走った。如月に殴られたのだと分かったのは、冷たい床に倒れ込んだからだ。
「痛……っ」
「見損なったぞ、京一くん。君の想いはその程度か。君たちの絆はそんなことで失われてしまうのか。君たち二人はあんなにも強く結びついていたじゃないか。それなのに……っ」
如月の言葉は尤もだ。だからこそ京一は何も言うことが出来ない。
誰よりも龍麻を深く、強く愛していたからこそ、今の龍麻を同じ龍麻だと思えない。
何もかもを忘れて、愛らしい天使のようになってしまった龍麻も、もちろん魅力的だとは思うけれど。
京一が惹かれたのは、弱い龍麻だ。
いつでも悩み惑い苦しみながらも、全てを背負い込んで、自分で解決しようとする龍麻に心を奪われた。
護ってやりたかった。支えてやりたかった。
龍麻がもうこれ以上、涙を流すことがないように……。
殴られた頬を抑えながら、よろよろと立ち上がると、そこにはあどけない顔で幸福そうに眠っている龍麻が居る。
その姿を見つめているうちに、京一はふと、ある考えが心に沸いた。
「これが……、ひーちゃんの望みだったのかな」
「どういう意味です」
御門の問いに、京一はぽつぽつと答える。
「ひーちゃんはずっと普通の人間として生きたいと思ってた。特別な力なんて要らないって。ただ平穏な毎日を過ごせれば良いって思ってたんだ。
だから、今の状態は、ひーちゃんが本当に望んでいたことなんじゃないかなってさ……」
「普通の人間……ですか」
御門は小さくつぶやくと、扇子で顔を覆った。彼自身も『普通』ではない生き方を余儀なくされている身としては、思う所があるのだろう。
それに関しては如月も同じだ。
全てのしがらみを捨てて、ただの普通の人間として生きていきたいと、彼が思わなかったはずもない。
それでも、たとえ龍麻を失っても何も捨てない、と断言出来るのは、如月の強さか、あるいは弱さ故か。
わずらわしいものを何も持たない京一には、想像をすることすら難しかったけれど。
ただ龍麻のためには、これで良かったのだ、と思うより他にない。
それぞれの想いを抱えて、押し黙ってしまった一同だったが、その沈黙を破ったのは、低く響く村雨の声だった。
「なぁ、蓬莱寺。お前は本当にそう思ってるのか?」
「……何だよ」
「お姫さんがもう嫌だって、面倒くさいことを全部放り出しちまった結果、こうなっているって思うのか?」
その問いに、京一はムッとする。
「ンな訳ねェだろ。逃げるようなこと、ひーちゃんは絶対にしねえよ。そういうことが出来ないひーちゃんだから、オレは傍に居てやりたいって思ったんだからな」
京一が答えると、村雨は不敵に微笑んだ。
「なら、そうすりゃ良いじゃねえか」
「え……?」
きょとんとする京一に対して、村雨は余裕の笑みを崩さない。
「今のお姫さんが何もかも放り出したんじゃねえってことは、まだ変わらずに全てを背負っているってことだろ。それならお前に出来ることは何だ? 同じようにこれからも傍に居て、支えてやることじゃねえのか?」
「今もひーちゃんは戦ってる……、ってことか」
京一は胸の不安がすうっと消えていくのを感じた。
結局は、何も解決していないけれど。
もしもいつの日か、龍麻が戦わない者になる時が来たら、それでも傍に居る意味を見出せるのか、まだ京一には分からないけれど。
先のことは分からないのだから、考えても意味がない。
御門の言うとおりに、こんな空っぽの頭で悩むだけ無駄だということだろう。
「……ひーちゃんは、ひーちゃんだもんな……」
ぼつりとつぶやいた京一に、如月がようやく笑みを見せる。
「ああ、それでこそ君らしい」
「愚か者は愚かだからこそ、真実に辿り着くこともありますね」
御門もまた涼やかな笑みをたたえていた。口調は相変わらず皮肉めいているが、京一はもう腹を立てる気にもならない。
「頭のイイ奴らは、いろいろ考えることがあって大変だよな」
すかさず切り返すと、御門は鷹揚にうなずいた。
「ええ、まさに大変なのですよ、色々と。では、私はこれで失礼します。いつでも暇人の貴方と違って、忙しい身ですからね」
そう言うと、あっさりときびすを返した御門だったが、部屋を出る前に、何気ない口調で村雨に尋ねる。
「お前はどうするのです?」
「俺か……、そうだな。翡翠はどうする?」
いきなりのことに、如月は秀麗な眉をひそめた。
「どうして僕の意見が必要なんだ。ともかく僕も帰るよ。今の龍麻の傍には、僕のような人間は居ない方が良いだろうからね。もしも記憶が戻れば、話は変わってくるけれど」
「ならば、俺みたいなヤクザな野郎も、お姫さんの傍には居ない方が良いだろうな。てことで、帰るとするか、翡翠」
あくまでも自然な仕草で如月の腰に手を回そうとした村雨だったが、如月はしなやかな動きで逃れる。
「僕は君と帰るなんて、ひとことも言っていないよ。それに、いつから僕を名前で呼んで良いことになったんだ。図々しいにも程がある」
すると村雨は不敵な笑みを浮かべた。
「ま、腕一本の代価には、安いくらいじゃねえか?」
反射的に如月は、自分が傷付けてしまった村雨の腕に目を向けて、唇を噛みしめた。
「……それを言うのは卑怯だ」
如月の独白めいたつぶやきにも、村雨は律儀に答える。
「生憎と、俺は目的のためなら手段は選ばない卑怯な男なんでな。こんな男に関わっちまったのが不運だとあきらめてくれよ」
幸運の女神に愛されている男に、不運だとレッテルを貼られては、如月も何も反論することが出来ないようだった。
「勝手にしろ」
吐き捨てるように言うと、如月はそのまま病室を出て行く。すかさず村雨がその後を追っていった。
ちなみに御門は、二人の漫才めいたやり取りなど、のんびりと聞いている気にもならなかったらしく、とっくに姿を消している。
「ったく、あいつら何しに来たんだ」
いきなり現れては、言いたいことだけ言って、嵐のように去っていった彼らに、京一は苦笑を浮かべるが、その理由も京一には分かっていた。
御門も村雨も如月も、『普通の人間』としては生きられない世界の住人だ。
何もかもを失って、空っぽになってしまった無垢な龍麻とは距離を置きたい、ということなのだろう。
それが互いのためになると信じて。
でも、だからこそ、自分だけは龍麻の傍に居てやろう、と京一は改めて思う。
それから葵や小蒔や醍醐も、今は力を失った普通の高校生だ。葵が『菩薩眼の娘』であるのは変わりないが、それでも友人として一緒に居ることは出来るだろう。
「……それで良いんだよな、ひーちゃん」
すやすやと無邪気な顔で眠っている龍麻に、京一は微笑みかける。剣士として龍麻を護る必要はなくなったとしても、ただ傍に居るだけでも良いのだと。
誰にともなくつぶやかれた京一の言葉に、意外なところから答えが返ってきた。
「きっと龍麻さんも、それを望んでいると思います」
部屋の片隅で、まるで影法師のように立ち尽くしていた比良坂だった。
「そっか、ありがとさん。紗夜ちゃんにそう言ってもらえるだけでも救われるぜ」
「いえ、私は何も出来ませんから。せっかく龍麻さんがくれた命なのに……」
沈鬱な表情でうつむく比良坂に、京一は明るい笑顔を向ける。
「ンなことねぇよ。紗夜ちゃんはナースになるんだろ。それでたくさんの人を救えるじゃねえか。きっと紗夜ちゃんの天使の微笑みに、癒される奴も一杯いると思うぜ?」
「そんな……」
まるで口説き文句のような台詞に、比良坂は頬を染めるが、京一にそれ以上の他意がないことも分かっているのだろう。
嬉しそうにはにかみながらも、彼女は凛とした表情で答える。
「私……、頑張ります。こうして新たな人生を与えてくれた龍麻さんのためにも、私をずっと護ってくれていた兄さんのためにも。これからはちゃんと一人でも胸を張って生きていきます」
「ああ、頑張れよ、紗夜ちゃん。オレも応援するからな」
「はい、ありがとうございます、蓬莱寺さん」
「京一でイイっての。ひーちゃんのことは名前で呼んでいるのによ」
「あ……、ごめんなさい。でも……」
あまり表情が顔に出ない彼女ではあるが、今は明らかに困った様子だ。
その姿に、京一はふと出会った頃の龍麻を思い出した。誰にも心を許さずに、他人と深く関わろうとしていなかった龍麻。
それは両親から愛されていないと思い込み、自分に全く自信が持てなかった故の過ちではあったけれど。
ただ単純に、他人と触れ合うことが苦手で、不器用だったとも言える。
同じように頑なな魂を持った如月とも似ているからこそ、龍麻と如月の二人は互いに深く理解し合い、強い絆を結んでいた。
そのことと目の前の少女の印象が重なる。きっと彼女も龍麻とよく似ているのだろう。だから京一には分からないところで結びついていたのに違いない。
それに、もしも比良坂が、龍麻に恋愛感情を抱いているとすれば、京一とは恋のライバルということになるだろう。
龍麻が記憶を失っている以上、京一のアドバンテージは無いに等しい。
しかも普通の男ならば、京一みたいなむさくるしい野郎よりも、比良坂のような可愛い女の子を好きになるのが当たり前だ。
(もしかしてオレ……、ヤバイか?)
思い返してみれば、龍麻に好意を抱いている女の子は、他にもたくさん居るような気がする。強力なライバルは、比良坂だけではないということか。
ならば、せめて龍麻の『親友』のポジションだけでも、と思うが、そもそもそれで自分が満足出来るかどうか。
かつての龍麻と京一は、確かに愛し合っていたのだから。
今でもありありと龍麻をこの手に抱きしめた感触を思い出すことが出来る。
折れそうな細い腰にしなやかな身体。滑らかな白い肌に触れた時の甘やかな喘ぎ声。艶やかな長い黒髪を指に絡めたのも、つい昨日のことのようだった。
そうして龍麻を抱いてからも、その以前にも京一はずっと龍麻を欲しいと思っていた。この腕の中に龍麻を抱き寄せて、口付けて、全てを自分の物にしたいと。
だが、かつて抱いていたはずの、全身を焦がすような欲望は、今の京一には全く存在していなかった。
目の前のあどけない子供のような龍麻も可愛いとは思う。護ってやりたいとは思うし、傍に居てやりたいとも思うけれど。
抱きたい、とは欠片ほども思わない。
それがいったい何を意味するのか、京一には分からなかった。この先、自分と龍麻がどうなってゆくのかも。
自分と同じように一途なまなざしで龍麻を見つめる比良坂の姿に、京一はただ漠然とした不安を覚えるのだった……。
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