【えせほし─似非星─ 】 kyo-ko

『会えない時間』

(2)


「とっとと行け」
 そう言って仙石を叩き出したものの、行はしばらくぽつんと玄関にそのまま立ち尽くしていた。

 ずっと一人で生きてきて、この先も同じように一人で生きて行くのだと思っていた。
 仙石と再会してからも、こんな風に一緒に暮らすことなんて考えたことがなかった。自分にもう一度『家族』が出来るなんて思いもよらなかった。

 それなのに、ほんの数ヶ月、仙石と共に暮らしただけで、もうそれが当たり前のようになってしまっている。仙石がいない日々なんて、想像出来なくなってしまっている。
 あまりの変わりように、自分でも可笑しくなってしまうほどだった。

「すぐに慣れるだろ…」
 行は一人つぶやいた。仙石が戻ってくるまで、二週間か一ヶ月か、どのくらいになるかは分からないが。
 そう、きっとその筈だ。
 仙石と一緒にいた時間よりも、ずっと一人で過ごした時間の方が長いのだから。また元に戻るだけのことだ。

 そうやって言い聞かせてみても、やはり言い知れない不安が胸の中で揺らめくのを、感じずにはいられなかったのだけれど…。


 ちゃんと飯を食え、と仙石に言われたので、行はカレーを作ることにした。とはいえ、温めるだけのレトルトだ。近頃はご飯とカレーがセットになって売っているので、ますます手軽である。洗い物の必要すらない。
 それでも一人で食べる夕食は、覚悟していた以上に味気なかった。仙石が一緒ならば、これにサラダでも手っ取り早く作ってくれただろう、などと思いながらでは、余計に空しくなってしまう。

 途端に食欲が失せたが、残すのはもっと嫌だったので、無理やり流しこんだ。そして、もう何もすることがなくなった。

 夜はこんなに長かっただろうか?

 話し相手がいないとか、一人では何をしても楽しくないとか、絵を描く気にすらならないとか、そんなことではなく。もちろんそれもあるだろうけれど、根本的な理由はそうではないと思った。


 何をする気も起きなくて、悩んでいることすら面倒になって、行はベッドに潜りこむ。そのベッドもまた、隣に誰もいないことを嫌でも感じさせられる場所ではあるのだが。
 灯りを消した寝室で、行はしばらく息をひそめてじっとしていたが、ふいに思いついたように、二つ並んだ枕の片方に、そっと手を伸ばした。そのまま引き寄せて抱きしめると、懐かしい匂いが鼻をくすぐる。

 他人に言わせれば、ただのオヤジ臭じゃないのか、と思われる所だろうが、行にとっては他のどんな匂いよりも、安心できて、心地良くしてくれるものだった。
「おやすみ、仙石さん」
 いつものようにつぶやいて、静かに目を閉じる。今夜はどうにかこれで眠れそうだ、と思った…。


 行が眠れなくなったのは、一週間後のことだった。
 ずっと洗わずに置いておいた枕カバーやシーツからも、仙石の匂いが消えていく。それどころか、仙石がこの部屋にいたという痕跡すら、失われてしまう。仙石と暮らしていたことも、自分に都合の良い夢だったのではないかとすら思う。

 いや、分かってはいるのだ。
 タンスを開ければ仙石の服が詰まっている。洗面所には仙石の歯ブラシが立っている。仙石のアトリエ兼自室には、スケッチブックやキャンバスが所狭しと並んでいる。仙石の好きな本も、よく聴いているCDも、この二人の家には残っているのだから、何の疑う余地も、不安になる必要もないのだ、ということは。

 それでも、行はどうして良いか分からなかった。たった一週間で、自分がこんな風になってしまうことなど信じられなかった。
 そして、ようやく気が付いた。
 こういう時こそ、絵を描くべきではないのか、と…。


 南向きの窓に面した、横須賀の海の見える二つの部屋の、片方が行のアトリエ兼自室で、もう片方が仙石のものだ。どちらも同じ間取りで、同じ広さだったが、中に置いてあるものが違うせいか、まるで別の部屋に見える。
 行は真っ直ぐに自分の部屋に入ろうとして、ふと足を止めた。しばらくドアの前でためらっていたが、意を決したように扉を開く。

 その部屋の中は片付いていて、フローリングの上にもチリ一つ落ちてはいないが、どこか雑然とした印象があるのは、物が多すぎるからだろうか。
 『自分の物』が多いのは、それだけ長く生きてきた証のようで、行はちくりと胸を痛めた。仙石の、自分が知らない過去にまで妬いても仕方がないことだけれど。

 主のいない部屋の中央には、イーゼルに乗った一枚の絵がある。それもやはり海の絵で、おそらくは壁画の習作にしたのではないかと思われた。
 どこか懐かしさすら覚えるその海は、眼下に広がる横須賀の海と似て非なる場所だった。きっと呉の海なのだろう。

 行は、すっかり絵具が乾いてしまったキャンバスに、おずおずと触れてみた。その指先から沁み込むようにじんわりと、仙石が一筆ずつ乗せた想いが伝わってくる気がする。
 絵は見るだけではなく、触って鑑賞する方法もあるのだ、と初めて知った。

「仙石さん…」
 そっとつぶやき、行は今度こそ自分の部屋へと入って行くのだった…。


 絵を描き始めてからは、食べることも寝ることも後回しになってしまったが、そちらに意識が向かない分だけ、気楽になったのだろう。眠ろう眠らなくては、と思っていた時よりは、それなりに睡眠も取れるようになった。
 そして、どうにか『仙石がいない』ということに、心の全てが奪われてしまわないようになった頃、一本の電話が掛かってきた。

 携帯にではなく、自宅の電話だったので、おそらく仙石ではないだろう、と無視しようとしたが、画廊のオーナーからだったら後で嫌味を言われるかも知れない、と思い直した。
 大した期待もせずに電話に出ると、受話器の向こうから一瞬でも忘れたことのない人の声がする。

『行か?』
「…仙石さん」

 予想もしていなかったので、不意打ちを食らった形になった。そして、とっさに反応できなかったのは、そのせいだけではないことに、電話の向こうの仙石も気づいたことだろう。
 …どうして携帯に掛けないんだ、驚くじゃないか、と心の中で恨み言をつぶやく。
 それでも愛しい人の声は、聞き慣れているはずの行の耳にも、とても優しく甘く響いた。電話越しで少し掠れ気味だからかもしれない。

『出来たぞ』
 単刀直入、簡単明瞭、分かりやすいのが仙石の美点だ。当然、行も何が出来たのか、などと聞き返す野暮はしない。
「良かったな…」
 もっと話したいことがある。言いたいことがたくさん身体の中に詰まっているのに、胸がふさがれたようになって、言葉が出てきてくれなかった。この想いを伝える方法が、今は言葉という手段しかないのはもどかしい。


 …会いたい。
 堪らなく、そう思った。

 お互いに顔を見ていれば、言葉に出来ない想いも、仙石は受け止めてくれる。行の中に眠っている言葉にならない言葉も、仙石ならちゃんと分かってくれるのに。
 電話では伝わらない。なんにも伝わっていない、と思った。

 しかし、仙石の電話は『今から…』と中途半端な言葉を残して、いきなり切れてしまった。
 おそらく公衆電話から掛けていて、料金不足だったのだろう、という予想くらいはつくが、それで行の落胆が軽くなる訳ではない。高々と持ち上げられて、一気に地面に叩き落とされたような気がした。

「小銭くらい持っとけ」
 やつあたりするかのように荒っぽく電話を切ると、手にしていた子機をソファの上に放り投げる。こんなものにまで優しくしてやれる余裕はなかった。
 それでも、仙石が何を言おうとしていたかは分かっている。

 行はようやく帰ってくる仙石を出迎えるために、自分はいったい何をすべきか、頭を悩ませるのだった…。

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