【えせほし─似非星─ 】 kyo-ko

『第三の男』

(1)

「おーい、行。メシ出来たぞ」
 朝食の仕度を済ませた仙石は、リビングにいる筈の行に声を掛けた。エプロンをして、右手にオムレツの皿を持っているのは、たとえむさ苦しいオッサンでも微笑ましい姿だ。

 行は低血圧なので、朝には非常に弱い。寝起きも悪いし、機嫌も悪い。朝食の支度を手伝ってくれ、などと決して言える雰囲気ではなく、結果として仙石の担当になってしまっていた。
 それどころか、ほとんどの家事は仙石がやっているのだけれど。
 まだ『結婚』して日が浅いから仕方がないが、いつかは二人仲良くキッチンに立ちたい、そんな夢を抱いている可愛い仙石なのだった。

「行、どうした? 冷めちまうぞー」
 一向に来る気配のない行に、仙石はフライパンを片付けながら、再び声を掛ける。
 行は放っておくと、そのままいつまでも眠り続けてしまうから、仙石が起きる時に、まずはベッドから引きずり出して、居間のソファに座らせておく。そうして仙石が朝食の支度をしている間に、行は少しずつ目を覚ましていき、どうにか二人で朝食を取ることができるようになるのだ。


 しかし、三日に一度はそのままソファで眠りこんでしまう行だ。仙石は慌ててそちらを覗きこむ。いつもならば、行がお気に入りの黒いソファに沈み込むようにして、小さく丸まっているのだけれど…。
「おい、行。あれ?居ねえな、トイレか?」
 仙石は首をかしげながら、もしかしたら、またベッドに戻ってしまったのかも知れない、と思い、何気なく寝室のドアを開けた。

 すると、やはり行はそこに居て、こちらに背を向けていた。どうやらちゃんと起きていたようだ。
「行、メシだぞ」
 声をかけた仙石に、行はようやく気がついたのか、ハッとしてこちらを振り向いた。左手には携帯を持っている。

「すまん、電話中だったのか」
 そっと仙石が声をひそめると、行は慌てた様子で、電話を切った。また連絡する、とそっけなく言って。
「あ、えっと…、何?仙石さん」
「メシだぞ。早く食べないと冷めちまう」
「ああ、そうか。ごめん」

 行はそう言うと、ぎこちなく微笑んだ。まるで先刻の電話を取り繕うとするかのように。
 仙石は、行がそんなことをするのを見たことがない。ふいに、胸の奥に小さな疑念が湧いた。
 …まさか。いや、そんな。行に限って。だが…。
 心の中で、否定すればするほど、不安は大きくなっていく。


 そもそも行が電話をすること自体が珍しい。携帯のメモリーには仙石と、画廊のオーナーくらいしか入っていないことは知っていた。
 しかもどうやら、行から相手に掛けたらしい雰囲気だった。それもまたあり得ないことで、仙石は戸惑う。自分ですら、行から自発的に電話をもらうことは、結婚前でもほとんどなかったというのに。そして結婚してからはずっと一緒に居るのだから、電話なんてしないのだ。

 いや、別に仙石は行と電話がしたい訳ではない。その筈だが、どうしても電話の相手が気になって仕方がなかった。
 それに、仙石が声を掛けるまで、行が気付かなかったのもおかしい。仙石の足音にも、ドアを開ける音にも行が反応しないなんて、それこそ信じられないことだ。つまりはそれだけ電話に集中していたということなのだろう。
 それは、いったい…?

 もう食事も手に付かなかった。自分でも馬鹿なことをしていると思いながら、仙石は精一杯のさりげなさを装って、行に尋ねる。
「…さっきの電話、画廊のオーナーか?」
 あまりにも直接的すぎる質問だったが、行は箸を止め、つと顔を上げた。そして小さくかぶりを横に振る。

「いや…、違う」
 そう言ったきり、行は押し黙ってしまったから、仙石はもう何も言うことが出来なくなった。
「そうか…、すまん」
 何に対して謝っているのかも分からないまま口の中でつぶやくと、食事を再開する。オムレツの味なんて、全く感じられなかったけれど…。


 それに対して、行は何も変わらないように見えた。無表情なのも、口数が少ないのも、いつものことだ。
 それでも仙石には、行が戸惑っていることが分かっていた。仙石の質問に、どう答えようか迷ったことも。
 行という人間は、決して嘘が吐けない。

 以前にそのことを指摘したら、行はほんの少し寂しげに笑って言った。自分はずっと任務で嘘ばかり吐いてきたから、もうそんなことしたくない、と。
 それを聞いた仙石は、昔もやはり嘘を吐くのは下手だったな…、なんてことをほろ苦く思い出したものだった。

 だから行は、仙石には決して嘘を吐くことはないから、適当な言葉でごまかすことも出来ない。電話のことにしても、オーナーだったと言ってくれたら、仙石はそれで納得したに違いないのだけれど。
 …嘘の言えない行は、ただ沈黙を守るだけなのだ。

 そして、おそらく仙石が強引に問い詰めれば、本当のことを言うだろう。どれほど言いたくないとしても。仙石のために話してくれることだろう。それも分かっていたから、仙石もまた、何も言えなくなった。
 言えないことなら仕方がない。たとえ結婚していても、お互いにどうしても秘密にしておきたいこともあるだろう。言いづらいことだってあるに違いない。
 仙石は、砂を噛むような思いで食事を口に運びながら、自分に必死に言い聞かせるのだった…。


 それでも、その時はそれで話は終わり、仙石もいつしか忘れてしまっていた。思い出したのは、それから一週間ばかり経ったある日のことだ。
 朝食を終えた行が、何でもないような口調で言う。
「仙石さん、オレ今日出かけるから」
「おう、そうか」

 反射的に応えながら、仙石は無意識のうちに付け加えた。
「どこ行くんだ?銀座か?」
 銀座には行が世話になっている画廊がある。極度に出不精の行でも、月に一度くらいはそちらに足を運んでいるようだった。行が出かけるといったら、そのくらいだから、仙石は何の他意もなく尋ねたのだけれど…。

 しかし、行はハッとしたように表情を強張らせると、たった一言つぶやいた。
「…違う」
 その瞬間、仙石はあの電話のことを思い出した。全く同じ状況だった。行は仙石に言えない相手と電話をし、言えない相手に会いに行くのだ。


 …いったいそいつは誰だ、誰なんだ。
 仙石は問い詰めたかった。そうする権利も自分にはあると思った。
 それでも聞けなかった。嘘でごまかしたり出来ない行が、今もつらい思いをしていることも分かっていたから。仙石に言えないことを苦しんでいるのが伝わってくるから。

 だから、たった一言だけつぶやいた。
「気をつけてな…」
 すると行は、追いすがるような必死な口調で言った。
「まだ言えないけど、でもきっと後で必ず話すから。だから…っ」

「分かってるよ」
 仙石はうなずく。そして、行の黒髪をくしゃくしゃと掻き回してやった。指先に、出来る限りの愛情を込めて。
 手のひらの下で、行が小さく、ごめん、とつぶやいたようだったが、それは聞こえない振りをする仙石なのだった…。


          
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