ホイッスル

Stand By Me

 

(3)

「なぁ、おっさんの家、行ってもええ?」
「何でだよ」

 とっさに反論してはみたものの、言葉に勢いがないことは自分でも分かった。シゲがそれに気づかない訳もなく、軽やかに笑っている。
「どんな家に住んでるのか見てみたいんやもん。なぁええやろ?」
 甘えたような口調で上目遣いに言われては、松下が勝てる筈もない。わざとらしいほどに大きな溜め息をつくと、肩をすくめる。

「分かったよ。勝手にしろ」
「ありがと」
 シゲはそう言うと、慣れた仕草で松下の腕に自分の腕を絡めてきた。
「おい、こら」
「ええやん、このくらい。誰も見てへんて」

 松下の抗議にも、シゲは平然と微笑み返すばかりだ。これではシゲに身体を寄せられて、戸惑っている自分が馬鹿みたいである。
 しかも、松下は気がついてしまっていた。自分が意識をしているのは人目ではない。もちろん人に見られて、あらぬ誤解をされても困るが、それ以上に佐藤成樹という存在そのものが、自分に意識をさせている、ということを。

 おそらくこうして腕を組んで歩いているのが他の教え子だとしたら、ここまで気にすることはなかっただろう。
 それは自分自身にやましい気持ちがあるからなのか、それともシゲのあんな修羅場を見てしまった後だからなのか。判断は付かなかったけれど。

 それに、シゲが大人しく家に帰りたくない気分だというのも分からないでもない。あんなことの後だけに、松下の家で憂さを晴らしたいのだろう。この少年を楽しませるようなものが松下の家にあるかどうかはともかくとして。


「ホンマにこれなん…?」
 やがて辿り着いた目的地を、シゲは茫然として見上げる。確かに松下の家はいまどき何処にこんなボロアパートが? と言いたくなるほどに古いけれど、一応これでもバストイレ付きなのだ。しかも家賃は格安。文句を言える筋合いではない。

「本当にこれだよ。悪かったな」
「ええやん。おっさんらしくて似合っとるで。小ぎれいなマンションなんかに住んどったら、逆にびっくりしてまうわ」
「…誉められているようには聞こえないぞ」

 いい歳をして拗ねた声音の松下に、シゲは明るく笑う。そしてそのまま松下の手を引いて、目の前に並ぶ古ぼけたドアを指差した。
「なぁ、どれどれ?どの部屋なん?」
「2階だよ」

 そう言いながら、二人して錆び付いた鉄の階段を上っていく。もちろんシゲの腕は組まれたままだ。
 こんな風に誰かと寄り添って、自分の部屋に入る…なんてことをしたのはいつだったか、もう思いだせもしない。そもそも松下の部屋に客が来ることなんて、ほとんどないのだから。


 立てつけの悪い扉を開けると、部屋の中にこもった熱気が押し寄せてくる。部屋の壁や畳にすっかり染み付いてしまったタバコの匂いと共に。
 するとシゲはそれをこう評した。
「うわ、この部屋おっさん臭いわ」
「…どうせ俺はおっさんだよ」

 まだ中学生のシゲから見れば、自分なんて紛れもない『おっさん』なのだろうし、シゲからは一度も『コーチ』なんて可愛らしく呼ばれたことはないから、今更このくらいで傷つきはしないけれど。
「ちゃうて。そういう意味やなくて。あんたの匂いがするってこと」
「…俺の?」

 松下はシゲの言葉を意外な気持ちで聞いた。自分の匂いなんてものを気にしたことがないというのもあるが、それ以上にシゲが自分の匂いを知っているというのが不思議だった。
 いつの間に…、というのが正直な所だ。

 しかしシゲはしれっと言ってのける。
「ん。そうや。さっきまであんたに抱きしめられとったやん。そんで、大人の男の匂いってこんな感じなんやなって思てん」
「……そうか」

 シゲが座れるようにテーブルの周りをざっと片付けながら、松下は答える。いや、本当はどう答えていいか分からず、情けないことに反射的に応じただけだ。
 こちらをじっと見つめるシゲのまなざしには、松下の胸の奥をざわめかせるものが含まれていたから。そのまま見つめていたら、自分でも理解出来ない衝動が生まれてきそうだった。


 …ああ、こういうことか。

 松下はようやく悟った。あの男がこんな年端もゆかぬ少年に、みっともないほどに執着していたのは、こういうことだったのか、と。
 意識的になのか、あるいは無意識にか。シゲの中には男の欲望を駆り立てるものが、確かに存在している。そのまなざしに、口調に、仕草に、微笑みに。

 それは色気…などという生易しいものではなかった。例えるならば頭を鈍器で殴られるような衝撃。
 頭を殴られて平気で居られるものは少ないだろう。この痛みに耐え続けるくらいなら、自分の衝動に身を任せてしまった方がずっと楽だ、と松下ですら思うのだから、元々そのつもりでシゲに近づいてきたような男共はひとたまりもなかったろう。

 しかし、それでももちろん松下は耐えるつもりだった。シゲはまだ中学生で教え子で、一時の欲望のはけ口にしていい存在ではない。いや、そもそも『はけ口にしていい存在』などというものは存在しないのだろうけれど。

「…どないしたん?」
 胸を衝かれるほどに無邪気な笑みを浮かべるシゲに、松下もどうにかほろ苦い笑みを返す。
「ん?ああ。いや、何も出してやれるものがない、と思っただけだ」
「そんなん気にせんでええよ。勝手に押しかけてきたのはオレやし。この部屋でそんな大層なもんが出てくるとも思われへん」
「返す言葉もないな」

 事実、冷蔵庫の中は豆乳とビールくらいしか入っていない。シゲにビールを勧める訳にもいかないから、他にはインスタントコーヒーくらいのものだ。もう夏も近いと言うのに、熱いコーヒーというのもどうかと思う。
「…豆乳飲むか?」

 いきなり尋ねた松下に、シゲはきょとんとした。鳩が豆鉄砲を食らった顔、というのはまさにこれだろう。そして、その一瞬後には腹を抱えて笑い出す。そこまで笑わなくても…、と松下が思わず落ち込みそうになるほどの大爆笑だった。
「か…っ、かわ」

 ひーひーと笑い転げながら、シゲは何事か呟いている。気になった松下が耳をそばだててみると、どうやら『…可愛らしすぎやで、おっさん』らしかった。
 松下はこの歳になるまで『可愛い』なんて評されたことは一度もない。幼い子供の頃はそんなこともあったかもしれないが、少なくとも記憶にはなかった。ましてや親子ほども歳の離れた少年に言われるとは心外である。

「…俺のどこが可愛いって言うんだよ」
 その口調がすでに拗ねた子供なのだが、松下に自覚はない。
 当然ながら、シゲは嫣然と微笑んで指摘する。
「そういう所がめっちゃ可愛いで?」
「だから、それはどこなんだ」
「そうやって、いちいちムキになるとこ」
「…うっ」

 言われてみればその通りだ。図星を刺されて言葉が出ない松下に、シゲはまた笑いだす。
 それでも松下も先刻ほどは腹は立たなかった。シゲがそうやって無邪気に歳相応の笑顔を見せてくれるのが嬉しいからかもしれない。


 いつしか松下も誘われるように笑みを浮かべていたのだろう。
 しばらくそのまま二人で笑い合っていたが、ふいにこちらを見つめるシゲの瞳がそっと逸らされた。伏せたまつげが滑らかな肌の上に長い影を落とす。それは咲き誇った花がはらはらと散っていくようで、胸が締め付けられる表情だった。

「…シゲ?」
 いきなり部屋の中に押し寄せた沈黙に耐えかねた松下が、戸惑いがちに尋ねると、シゲはそのまま困ったように呟いた。
「あかんわ、もう…」
「何がだ?」
「こんな気持ち…、初めてやけど。予感がする。そやから…」
「いったい何の話だ」

 シゲの独白めいた言葉に松下は焦れるばかりだ。シゲが何を言いたいのか、これっぽっちも分からない。
 すると、シゲはようやく意を決したようにこちらを向くと、松下の目をじっと見つめ、鳶色の瞳を挑戦的にきらめかせて応えた。

「…あんたを、好きになってしまいそうな気ぃするから」


 




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