【えせほし─似非星─ 】 kyo-ko

『第三の男』

(3)

 マンションのエントランスを入り、ロビーを抜け、エレベーターに乗って、自分たちの家の前に着くまで、二人とも一言も口を利かなかった。行の肩を抱いていた手も離している。人目を気にしたというよりは、居たたまれなかったからだ。
 行はこんな時に、自分から話をするような性格ではないし、仙石も今はあの渥美という男への苛立ちが強く、行に対して気を遣ってやる余裕がなかった。

 それどころか、ポケットから出した鍵を上手くドアに差し込むことすら出来ない。見かねた行が、そっと横から手を添えてくれたので、どうにかドアを開けることが出来た。仙石はますます情けなくなる。
 暗い部屋に電気を点けていっても、気持ちは明るくなってくれない。電気のスイッチのように簡単にオンオフの切り替えが出来たなら、どれだけ気楽だろう。

「すぐに飯にするから、着替えて来い」
 ぶっきらぼうにそれだけを告げると、行は素直に「はい」と答えて、自室に入っていった。その上質なスーツに包まれた背中を見つめ、仙石は小さく溜め息を吐く。
 このままで良い訳がない。大切な行との仲をこんなことくらいで壊したくない。それには自分が折れるしかないということは分かっている。
 行はきっと言い訳をしないだろう。それほど器用ではないのだ。だがそれは、説明をしないということでもある。本人は、『後で話す』と言っていたが、行がそれの出来る人間なら、仙石も苦労はないのだから。


 仙石に出来ることは二つ。
 渥美のことも何もなかったかのように、今まで通りにふるまうか、行を問い詰めて、事情を話させるか、どちらかだ。渥美に何があったのか尋ねるという方法もあるにはあるが、それは決して選びたくはない。

 だが、仙石はもう耐えられなかった。
 どんな理由があるにせよ、仙石に内緒で、行が渥美と会っていたことは事実で、そのことに仙石がどうしようもないほどに嫉妬しているのは、まぎれもない真実だ。
 いや、これは嫉妬というよりも、独占欲なのだろう。
 渥美はどう見ても、自分よりも男前で、行の隣に居るのが似合っていて、勝負にすらならないような相手だが、行が会っていたのが渥美ではなく、他の誰であっても、自分は許せないと思った。

 行が自分から連絡を取り、時間を作って会い、気を許した微笑みを浮かべるような相手が存在することが許せない。行は俺とだけ一緒に居ればいい。そんな嫌らしい思いで腹の中が一杯だった。
 仙石自身も、喜んでやるべきなのだ、と分かっている。行はもっと広い世界を見て、たくさんの人と関わって、自分以外にも大切な人間を作るべきなのだ、とずっとそう思ってきたつもりだったが、実際にその場に立ってみると、受け容れることすら難しかった。情けないにも程がある。


 仙石が自己嫌悪で吐き気すら覚えそうになった頃、ようやく行が着替えて戻ってきた。
「…仙石さん」
 静かに声を掛けられて、自分がずっとダイニングに立ち尽くしていたことに気付く。手にはスーパーの袋を提げたままだ。
 慌ててキッチンに袋を置くと、すぐには使わない食材を冷蔵庫にしまう。こういう動作はすでに習慣になっているので、頭が死んでいても、身体は勝手に動いてくれた。

 仙石がシンクに少し残っていた洗い物を片付け、米をといで炊飯器のスイッチを入れる間、行はじっと無言で傍に立っていた。忙しく動き回っている仙石に、どう声を掛けて良いか、分からなかったのだろう。
 それでも、仙石がすき焼き用のネギを切り始めたところで、もう一度おずおずと声が掛けられる。
「あの…、仙石さん」

「あいつと、どこ行ってたんだ」
 女房の浮気を責める旦那のような口調になってしまったことに、仙石は小さく舌打ちをするが、それを行は誤解したのか、ますます小さな声になる。
「…銀座に、買い物」
「どうせ食事もしたんだろ。それで?あの服を買ってもらったのか」

「違う」
 ふいに行は声を荒げた。
「食事はしたけど…。ワリカンにしてくれなかったから、おごってもらうことになったけど。でも服は自分のお金で買ったんだ。渥美さんは見立ててくれただけで」
「ふうん。そりゃあ良かったな。俺と一緒じゃ、あんな服は絶対に買ってやれねえからな」

 嫌味ったらしい口調に、自分で聞いていても気分が悪くなるのだから、さぞや行はつらい思いをしているだろう。それが分かっていても尚、仙石は抑えられなかった。
「今度、あいつと会う時は、俺にちゃんと言っていけよ。今日みたいに、黙ってコソコソ会うような真似すんな」
 仙石は吐き捨てると、荒々しい音を立てて、ネギをひたすら切っていく。二人分のすき焼きには多すぎるくらいの量がまな板の上に積まれた。


 行はしばらく黙っていたが、仙石はそちらに顔を向けはしなかったので、どんな表情をしているのか分からない。行の顔が見たくないのではなく、見られなかったのだけれど。
 それから仙石が、焼き豆腐としらたきと春菊とエノキダケを切っていく間、行はずっと口を開かなかった。あまりの仙石の態度に腹を立てたのか、それとも呆れたのか。

 さすがに沈黙に耐え切れなくなり、仙石が手を止めて、行の方に顔を向けると、行はぎゅっと手を握りしめて、そのままの状態で立っていた。
 やがて、うつむいた顔から、小さくつぶやく声が聞こえる。
「……だって、分からなかったんだ」
 何が?と仙石が問うよりも早く、行は言葉を継いだ。

「仙石さんくらいの年齢の人が欲しい物なんて、全然想像もつかなくて。相談できるのは、渥美さんしか居なかったから。でも……」
「欲しい物?」
 仙石は行の意外な言葉に首をかしげる。それに構わず、行の話は続いていた。

「でも、仙石さんがそう言うなら、もう渥美さんとは会わない。どうせ、もう報告の義務はないから、会う機会なんてないけど」
「俺はあいつと会うなとは言ってねえだろ」
 反射的に答えながら、仙石はふと疑問を抱く。
「報告って何だ?」
「渥美さんはダイスでの上司だったから。監視もついていたけど、報告の義務もあったんだ。心配しなくても、もう今はないよ」


「……本当に上司だったのか」
 仙石は深い溜め息を吐く。渥美の言葉を疑っていた訳ではないが、行が所属していた組織について、おぼろげながらにも知っている仙石には、あの男とはイメージが結び付かなかったのだ。
「すまん……」
 急に恥ずかしくなって、深々と頭を下げた仙石に、行はそっと答える。

「オレがちゃんと説明しなかったのが悪いんだ。誰とどこに行くとも何も言わずに、勝手に出かけたら、仙石さんが心配するのも当たり前だ」
「俺は聞いたぞ。お前が答えなかったんだろ」
 また責めるような口調になってしまい、仙石は慌てて「すまん」ともう一度付け加えた。そこへ行が慌てて答える。

「だって、あんたに言ったら、元も子もなくなる」
「何が」
「あんたを驚かせたかったんだ」
「だから何が」
 行の話が要領を得ないのは、いつものことだけれど、さっぱり理解出来なくて、仙石がイライラすることも多かった。
 すると、行は言いづらそうに目を逸らしながら、ぼそりとつぶやいた。


「……だって、もうすぐあんたの誕生日だろ。だからプレゼントを買っておいて、驚かそうと思ったんだよ。でもオレはどんな物を買って良いか分からなかったから、渥美さんに相談したんだ」
「誕生日?俺の……?」
 仙石は茫然とする。もうこんな年齢になっては、自分の誕生日など気にも留めない。むしろ行との歳の差が縮まるように、誕生日などずっと来なくても良いくらいだ。だが行は、そうは思っていなかったらしい。

「これまでもプレゼントはあげていたけど、今年は特別だと思ったから」
「そうか……」
 行が今年は『特別』だという気持ちは、仙石にも良く分かった。二人が『結婚』して、初めて迎える記念日なのだ。行の誕生日にはまだ早いし、クリスマスも正月も数ヶ月先だ。

「そんなこととは知らなくて、悪かったな、行」
 仙石は行の傍に行き、その身体をきつく抱きしめる。こんなことくらいで、許してもらおうとは思わなかったけれど。
 下らない嫉妬で行を傷つけてしまった自分が情けなく、行に申し訳なくて、居ても立ってもいられなかった。

「ううん。オレも……ごめん」
 行もまた仙石の背中に腕を回し、しばらく二人で抱き合っていたが、やがてお互いの唇が出会い、深く結び付いていった。
 誤解が解けてしまえば、まだ新婚の二人である。飽きることなく、キスを味わい続けた。それから二人の唇がようやく離れた所で、行がそっとつぶやく。


「それで……あの、プレゼントなんだけど」
「ん?ああ、そうだな。何を選んでくれたんだ?」
「えっと、……ワインを」
「ワイン?」
 行は酒を呑まないはずだし、仙石もワインはそれほど好きではない。不思議に思っていると、行が話を続けた。

「仙石さんの生まれた年に作られたワインを買ったんだ。仙石さんが生きてきた時間を、オレも一緒に味わいたくて」
 行の想いが嬉しかった。その気持ちだけで十分だと思った。それに、お互いの年齢差を気にしていたのは自分だけではないことも分かってホッとした。

 だから仙石は、いたずらっぽく笑う。
「そうか。ありがとうな。でもそれはまだ呑むなよ」
「どうして?」
「俺の時間はまだまだ続いているんだからな。これからはお前と一緒に」
 行は小さく微笑んでうなずいた。その笑みがどことなく哀しそうに見えたのは、お互いに仙石のこの先の人生が、もうそれほど長くないことを知っているからだろう。
 あと10年か20年か。30年はないかもしれない、その程度だ。


 それでも裏を返せば、まだそれだけ残っているとも言える。
「永遠に呑まないでいられたら良いのに……」
「まぁ、そのうちにパーッと乾杯してやるさ」
 行の寂しげなつぶやきをかき消すように、仙石は明るい声を上げた。行もつられて微笑みを浮かべる。

「誕生日おめでとう、仙石さん」
「ん、ああ。本当は3日後だけどな」
 仙石が照れながらつぶやくと、行も恥ずかしそうに答えた。
「当日はケーキ買ってくるよ」
「ろうそくは立てるなよ。恥ずかしいからな」
「分かってる。どうせ55本も立てられないし」
「俺はまだ54だ!」
「大して変わらないだろ」
 そして二人は明るく笑い、すっかり元通りになるのだった……。


           おわり


         
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ここまで読んで下さってありがとうございましたm(_ _)m

続きを書かなくてはと思いながらも放置していて、
気が付いたら、(2)を出してから、
すでに一年が過ぎてしまっていました。マジか。

もうほとんどの方が、忘れていると思いますが、
ようやく完結しましたよ。
お待たせ致しました。

オチは読めていたのではないかと思います。
どうせラブラブなんです。
渥美さんがどれだけ邪魔しようとも、
二人の仲はそう簡単には壊れないんです。

それが分かっているからこそ、
ついちょっかい出させたくなるんですけどね(苦笑)。
この先も、新婚さんシリーズでは、
渥美さんをちょこちょこと出して行きたいな。
(いつになることやら)

2006.11.25

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