『 邂逅……、そして 』

(3)



 珍しく御剣の方から成歩堂に電話があったのは、とある事件が解決した一週間後のことだった。

 ノイズ混じりの携帯電話越しでも、御剣の涼やかで硬質な声は、成歩堂の耳朶をやさしく揺さぶる。
『今回のことでは、君に世話になった。ぜひ礼がしたい』
「何言ってるんだよ。お礼なんて要らないよ。僕は弁護士として、やれることをやったまでだからね」

 照れながら答えた成歩堂に、御剣は固い声音でつぶやく。
『だが、君はDL6号事件も解決してくれた。そのことが私を二重の意味で救ってくれたのだ。本当に君には感謝している』
「大げさだなぁ」
『大げさではない。君は知らないんだ。私がどんなに……』
 電話の向こうの御剣の声は、震えているようだった。


「……御剣?」
『何でもない。ともかく、このままでは私の気が収まらない。礼が要らないと言うのなら、借りを返すということでも良い。だから……』
「そこまで言われちゃ、断りきれないな」
 成歩堂がそう言うと、御剣はホッとした様子で溜め息を漏らした。

 電話越しではあったが、まるで直接、御剣から耳に息を吹きかけられたようで、成歩堂の背筋がぞくりとする。
 それと同時に、二人で交わした口付けの感触もありありと蘇ってきた。あれからすでに四ヶ月近く経っているというのに、つい先日のことのような生々しい記憶だ。

(あの時の御剣……、可愛かったな……)
 自分の腕の中でかすかに震えながら、成歩堂のキスをたどたどしい仕草で受け止めていた御剣は、まるで少女のような可憐さだった。
 どうやら、こういった経験がほとんど無いらしいことに内心で安堵したものだ。


『聞いているのかね、成歩堂』
 電話の向こうから、御剣の険しい声が響く。成歩堂は瞬間的に甘い妄想を振り払った。
「ご、ごめん。聞いてるよ。えっと、それで……、何だっけ?」
 思い出の中の御剣に酔いしれて、現実の御剣の声を聞き逃すなんて、本末転倒だ。

『やはり聞いていなかったではないか。今週の金曜が休みなので、木曜の夜に私の家に来て欲しい。君の予定はどうだ?』
「木曜の夜だね。大丈夫、問題ないよ。夕食はどうしようか?」
『デリバリーで良ければ、私の方でどうにかする』
「じゃあ、それで」
 成歩堂が作っても良かったのだが、『お礼』ということであれば、余計なことはしない方がいいのだろう。

『では、後日』
 それから御剣は自宅の住所と地図はメールで送っておく、と言い残して、あっさりと電話を切ってしまった。
「そっけないなぁ……」
 成歩堂は溜め息を落とす。


 こちらが一方的に恋の告白をしたとはいえ、キスもした仲なのだ。用件を伝えるだけではなく、もうちょっと楽しい会話も交わしたかった所だけれど。
 御剣からは『敵同士』だとも言われてしまっている。なかなか、すぐには打ち解けられないのかもしれなかった。

 だが、御剣の家に呼ばれるとなれば、嫌でも期待は膨らむ。
「次の日は休みだから、思いっきり飲んで、羽目を外そうって感じかな?」
 御剣が相手なので、色っぽい方面に期待をしても無駄だと分かっている。成歩堂がいくら楽天的だといっても、そのくらいの予想は付いた。

 それでも浮かれ気分は止まらなくて。
 当日までの間、ずっと挙動不審になった結果、真宵に呆れた目で見られてしまう成歩堂なのだった……。


       ※   ※   ※


 そして当日。
「はぁ……、緊張するなぁ」
 成歩堂は、いかにも高級そうなマンションを見上げて、深い溜め息を落とした。
 オートロックを解除してもらい、御剣の部屋のドアの前に立っても、なかなかドアベルを鳴らすことが出来ない。

 中学生でもあるまいし、好きな相手の部屋に行くからといって、ここまで意識することでもないとは思うけれど。
 久しぶりに二人きりで会うことと、御剣の方から呼んでくれたということが、成歩堂を必要以上に昂ぶらせ、かつ戸惑わせているのかもしれなかった。

 それでも、おずおずとドアベルを鳴らすと、すぐに御剣が応じてくれる。
「や、やぁ、御剣。こんばんは」
『何を間の抜けた挨拶をしているのだ。君だということくらい分かっている』
「あ、はい。ソウデスネ」

 やはり緊張しているのは成歩堂だけで、御剣はいつもの御剣のようだった。
 ……そう思っていたのだけれど。
 ドアを開けて、成歩堂を迎え入れてくれた御剣は、成歩堂が知っている御剣とは、どこか違っているように感じられた。具体的にどこがどうとは説明できないが。


「入りたまえ」
「お邪魔します」
 玄関を入り、廊下を少し進むと、一人で住むには広すぎる空間がいきなり現れた。
 おそらくほとんど使っていないピカピカのキッチンの横には、家族そろって座れるほどの大きなダイニングテーブルが鎮座しており、その奥にはゆったりしたソファセットが並んでいる。大画面テレビに立派なスピーカーが設置されているのは、クラシック音楽でも聞くのだろうか。

「なんか予想通りとはいえ、……スゴイな」
「家具はこの部屋についていたもので、私の趣味ではないぞ」
「あ、そうなんだ」
「そもそも、そういったものにこだわりも興味も無いのでな。生活に不自由が無ければ、それで十分だ」
「ううん、そういうことじゃないと思うけどね」

 貧乏暮らしで、大した家具も揃えられていない成歩堂が言っても、何の説得力もないが、『家』とはもっと暖かくて居心地の良い空間ではないのだろうか。
 豪奢で立派に見えた御剣の部屋が、ふいに寒々しいものに感じられる。
 この部屋で、ただ一人暮らしているのは、ひどく寂しい光景だ、と成歩堂は思った。
 だからといって、一緒に住もう、などという図々しい提案が出来るはずもなく。


 どこか、やりきれない思いを抱えながらも、成歩堂の視線は、自然とダイニングテーブルの上に向けられる。そこにはフランス料理のフルコースと呼んでも差し支えないような料理がずらりと並んでいた。
「ところで、これは?」
「デリバリーだ。私は皿に載せて温めただけだから、味の保証はしない」
「あはは、でもすごく美味しそうだよ。それじゃ、冷めないうちに頂こうかな」

「ではワインを開けよう」
 そう言うと、御剣は慣れた手つきでソムリエナイフを使い、ワインの栓を開けてみせた。
「すごいね、御剣。そんなことが出来るんだ」
「……君は私をどれほど不器用だと思っているのかね」
「ごめん。だって、小学生の頃のイメージがさぁ……」
「実際、満足に出来るのは、このくらいだがな」
 御剣は照れくさそうに笑いながら、グラスにワインを注ぐ。芳醇な香りが成歩堂の鼻腔をくすぐった。

「乾杯」
 グラスを持ち上げて、お互いに軽く視線を交わすと、向かい合わせの御剣は、機嫌が良いらしく、口元にはうっすらと笑みが浮かんでいた。
 そのことに喜びを覚えるのと同時に、つい御剣の唇ばかりに視線を向けている自分に気づき、成歩堂は慌ててワインを流し込む。おそらく高級品なのだろうけれど、味は全く分からなかった。

「げほごほ」
 しかも無様にむせてしまい、御剣に憐れみを帯びた目で見られたことで、ますます味なんて、どうでも良くなった。
「落ち着きたまえ」
「……ご、ごめん」
「相変わらずだな、君は」
 御剣はくすっと微笑む。
 いったい何が『相変わらず』なのか、成歩堂自身にはさっぱりだったが、御剣が笑ってくれたなら、それで十分だろう。


 そこからは、食事も和やかに進んだ。
 とはいえ、成歩堂には見たことも聞いたこともないような料理の皿が並び、御剣にうんちくを解説されても、よく分からず、これなら近所の定食屋のランチの方が美味しいなぁ、などと思ったのは秘密だ。
 それに御剣を眺めるのに忙しかったせいもあるだろう。

 不器用だとばかり思っていた御剣は、おたおたする成歩堂の目の前で、ナイフとフォークをいとも優雅に操っていた。
 上品に切り分けられた料理が、御剣の唇に運ばれてゆくのを、成歩堂はただ見つめることしか出来なかった。

 いや、魅せられていたのだ、御剣に。
 彼はワインで少し酔ったのか、白く滑らかな頬はほんのりと色づき、形の良い唇から、時折わずかに覗く赤い舌がひどく艶めかしかった。
 伏し目がちのまなざしが、こちらに軽く向けられただけで、成歩堂の鼓動は早くなる。

 御剣は日本人離れした色素の薄い瞳をしていて、それがまるで宝石のように美しく、成歩堂はいつも見惚れてしまうけれど、今夜は何故か、御剣の一挙一動にどうしようもなく視線を奪われてしまう。
 御剣の家で二人きり、というシチュエーションだけではない。
 何かがいつもの御剣とは違っているようで、成歩堂の心をざわつかせた。


(……そういえば、さっきも……)
 御剣がドアを開けて、成歩堂を迎え入れてくれた時も、ちょっとした違和感を覚えたことを思い出す。しかもその理由が分からないから、余計に落ち着かない。
 けれど、何だろう、何だろう……? と思っているうちに食事は終わってしまい、成歩堂はその疑問を一時棚上げにせざるを得なかった。

「お気に召さなかったかね?」
 ふいに、どこか不安げな口調で御剣が尋ねてくる。
 それも当然だろう。おそらく成歩堂は食事の間、ずっと心ここにあらず、といった風情だっただろうから。
「あ、いや、そんなことないよ。美味しかった、ありがとう。ほら、あんまり食べ慣れない料理だからさ。ちょっと緊張しちゃってね」

「そうか……、それなら良いのだが」
 御剣は安堵したように小さなため息を吐いて、リビングのソファに腰を下ろした。
 それに釣られて、成歩堂も彼と向かい合うソファに座るが、何故か御剣は、ずっとうつむいたままで、一言も発しない。


 重苦しい沈黙に耐えかねて、仕方がなく成歩堂が先に口を開いた。
「えっと、料理は本当に美味しかったからね。そんなに落ち込まないでよ。むしろ、ぼんやりしていた僕の方が悪いのであって、お前が気に病むことなんてないんだから」
 あははは、と乾いた笑いを浮かべる成歩堂をどう思ったのか。

 ゆるりと顔を上げた御剣は、困った様子で小首をかしげた。
「……落ち込む? 私が……?」
 きょとんとした顔で、そんなことを言われては、こちらの方が戸惑ってしまう。

「あれ? 違った……? なんか、お前。いつもと感じが違うからさ。何かあったのかなって、気になるじゃないか」
 そもそも、こんな風に成歩堂を家に呼んでくれたこと自体が、普段の御剣からは考えられないことなのだから。


 すると御剣は、はっとしたように目を見開き、すぐに視線を成歩堂から逸らした。いかにも不自然な態度で。
 それを成歩堂が見咎めるよりも早く、御剣がぼそりと何かを呟く。
「……仕方がないだろう。初めてなのだからな」
「初めて?」
 自宅に人を呼ぶのが初めてということだろうか、と成歩堂が悩んでいる間も、御剣は何やらぶつぶつとこぼしている。

「だが、私が自分で決めたことだ。ここまで来てためらっていても仕方がない。もう覚悟は出来ている。そのはずだ……」
「いったい何の話だよ、御剣」
「ん……、ああ、成歩堂か」
 まるで今、成歩堂が目の前にいることに気づいたような口調だ。

「さっきからずっと、僕は置いてきぼりなんだけどなぁ」
「すまない。どう切り出したものか、迷っていてな」
 御剣は苦笑を浮かべる。
「もしかして僕に話があるのかな?」
 成歩堂の問いに、御剣は小さくうなずき、そして驚くべきことを言い出した。


「成歩堂、私を……、抱いてくれないか」


              

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2014/08/24