【えせほし─似非星─ 】 kyo-ko

『第三の男』

(2)

 どこかへ出かけていった行を、複雑な思いで見送った仙石は、ずっと落ち着かない時間を過ごした。何を見ても、何を聞いても、つい行のことを思い出してしまう。行のことを考えずにはいられなかった。
 …今頃はきっと約束の相手と会っている時間だろう。

 仙石のイメージする行の相手は、同じ年くらいの若い青年だったり、脂ぎった中年男だったり、センスの良いロマンスグレーだったり、枯れかけた老人だったりしたが、とにかく誰もが男だ。
 あの行が、女性と会っている所など、まるで想像が付かなかった。せいぜいが品の良い老婦人くらいだろうか。
 だが、どれだけ想像を巡らせても、もちろん真実が分かる訳でもなく。ただ疲れただけに過ぎなかった。

「…ふう……」
 仙石はやりきれない気分で、重い溜め息を吐くと、余計なことを考えないようにと、絵筆を取ってキャンバスに向かうのだった…。


 それでもやはり最初のうちは気も散ってしまい、思うように筆が動いてくれなかったが、いつしか頭の中は空っぽになり、絵に没頭していた。描きあがったものは、仙石の内面を象徴しているかのような、荒々しい海の絵だったけれど。
「もうこんな時間か…」
 窓の外が夕闇に包まれているのに気付き、仙石はハッとした。そういえば、ろくに昼食も取っていなかった。おそらく行は誰かと一緒に食事をしているのだろう、と思ったら、食欲も湧かなかったのだ。

 それでも行は、夕食の時間までには帰ると言っていたので、仙石はそれを信じることにする。今日の夕飯はすき焼きにでもするか…、とぼんやり考えた。
 駅前のスーパーが5時からタイムセールスで、肉が3割引きになる。急がないと良い肉はあっという間に売り切れになってしまうから、仙石は慌てて出かける支度を始めた。毎日のチラシのチェックも欠かさないのは、ほとんど主婦のようだ。
 いや、実際にも主婦といって差し支えないだろう。行は一人で暮らしている時は、いったいどうやっていたのかと不思議に思ってしまうほどに、家事がまるでダメなのだから。家の中を仕切っているのは仙石だった。
 仙石もずっと妻帯していたので、それほど料理も上手い訳でもなかったが、必要に迫られて作っているうちに、今ではそれなりの腕前になっていた。行は好き嫌いもなく、何でも食べてくれるから、作り甲斐もあるのだ。


 そして今日も、無事に上質の肉を三割引きで買うことが出来て、ほくほくして家路についた仙石だ。押し合いへし合いする主婦の中に混じって頑張っただけのことはある。
 両手に大きな袋を提げながらマンションの前に戻ると、玄関先に黒塗りの高級車が、威圧感をむき出しにして停まっていた。はっきり言って邪魔なことこの上ない。

「どこのどいつだ。あんな所に停めやがって」
 マンションの住人なら、地下にちゃんとした駐車場があるし、たとえ来客だとしても、大抵はゲストスペースに停めているはずだった。おそらくはすぐに発進するからということなのだろうが、迷惑であることには変わりない。
 …あんな奴はロクなもんじゃねえぞ。きっとヤクザだな。
 仙石は決めつけた。もちろん何の根拠もない。ただの独断と偏見である。


 すると、そのヤクザの車の助手席から、一人の青年が降りてきた。そのアイドルとも見まがうような端正な容貌と、硬質な印象を与える横顔は、仙石もよく知っている人物に間違いなかった。
「……行?」
 思わずつぶやくと、仙石は足を止める。
 そこで声を掛けるのをためらわれたのは、ほんのわずかではあるが、目の前の青年が本当に自分の知っている行なのか、判断がつきかねたからだ。というのも…。

 行は、見るからに上質だと仙石にすら分かるダークグレーのスーツに身を固めていたのだった。それはスタイルの良い行にはとても似合っていたが、家を出る時には、いつものTシャツにジーンズというラフな格好だったというのに、いったいどこで何故着替えたというのか。そもそもその服はどうしたのか。
 行の持ち物だとしても、仙石は見たことがなかったし、それなら家から着て行くだろう。何らかの事情で着ていた服を駄目にしてしまい、代わりに借りたとでもいうのだろうか。しかしそうなると、どうしてそんなことになったのかが気になる。

 仙石の頭は大混乱だった。ただひたすら茫然と立ち尽くしていたが、行はこちらに背を向けていて、仙石には気づいていない様子だった。行の目は車の運転席側から降りてきた、一人の男に向けられている。
 彼は、仙石よりも年下だろうが、きっと行の父親だと言ってもおかしくないくらいの年齢だろう。目元や口元にその証が刻まれているが、それが老いにつながるのではなく、人間としての深みや渋みとして感じられるようだった。単純に言ってしまえば、仙石よりもずっと男前なのである。
 男が顔を近づけて、何やら言うと、行はぺこりと頭を下げた。いや、それどころか、唇には小さな笑みすら浮かんでいるから、行が男に対して気を許しているのが分かる。すると男もまた、憎たらしいくらいに端正な微笑みを浮かべた。


 ──それは、とても絵になる光景だった。
 二人とも顔立ちが整っているせいなのか、それとも他に理由があるのか、彼らのかもし出す雰囲気はひどく似通っている。あの男と仙石を並べて、どちらが行の父親かと尋ねたら、10人中10人が、向こうを選ぶことだろう。
 いや、もちろん仙石と行には血縁関係はないのだから、似ていなくても当たり前なのだけれど、対外的には『親子』になっている都合上、そういうことが気になってしまうのだ。

 …もしかしたら本当に行の身内か?
 仙石は考えた。
 行に身内がほとんどいないことは知っている。数少ない縁者も行とは付き合いがない筈だった。そもそも死んだことになっている行が、彼らの前に姿を現す訳にはいかないだろう。

 …それじゃ、あいつは何者だ?
 あの男が、行の方から連絡を取って会っていた人物に間違いない。仙石には言えない相手で、そうまでしてでも会わなくてはならない男なのか。行にとってどんな存在だというのか…?


 仙石は覚悟を決めた。一歩、また一歩と彼らの元へ近付いていく。
 その仙石の気配に最初に気付いたのは、やはり行だった。いや、あの男も気付いていたかもしれないが、仙石のことなど気にも留めなかったのだろう。ぼさぼさの頭にくたびれた服を着て、スーパーの買い物袋を両手に提げた冴えないオッサンのことなど、これっぽっちも眼中に在るまい。

「……仙石さん?!」
 行は驚いた顔をして、こちらを見つめ、そして隣の男に目を向けた。二人を見比べては、困惑した表情を浮かべている。しかしそれに構わず、仙石はつかつかと二人の元へ歩み寄った。
「うちの息子に何かご用ですか?」
 そして、男に精一杯の嫌味を込めて言ってやると、相手はやはりキザな笑みを浮かべる。

「これはこれは。実際にお目に掛かるのは初めてですね、仙石恒史さん」
「どちらさんで?」
 高みから見下ろすような話し方と声に聞き覚えがあるような気がしたが、顔を見たことがないのは確かだ。
「失礼。渥美大輔と申します。まぁ彼の元上司のようなものですね」
 そう言うと、渥美と名乗った男は右手を差し出す。握手を求めてのことだろうが、そんな仕草もいちいち絵になっていて憎たらしい。もちろん手なんて出してやらなかった。


 だが、言われてみれば、その名には心当たりがあった。行を死んだことにして、上手く取り計らってくれたのも渥美だというし、そもそも二人が結婚する際に、書類の手配をしてくれたのも渥美だった筈だ。
 それと同時に、仙石が思い出したのは、二人が結婚して新居に移り住んだばかりの頃、豪勢な花束が家に届いたことだった。その花束にはカードが添えられており、『結婚おめでとう 渥美』と書かれていたのである。
 これが旧友の若狭あたりがやったのなら、笑い話で済んだかもしれないが、見も知らぬ男から花をもらっても何も嬉しくなく、ただシャクに触っただけだった。花をもらった行は喜んでいたように見えたのも原因の一つだろう。

「それで?もう用がないのなら失礼させてもらいますよ。行、いくぞ」
 仙石は、渥美に対しては最初から最後まで、気に入らないという印象しかないから、つい風当たりもきつくなる。二人の間に挟まれた行は、戸惑っていたようだったが、すぐにぺこりと頭を下げた。
「今日は…、ありがとうございました。それじゃ…」
 すると渥美は、ふわりと邪気のない笑みを浮かべる。行に頭を下げられ、礼を言われたことが、男を微笑ませたのは明らかだった。

「いや、またいつでも連絡してくれ。待っているよ」
 甘く響く美声でそんなことを言われたら、大抵の女性ならころりと参ってしまうだろうが、行は困惑した顔で、はぁ…、と気の抜けた返事をしただけだ。
 行が鈍くて助かった、と仙石は胸を撫で下ろす。

「それじゃ失礼しますよ」
 そっけなく言うと仙石は、行の肩に手を回すようにして、自分の元に引き寄せながら、渥美に背を向けた。そのままマンションの入口に向かって行く。

「…幸せそうで何よりだ」
 背中ごしに、男のそんなつぶやきが聞こえたような気がした。嫌味や虚勢だとは思えなかった。本心からそう思ってくれているようだった。
 仙石はほんの少し男を見直しかけたが、やはりそんな甘いことではいけない、とすぐに考え直すのだった…。


          
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