(4)
「…あんたを、好きになってしまいそうな気ぃするから」
目の前の少年の言葉の意味が、松下の頭の中に染みとおってくるのには、かなりの時間を要した。思わず茫然とつぶやく。
「俺を…?」
すると、なぜかシゲはくしゃりと泣きそうな笑顔を浮かべ、立ち上がる。そしてそのまま大して広くもない松下の部屋の真ん中を通って、ゆっくりと玄関に向かった。金色の髪を揺らして。
松下はその後ろ姿をただ見つめることしか出来ない。
待て、と言って引き止めたかった。
行くな、と言ってやりたかった。
だが、それには、相応の覚悟がいる。ただの勢いだけで放って良い言葉ではない。少なくともシゲの先刻の言葉を真剣に受け取るならば。
そんな松下の逡巡を知ってか知らずか、ドアノブに手をかけたシゲは、思い直したかのようにこちらを振り向いた。
揺れる金の髪の下には、うってかわって明るい笑顔がある。あまりにも明るすぎて、白々しいほどの。
「冗談やて。本気にしたん?おっさんはこれやから。ちょっと好きて言われたくらいで動揺してたら、オレみたいな性悪なコドモに簡単にだまされるで?良い勉強になったやろ。ほな、さいなら」
やはり明るい言葉の中に、嘘は見えない。この笑顔で、この台詞を、この少年が言うのなら、きっと誰もがだまされるだろう、と思った。おそらく嘘をつくことに慣れている少年は、この程度のことでボロを出したりはしない。
だが、なぜそう思ったかと聞かれたら答えようがないのだが。松下は瞬時に、嘘だ、と思った。そしてそれが正しいと確信もしていた。
それだからこそ、何も言うことが出来なくなった。
シゲの言葉を『嘘』だと言えば、シゲが自分を好きだと言った言葉を認めることになってしまう。今の松下にはその想いごと受け入れてやるほどの覚悟はない。
だから、このままだまされてやる方が良いのかも知れないとも思うけれど。それもまた、心の片隅がじわりと疼く気がする。
その痛みとも呼べないほどの微かな、しかし決して見過ごすことの出来ない感情の名前は分からなかったけれど、それがどこから生まれてきたのかは分かっていた。
シゲに嘘を吐かれるのが嫌だったからだ。
いつでもどこでも誰に対しても、頑なな鎧をまとっているような少年だからこそ、自分の前では何もかもさらけだして欲しかった。そんな価値が自分にあるかどうかは別として。そもそもシゲが自分にそんな風に振舞うほどの理由があるかどうかも別だ。
ただ、嘘を吐いて欲しくなかった。それだけだ。
しかし、松下がそう言ってやるよりも早く、シゲは背中を向けた。そして小さくうつむく。金色の髪が少年めいた細い肩の上でそっと揺れた。
「成樹」
どうにか振り絞った松下の声に、シゲはびくりと身体をふるわせた。金の髪が揺れる。少年は背を向けたままだったけれど、きっと唇を噛みしめている、と思った。
「待ってくれ、成樹」
松下は自分が一歩を踏み出そうとしていることを分かっていた。引き返すことが出来ない道の岐路に立たされていることを。片方の道には、今までと変わりない日常があり、もう一方の道には金の髪の少年がいる。
そして、松下の心が少年の待つ道へ歩いて行こうと、足を踏み出すのを見計らったように、シゲが静かに囁いた。
「さよなら」
金の髪が揺れる。少年の手が震える指先でドアノブをつかむ。
松下は立ち上がった。
すると、いきなり部屋の灯りが明滅する。
いったいいつ取り替えたのか忘れてしまった、古い蛍光灯の寿命がとうとう来たらしい。信号が赤に変わる時のように、ゆっくりと点滅をくり返し、そして…闇に包まれた。
突然のことに松下は動くことが出来ないが、ドアが開いた気配もしない。シゲもまたそこにいるのだろう。姿は見えなくても。立ち尽くしたままで。
意を決した松下が一歩を踏み出す。みし、と畳の下の床板が驚くほど大きな音を鳴らした。
と、その音が合図になったかのように、また光が戻ってくる。思わず松下がそちらに目を向けると、黒くなり埃をかぶった蛍光灯がどうにか弱々しい光を発しながら、灯っていた。この状態ではおそらく、また消えるのも時間の問題だろうけれど。
「成樹」
松下はもうためらわなかった。
闇の中で祈っていたのは、行くな、というただ一つだけ。実際に電気が消えていたのは、もしかしたらほんの数秒だったのかもしれないが、松下には永劫にも思えた。今にもシゲがその扉を開けて出て行ってしまうかもしれない、と思うだけで、どうにかなりそうだった。
やはりこのまま行かせたくない。先刻の言葉を嘘のままで終わらせて欲しくない。
「成樹」
松下はまた呼んだ。シゲが振り向くまで何度でも呼んでやりたかった。
「成樹」
金の髪が揺れる。
「成樹」
立てつけの悪い扉のドアノブにすがるようにしていた指先が、静かに離れた。
「成樹」
蛍光灯がまた明滅を始めた。乾いた音を立てながら、何度も灯いたり、消えたりを繰り返す。そのたびに金色の髪が光を受けて煌いた。
「成樹」
「……てるのに」
シゲがぽつりとつぶやく。
「ん?」
「あかん…、て言うてるのに」
その声は震えていた。
そして、シゲは振り向く。
鳶色の瞳には、透明な雫があふれていて、今にも零れ落ちそうだった。
「来いよ」
松下は腕を伸ばした。その瞬間、シゲの滑らかな頬を音もなく、雫が流れて行った。
蛍光灯が消えて、また灯る頃には、シゲの身体は松下の腕の中だった。
「行くなよ、成樹」
松下の言葉に、シゲがそっと顔を上げる。涙に濡れた頬を、松下はおぼつかない手つきでそっとぬぐってやった。
「こんなん…あかん」
熱に浮かされたようにつぶやく少年の、瞳が潤んでいるのは、頬が朱に染まっているのは、声が掠れているのは、もちろん泣いたからに違いないけれど、決してそれだけではないことを松下は気が付いていた。
「もう、手遅れだ」
松下は自嘲の笑みを浮かべながら、金の髪に口付けを落とす。
それでも腕の中の少年は少しも緊張を解くことをせずに、人間を恐れる野良猫のように身体を硬くしているから、松下は腕の力をほんの少しだけゆるめる。離してしまうことは出来ないけれど。
「…俺が、怖いか?」
松下の言葉に、シゲはうなずき、そしてまた首を横に振った。
「怖い…けど、それはおっさんのことやなくて。オレがおっさんを堕としてまうことが、…怖い」
「そうだな。これでは犯罪者だ」
わざと冗談めかして笑ってみせたが、シゲには逆効果だったようだ。
「ちゃう、そんなんと違て…ッツ」
いきなりシゲが声を荒げたのに、松下は驚く。
「どうした?」
金の髪に隠れた小さな耳にそっと囁いても、シゲは黙ったままだ。
しかしそれは、自分の想いや感情をどう表現して良いか分からず、ためらっている風情だったから、松下もまた何も言わずに、シゲの言葉を待つ。
しばらくの間、部屋の中にはチリチリと蛍光灯が明滅する音だけが響いていた。その間隔が次第に速くなっていき、また二人の上には闇が訪れた。
そして…、どれだけ待っても、もう二度と明かりが灯ることはなかった。
漆黒の夜に抱かれたままで、シゲがぽつりと呟く。
「…オレは、…汚れている」
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