【えせほし─似非星─ 】 kyo-ko

『会えない時間』

(1)


「それじゃ、行ってくる」
「ああ」

 甲斐甲斐しく玄関先まで、仙石を見送りに来ていながらも、行の言葉はそっけない。しかしそれが照れ隠しであることも、仙石は当然承知していた。
 それどころか、すがりつくような、心細げなまなざしが、行の本心を如実に訴えかけてくるのだから。つまり、捨てられた子犬のような目だ。もちろん擬音は『きゅう〜ん』である。堪らない。

「早く帰ってくるからな」
 思わずそう言うと、行はかすかに頬を染め、それでもつれない言葉を返した。
「グダグダ言ってないで、さっさと行けよ」
「良い子で待ってるんだぞ」
「オレは子供じゃない」

「一人でもちゃんと飯食えよ」
「子供扱いするなって言ってんだろ」
 事実、戸籍上は親子でもある二人だが、仙石は行を子供だなどと思ったことはない。ただ放っておけなくて、心配なだけなのだ。それが子供扱いと言うのかもしれないけれど。

「じゃあな、本当に行くからな」
「とっとと行け」
「分かったよ…」
 これ以上グズグズしていると、本気で蹴り出されそうなので、仙石は泣く泣く我が家を後にする。背中で無情な音を立てて鉄の扉が閉まり、思わず溜め息を吐いた。

「しょうがねえ。しばらくの辛抱だ…」
 当分会えないのだから、もう一度だけでも行の顔を見たい、と思う気持ちを必死で振り払い、仙石は重い足取りで、エレベーターに乗り込んでいくのだった…。


 まるで今生の別れ、とでもいうような状況であるが、おそらく離れていることになるのは、1ヶ月かそこらだろう。うまくすれば二週間くらいで戻ってこられるはずだ。
 それでもこれほどまでに後ろ髪を引かれてしまうのは、二人が『新婚さん』だからに他ならない。

 行がしばらく住んでいた館山の一軒家を引き払い、横須賀の閑静な場所に立つマンションに二人で居を構えたのは、ほぼ半年前。言わば二人の愛の巣である。
 その表札には『仙石恒史 行』の文字。そう、行は晴れて仙石の養子となったのだ。

 『如月 行』は死んだことになっているから、仙石の養子になるためには適当な戸籍をでっち上げてもらったのだが、それを最後にして、行と仙石は、例の組織からの監視から離れることとなった。二人が再会してから既に5年が過ぎ、ようやく解放された形だ。
 そこで、ちょうど良いから別の土地で心機一転、二人の生活を始めようという結論に達したのだった。5年の間にこつこつと売った行の絵の代金で、新居も無事に手に入れることが出来た。

 二人の部屋は、眺めの良い高台に立つマンションの二階である。
 仙石はもっと上の階の部屋を希望したのだが、それでは逃げ場がなくなる、と行が頑なに反対するので、仕方がなく仙石が折れた。いったい誰から逃げるのか、と内心では思いつつも。
 何よりも防音設備がしっかりしている部屋、という基準で選んだため、隣近所の物音もほとんど聞こえず、画家である二人にとっては、理想の製作環境と言える。

 それに、外の音が聞こえないということは、中の音も響かないということで。便宜上は『親子』となっている二人のアヤシゲな声が、隣に聞こえてしまうこともないのである。それを良いことに、仙石は三日と開けずに、あれこれ致してしまっているのだけれど。
 そんなラブラブ新婚さんの二人であるから、一時でも離れがたい気持ちは当然だった。


 しかし、その二人を引き裂いたのは、仙石の兄から掛かってきた一本の電話。またセンゴクストアに壁画を描いて欲しい、とのことだった。
 仙石も壁画を描くのは好きだ。ある意味では自分のライフワークだとすら思っていた。

 が、それでも壁画となると、かなりの日数を掛けて、現地で描かなくてはならなくなる。新店舗は恵比寿であるから、横須賀から日参するのもつらい。どうしても泊まり込むしかない。
 すると、必然的に行とは離れ離れになる訳で。勢い、愁嘆場を演じることになってしまったのだった。

 それでも、壁画を前にしてしまえば、そちらに没頭出来るのも仙石恒史という男だ。とにかく目の前のことしか見えなくなる性質は、それほど簡単に変わるものでもないらしい。
 一人寂しく家で待つ行のことを思うと、胸の奥がチクチクと疼きはしたものの、とにかく絵を仕上げれば、それだけ早く帰れるのだから、と一心不乱に絵筆を動かす仙石なのだった…。


 結局、仙石が絵を完成させたのは、二週間後だった。
 急いで描いたことは否定出来ないが、決して手を抜いたりはしていない。文字通り、不眠不休で乗り切っただけのことだ。
 むしろ必死に追い詰められたのが功を奏したのか、兄からは今までで一番良い、と絶賛され、苦笑を浮かべるより他になかった。

 それでもとにかく絵は出来たのだ。これで行の元に帰れるのだ。
 さっそく行に連絡しようと携帯を手に取ったが、すっかり放置していたせいで、電池が切れてしまっている。これでは行が寂しがって電話を掛けても通じなかっただろう。もちろん逆立ちしたって、そんなことが出来る行ではないが。

 そこで、慌てて探した電話ボックスに飛び込んで、いざ受話器を取った瞬間、小銭の持ち合わせがないことに気が付いた。うかつにも程がある。ポケットを片っ端からひっくり返して、どうにか転がり出てきたのが10円玉一枚ではロクに話も出来まい。
 どこかでタバコの一つでも買って、札をくずしてくるか、それともこのまま10円で電話してしまうか。仙石はしばらく迷った。


 が、一刻も早く行の声が聞きたい、という想いには勝てなかった。
 何故かドキドキしながら、ダイヤルボタンを押すと、程なくして受話器の向こうから、行の声が届いてくる。
『はい』
「行か?」

 他に誰がいるんだ、と心の中でツッコミながらも仙石が尋ねると、ほんの一瞬、行は声を詰まらせたようだった。
『…仙石さん』
 その一言だけで、行の想いが全て伝わってくる。少なくとも仙石はそう思った。愛ゆえに。

「出来たぞ」
『良かったな…』
 今から帰るからな。そう言おうとした所に、いきなり耳ざわりな電子音が響く。どうやらもう10円の効力が無くなったらしい。

「今から…」ブツン、ツーツーツー。
 結局そんな歯切れの悪い電話になってしまった。
 それでも気持ちは行に伝わっていることだろう。仙石は頭を切り替えることにした。とにかく早く帰りたかった。
 ほんの一言だったけれど、行の声を聞いたことで、想いが倍増したのだろうか。


 …会いたい。
 堪らなく、そう思った。

 いや、それだけじゃ足りない。今すぐに行を抱きたい。もしも目の前に行がいたら、問答無用で押し倒して、メチャクチャにしてしまいそうなほどだった。
 たぎり立つ情熱を必死に抑えつつ、仙石は車を飛ばして、愛しの恋人が待つ我が家へ向かうのだった…。

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