【えせほし─似非星─ 】 kyo-ko

『 無条件幸福 』

(2)

「結局、俺は来てしまうのだな……」
 愁厳は釣り糸をたらしながら、一人つぶやく。
 昨日、双七と『いつもの場所』で会う約束をしたものの、恋人である刀子を差し置いて、自分と一緒に休日を過ごして良いのか、適当な理由をつけて、刀子に行かせれば良いのではないか、とあれこれ悩んでしまった愁厳である。

 もちろん本人の刀子にも確認を取った。『裏側』で、事情を話してみた所、双七の言った通り、刀子も了承しているようだった。
「せっかくの双七さんのお誘いですもの。存分に楽しんで来て下さいませ、兄様。わたくしのことはお気になさらずに」
 やわらかな笑みをたたえて、そう言われては、愁厳もこれ以上何も反論することは出来なかった。

 そして、散々悩んだあげくに、予定時刻よりもずっと早くから、ここにやって来てしまっているという訳である。浮かれていると言われても仕方がない。
「いや、違うぞ。俺は釣りが出来るのが嬉しいのであって、双七君と会えるから、はしゃいでいる訳ではないのだ。断じて違う。釣りだ、釣り。釣りを楽しもう」
 自分にそう言い聞かせている時点で、結論は出ているようなものだったが、愁厳は必死に目の前の釣り竿に意識を集中させる。


「何を一人でぶつぶつ言っているんですか?」
 そこへ、いきなり後ろから声を掛けられた。
「うわ……っ」
 愁厳は慌てて振り向く。武道で鍛えている自分に全く気配を悟らせず、これほどの距離まで近付くことの出来る人間は、ただ一人しかいない。
「おはようございます、会長」
 もちろん、そこに立っていたのは如月双七だった。

「お、おはよう。双七君、ずいぶん早くないかね?」
「そうですか? 会長だって、今来たばかりには見えませんよ」
「俺は色々と準備があるのでな」
「ああ、そうですよね。すみません、お世話になります。俺、また今回も手ぶらで来ちゃいましたけど」
 双七は悪びれずに言うと、明るく笑った。

 屈託がないというか、裏表がないというか。ぐるぐるとひねくれまくっている自分とは正反対だ、と愁厳は思う。だからこそ、双七のまっすぐな素直さが眩しく見えるのかもしれない。
 だが、おそらく双七に尋ねれば、まっすぐで素直なのは愁厳の方だと答えたに違いないのだけれど。

「手ぶらで構わんよ。俺の方で全部揃えてある」
 愁厳はそう答えながら、いそいそと双七の釣り道具を取り出した。
「餌はこちらにあるから、好きに使ってくれ」
「はい、分かりました。これをこうして……、と」
 すでに何度かやっているので、双七もそれなりに慣れてきたようだ。器用な手つきで餌を付けると、愁厳の隣に椅子を並べて、同じように釣り糸をたらす。

 愁厳はもとより、双七もそれほど釣りの腕が良い訳ではないので、こうしていても、ほとんど魚が釣れることはない。
 だが、愁厳はこの静かな時間が好きだった。
 まるで、この世にたった二人だけが取り残されたような、この場所だけが切り取られているかのような、静謐で穏やかな時間を、他の誰でもない如月双七と共に過ごしているというのは、この上もない幸福だ。


「釣れませんねぇ」
 他の誰にも聞こえないような密やかさで、双七がつぶやく。耳に優しいやわらかな声を噛みしめながら、愁厳もまたそっとつぶやいた。
「うむ、そうだな」
「魚はたくさんいるのになぁ」
 双七がつぶやくのと同時に、二人の目の前で、一匹の小魚がキラリと光を弾いて跳ねる。そこにやってきたウミネコが、すかさず獲物を捕らえて、あっさりと飛び去って行った。

「あちらの方が一枚上手だな」
「そうみたいですね」
 ウミネコの見事なまでのハンティングに、二人は顔を見合わせて笑った。その瞬間、二人の間に存在していた、どこか張りつめたような空気が消える。
 それは、共に過ごすことの出来る時間を、一分一秒でも無駄にしたくないと思う、愁厳の気負いが生み出したものかもしれなかった。


 良くも悪くも現実世界に引き戻された愁厳は、ふいに空腹感を覚える。時計に目を向ければ、ちょうど昼食の時間だった。
「ところで双七君、そろそろ昼飯にしないか?」
「え? もうそんな時間ですか。あっという間だなぁ。それじゃ、何か買ってきますね」
 おもむろに立ち上がる双七を、愁厳は慌てて引き止めた。
「それには及ばない。俺が弁当を持ってきている。良ければ一緒にどうだ?」
「良いんですか? そこまで甘えちゃって」
「元より、そのつもりだよ」

「それじゃ、遠慮なく頂きます」
 そう言うと、双七は両手を合わせて拝むような仕草をした。その姿を愁厳は微笑ましく見つめる。
「大した物ではないがね」
「もちろん会長の手作りですよね?!」
 何故か勢い込んで尋ねてくる双七に、うなずき返しながら、愁厳は二人分の弁当箱を魚用とは別のクーラーボックスから取り出した。それから、お手拭きと箸とお茶の入ったポットも一緒に。

 冷えたお手拭きを手渡してやると、双七はそれだけでものすごく感激していた。「至れり尽くせりですね!」とか何とか言って。
 お手拭きだけでその状態なのだから、きっちりと詰められた弁当のふたを開けた時の歓声ときたら。双七がそのまま踊りだすのではないかと思ったほどだ。

「こんなお弁当が食べられるなんて、俺は幸せ者だなぁ……」
「大げさだな。そこまで喜んでくれるのは俺としても嬉しいが、君の口に合うかどうか、食べてみなくては分かるまいよ」
 愁厳は苦笑を浮かべる。こんなに気合いを入れてしまったのに、不味かったら、目も当てられない。

 すると双七は、きっぱりと言い切った。
「大丈夫ですよ。会長の作った物が不味い筈がありません」
「その思い込みはどこから来るのやら。君は俺の料理を食べたことがあったか?」
「いいえ。でもあれほど美味しい料理を作る刀子さんが、料理の腕では会長に全然敵わないと言うんですから、疑う余地なんてないですよ」
「……さあ、どうだろうな」


 無邪気なまでにまっすぐに向けられる信頼に、愁厳の胸がちくりと痛んだ。刀子と張り合うつもりなどなかったけれど、結果的にそうなってしまったのは認めざるを得ない。
 愁厳は自分が情けなく、やりきれなかった。どれほど美味しい料理を作れたとしても、双七は刀子のものなのだから。
 そんな愁厳の想いを知ってか知らずか、双七は満面の笑みを浮かべて、弁当を頬張っている。色とりどりに並んだ料理が、片っ端から無くなっていくのは、見ているだけでも爽快だった。

「ふぁいふょーは、ふぁふぇふぁいんふぇすか?」
「話をするのは、ちゃんと飲み込んでからにしたまえ。もちろん俺も食べるとも」
 愁厳は答えながら、煮物を口に運ぶ。我ながら、しっかりと味が染みていて美味しいと思った。
 隣では双七が大きく喉を鳴らしている。一気に頬張った口の中の物をようやく飲み込んだようだった。
 そしてつぶやく。

「会長、よく俺の言ったことが分かりましたね」
「まぁ、何となく……、だな」
「以心伝心だったり」
「え……?!」
 双七の言葉に思わず焦ってしまう愁厳だが、当の本人は涼しげな顔で、食事を再開している。途端に愁厳は恥ずかしくなり、かすかに染まった頬を隠すように、ただひたすら箸を動かした。


 それからしばらくは、お互いに何の言葉も交わさないままに、黙々と食事が続いていく。元来、愁厳は話上手な方ではないから、例えば刑二郎などと二人でいても、やはりこんな風に沈黙が訪れることもある。
 それでも大抵は相手の方から話をして盛り上げてくれるし、そうでない場合でも、特に何も感じたりはしなかったのだが。
 双七と二人きりの沈黙は、信じられないくらいに重く、愁厳の上にのしかかってきた。何かを言わなくては、と思えば思うほど、何の話題も思い付きはしない。

「あー、その……、双七君」
 打開策は見つからないままに、とりあえず口を開いてしまった愁厳だったが、ふいに双七がじっとこちらを見つめていることに気が付いた。
 その静かな中にも凛とした強さのあるまなざしに、愁厳は目を離せなくなる。魅入られてしまう。

「そ……、そうし……」
 喉が詰まって、上手く言葉が出てくれない。声が掠れ、震えているのが自分でも分かり、ますます愁厳を戸惑わせた。
 と、そこに、双七の右手がこちらに伸びてくる。武骨で大きな手のひらが、かすかに、だが確実に愁厳の唇に触れた。
 突然のことに、ただ茫然とするしかない愁厳の前で、双七は屈託のない笑みを浮かべた。そして愁厳に触れたその指先を、自分の唇へと運んでいく。


 ぱくり。
 擬音で言うなら、まさにそうなるだろう。
「口元にご飯粒、付いてましたよ。会長って、意外と可愛い所があるんですね」
「……年上をからかうものではない」
 かろうじて、それだけを答えたものの、上手くかわせたかどうか自信が無かった。頬が赤く染まっているという自覚もある。顔が熱くて堪らなかったから。

「でも年上だって、可愛い人は可愛いですよ」
 くすり、と双七が微笑んだ。やはりからかわれている、いや遊ばれているのだ、と愁厳は確信した。
「ああー、今日は良い天気だな」
 自分でも何をどうごまかせば良いのか分からず、愁厳は意味もないことをつぶやきながら、おもむろに立ち上がった。しかし、それでどうなるものでもない。


 ……何をやっているんだ、俺は。
 内心で深い溜め息を吐くと、愁厳はまた椅子に腰を下ろす。何だか食欲が無くなってしまったので、無言で弁当箱のふたを閉めた。
 すると、そこへすかさず、双七の声が飛んでくる。
「もう食べないんですか? せっかくのお弁当を残したら、もったいないですよ」
「そんな気が無くてね。そう言うなら君が食べるか? 俺の食べ残しだが」

 それは愁厳のささやかな仕返し、あるいは他愛もない冗談のつもりだった。しかし、双七は愁厳の言葉にぱあっと顔を明るくさせる。
「良いんですか?! それじゃ、遠慮なく」
「え……? いや、それは……」
 慌てた愁厳が止める間もなく、双七は愁厳の手から弁当箱をさっと奪い取ってしまった。そして、そのまま何のためらいも見せずに、残った料理を美味しそうに頬張っていく。

「食欲旺盛だな……」
 愁厳は、もうそんな言葉しか出てこなかった。自分の弁当が無くなってしまったので、ぼんやりと双七が食べているのを見つめるだけだ。
 と、ふいに愁厳は気が付いた。双七が今使っている箸は、つい先刻まで自分が使っていたものだということに。

 ……か、間接キス……、なのか……?
 愁厳の頭はパニック寸前だった。出来ることなら、今すぐにでも刀子と入れ替わりたいくらいだった。
 たったこれしきのことで?とトーニャ辺りに聞かれたら、鼻で笑われるだろうが、愁厳は真剣そのものだ。あまりにも免疫が無さ過ぎるのだから仕方がない。

 しかし、愁厳をそんな恐慌状態に落とし入れた双七は、脇目を振らずに、ただ一心に弁当を食べ続けているのだった……。          


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ここまで読んで下さってありがとうございます。m(_ _)m

とても長くなってしまいました(笑)。
1ページがあんまりずるずる長いのもアレなので、
二分割にしようとも思ったのですが、
そこまでするほどの内容じゃないか、と思い直した次第です。

大して盛り上がる所もないような、
ほのぼの日常話ではありますが、
この先も、しばらくこんな感じで話が進みます。
(話が進まない、とも言えるけど)
一人であたふたする愁厳さんを、
愛でてもらえたら嬉しいです。

当たり前の日常こそが、幸せの日々なのです。

2007.11.22

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