(3)
「おはようございます、会長」
「ああ、おはよう」
愁厳は釣竿を見つめていた顔を上げて、やわらかく掛けられた声の方へと向き直る。実際には、もうずいぶん前から彼の気配は感じていたし、今か今かと待ち構えていたのだけれど。
双七は、澄み切った青空に似つかわしい明るい笑顔を浮かべながら、当然のように愁厳の隣に腰を下ろす。
しかし今日は、いつもと違っている所があった。
「双七君、その荷物は?」
釣りの道具は全て愁厳が用意しているから、双七は手ぶらで来るのが通例だったのだが、今日に限っては、何故か重たそうな風呂敷包みを提げている。
すると双七は、愁厳のいぶかしげな視線にも動じることなく、いたずらっぽく笑ってみせた。
「えーっと、今は内緒です。後で教えてあげますから」
……これではまるで母親にあやされる駄々っ子のようだ、と愁厳は思ったが、内心の動揺を隠して、どうにか答える。
「そうか。それでは楽しみにしておこう」
その言葉には、双七の元気な応えが返ってきた。
「はい!」
こういう天真爛漫と言おうか、飾り気のない素直な所に、愁厳はついほだされてしまう。好意を抱かずにはいられなかった。
双七の明るい笑顔に魅入られるように、じっと見つめてしまっていた自分に気が付いて、愁厳は慌てて釣竿の方に視線を逸らした。
……釣りだ、釣り。釣りをしなくては。
必死に自分にそう言い聞かせると、水面を漂う浮きの動きを見つめる。こういう時に、ちょうど魚が喰い付いてくれれば、そちらに集中出来るのだけれど、生憎、その気配はさっぱりだ。
それでも愁厳はそのままで、ひたすら待ち続ける。
釣りというと、いかにものんびりしているようだが、実際は、短気な人の方が向いているらしい。
釣れないと思えば、すぐに餌を替えたり、場所を移動したりして、どうにかして釣ろうとするからだそうだが、なるほどと愁厳は思ったものだ。
確かに愁厳には、そういう所が少ない。皆無だと言っても良い。そして如月双七もまた同じようなタイプである。
別に釣れなくても構わないし、釣れたら嬉しいな、くらいの気持ちでは、魚も喰い付いてはくれないということだろう。なんせ、あちらにしてみれば、自分の命が掛かっているのだから。
そんな訳で、今日もまた漠然と釣糸をたらしている愁厳であったが、それでもごくたまに、魚が釣れることもある。よほど相手がうっかりしていたのか、腹を空かせていたのか、どちらかだろう。
その滅多にない事態が、いきなりやって来た。
「会長、引いてますよ!」
双七の声に、ハッと我に返った愁厳は、釣竿に手ごたえがあるのを感じた。しかも、これまでに味わったことのない強さだ。
「……こ、これは」
「大物ですね!」
釣竿を握る愁厳の手にも、いつになく力が入る。だが、水面を激しく揺らして暴れ回る魚の力も相当なもので、ほんの少しでも気を抜いたら、あっという間に逃げられてしまいそうだった。
「く……っ、重い」
あまりの魚の勢いに、一人では竿を支えることも、リールを巻くことも難しい。愁厳の唇から、思わず苦悶の声が漏れる。
すると、横から慌てた様子で、双七が手を貸してきた。
「俺が竿を支えます。会長はリールを巻いて下さい」
「心得た」
と軽快に答えたものの、リールを巻くのにもコツは要る。ましてや、こんな大物が掛かった経験など皆無に等しいのだから、どうにも心許なかった。
悪戦苦闘しながら、それでもリールを巻いていると、ようやく魚が水面近くまで上がってくる。時折見える魚影の大きさは半端ではなく、二人のテンションも最高潮に達した。
「うわー、すごい。すごいですよ、会長!」
「双七君、網だ。早く網を…っ!」
「え? 網って、どこですか?!」
「君の後ろに置いてあるだろう。ああっ、手を離したら駄目だ!」
「無茶言わないで下さい。竿と網と両方は持てませんよー!」
あたふたしながらも、どうにか双七が網を手にして、魚をすくい上げようと水面を闇雲に掻き回す。愁厳もここまで来たら、必死に竿を支えるだけだ。
「ま、まだか…」
「上手く入りません〜」
「早くしてくれ、もう限界だ……」
金魚すくいですら、まともに取れたためしがない双七だ。勢いよく暴れ回る魚相手では、勝ち目など最初から存在しなかった。
魚が力尽きて、大人しくなるのが先か、あるいは二人の気力と体力が尽きるのが先か。魚との戦いは、どうやら持久戦に持ち込まれたようだ。
そして、最後の瞬間が訪れる。
「あ……っ」
思わず声を発したのは、二人とも同時だっただろう。結局、二人に残されたのは、疲労だけだった。
「どうやら、まんまと逃げられたようだな」
すっかり抵抗が無くなった竿を持ち上げてみると、先端には餌だけが取られた針が寂しそうに揺れていた。
双七も網を手に持ったまま、がっくりと肩を落とす。
「空しい……」
「だが、楽しかったな」
愁厳がぽつりとつぶやくと、双七はハッと顔を上げた。その目には、もう明るさが戻ってきている。
「はい、俺も楽しかったです!」
「良い経験をさせてもらった」
「それに、あんな大物がここにも居るって、分かっただけでも嬉しいですよね」
「確かにそうだな。次への期待も高まるというものだ」
おそらく、あれほどの大物が愁厳の竿に掛かる奇跡は、もう二度と訪れはしないだろう。そのことは愁厳本人はもちろん、双七も承知の上だけれど。
二人はリベンジを誓い、固い握手を交わすのだった……。
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