(5)
「……オレは、……汚れている」
それは夜の闇に溶けてしまいそうな程に、かすかな声だったけれど、松下の耳には確かに届いた。
「……あの男のことか?」
聞くまでもない問いを尋ねると、シゲはふるふるとかぶりを振る。
「それだけやない。あいつの言うとおりや。オレは誰とでも寝るような淫売の男好きで、しょうもないヤツやねん。あんたのことかて、ただセックスしたいだけかもしれへんよ」
「そうだな」
松下はうなずく。
シゲが否定して欲しくて言っているのは分かっていたけれど、シゲの言葉はある意味では事実でもあるのだろうから。
「そやから、おっさんはオレのことなんて……」
「俺の話を最後まで聞けよ」
松下はシゲの言葉を遮った。あえて強い口調で言うと、シゲが戸惑ったような声を上げる。
「おっさん……?」
「俺はな、シゲ。償えない過ちはないと思っている。本人が間違いだと認めて反省し、心底からやり直したいと思うのなら、ちゃんと前に進むことが出来るだろうとな」
「……こんなオレでも……?」
「ああ、そうだ。お前はまだ子供なんだ。いくらでもやり直せる。そして、その手伝いをすることが俺には出来ると思うぞ」
少々説教じみてしまったが、コーチとして、大人としては当然だろう。
もしもシゲが、これ以上の関係を望むとしたら、また話は変わってくるけれど。
「だから、俺に話をしてみないか? 大した助言はしてやれないが、聞いてやることくらいは出来る。お前が抱えていることを全部吐き出せば、少しは楽になるだろ」
この暗闇の中では、シゲがどんな表情をしているか見えない。ただ松下の腕の中で、小さく震えていることが分かるだけで。
やがてシゲは振り絞るような声でつぶやいた。
「……優しくせんといて」
「シゲ」
「オレにはそんな資格も価値も無いんやから」
「……成樹」
松下は深い溜め息を落とす。
シゲは自分のことを汚れ物であるかのように言うけれど、松下から見れば、その魂は頑なで、高潔すぎるほどだ。
「お前は俺にどうして欲しいんだ。俺とどうなりたいと思っているんだ。俺はただお前の望みを教えてくれ、と言ってるだけだぞ。お前の気持ちはお前自身で言葉にしないと、俺には伝わらないからな」
「そやかて……、あかんもん」
「またそれか。良いか悪いかは俺が判断することだろ。お前みたいなガキに何が分かるってんだ。勝手に自分で決めつけるなよ」
子供扱いされたことに腹を立てたのか、シゲは不満げな声でつぶやく。
「ガキやない」
その言い草が子供の証拠なのだと、気付いていないのは本人だけだ。松下は喉の奥でくつくつと笑った。
「ガキじゃないなら尚更だ。変な意地を張ってないで、素直になれよ」
「……おっさんのアホ……いけず」
「おう。俺はお前の二倍以上も長生きしているおっさんだからな。お前が思っているほどに優しくもなけりゃ、寛容でもないぞ」
「…………あんた、最悪やわ」
ほろりと零れるようにつぶやいて、それがシゲの最後のあがきだったようだ。
そこからは無言で松下の胸にむしゃぶりついてくる。背中に回された両手のぬくもりが、何だかくすぐったかった。
(……やっと折れたか)
松下もシゲの身体を抱きしめてやりながら、やわらかな金の髪に口付けを落とす。ふわりと香るのはシャンプーだろうか。体臭にしては甘すぎる匂いだ。
その香りにかすかに目眩を覚えたのは、シゲに参ってしまっている証拠だろう。花の蜜に誘われる虫のように、松下をおびき寄せ、がんじがらめに捕らえて離さない。
「ああ……、……成樹」
吐息混じりの掠れ声は、自分でも驚くほどに男の欲望に満ちていた。もちろんシゲにも伝わったのだろう。腕の中で小さく身じろぎをする。
「俺が、怖いか……?」
先刻と同じ問いを重ねると、シゲは首を横に振ってつぶやいた。
「ううん。おっさんに求められるの、嬉しい……」
ぞくり、とする。
この子供は何ということを言い出すのかと思った。松下を誘惑するつもりでもなく、これがただ『素直に』なっただけなのだとしたら。
(……魔性だな)
シゲには男を惑わせる魅力があることには気付いていたけれど、まさかこれほどまでとは思わなかった。
けれど、だからこそ引き返せない。
「お前が好きだ、成樹」
松下は正直な気持ちを打ち明ける。
たとえ、これが許されない恋だとしても。
「俺はお前が好きだよ。だからお前を護ってやりたいと思う。コーチとしてでも保護者としてでもなく、お前を愛する一人の男としてだ」
「アホやなぁ、おっさんは。こんなオレのことなんか好きになって」
シゲの声は掠れていた。もしかしたら泣いているのかもしれないと思った。
「そうだな。でも好きになったもんは仕方がない。で、お前はどうなんだ?」
「……そんなん言う必要ないやろ」
そう吐き捨てると、シゲは弾かれたように顔を上げて、ぐいぐいと唇を押し当ててきた。キスと呼ぶには、少々荒っぽいやり方だ。
松下は軽くついばむようなキスだけで応じ、すぐにシゲの身体を引き離す。
「嫌やぁ……っ」
シゲが色っぽい声で抗議をするが、もちろん松下は聞き届けなかった。
「シゲ、さっきも言ったろ。ちゃんと言葉にしろって。特にお前は自分の内側に溜め込む性格だからな。それじゃ、ダメなんだ」
「……どうしても?」
「どうしてもだ」
それでもシゲはしばらく無言だった。松下の腕の中に顔を埋めて、何かを必死に堪えているかのように見えた。
大人に甘えることも、大人を頼ることも忘れて、自分が大人になろうとしている少年は、松下の言葉に素直に従うことすら、ためらわれるのだろう。
その気持ちは分からないでもなかったが、ここで引き下がる訳にはいかない。
松下は辛抱強く、シゲが心を開くのを待ち続けた。
やがて、シゲは小さくつぶやく。
「オレはおっさんの傍に居たい。もしも、それが許されるなら」
つづく
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