『静かな夕べ』 |
(1)二人は、またリビングに戻って、ソファに向かい合って座る。 すっかりコーヒーは冷めきっていたが、仙石はカップの中身を一気に飲み干した。かすかに舌に残る苦味も、今は甘くすら感じられるようだった。 先刻までの思い悩んだ様子が嘘のように、仙石は晴々とした顔になっている。その変化を、行も感じ取っているのだろう。自分もカップを口に運びながら、物問いたげにこちらを見つめていた。 しかし仙石自身も、この気持ちの移り変わりを、行にどうやって説明すれば良いのか分からないから、何も応えてやることは出来ない。説明するつもりもなかった。 しばらくの間、お互いにじっと黙り込んでいたが、ふいに行が口を開く。しかも言うことときたら。 「泊まって行くか?」 仙石の口が思わずだらしなく開いた。コーヒーを含んでいたら吹き出していただろう。 「な、何…?」 目に見えて慌てる仙石を、行は不思議そうなまなざしで見つめた。 「もう今から帰るには遅いだろ、だから」 まだ夜の7時だ。帰れないほど遅い時間ではない。しかし仙石は黙ってうなずく。もちろん行の言葉に他意がないことも分かっていた。 …誘われている訳じゃねえよな、うん。 言い聞かせ、どうにか自分を納得させる。そうでもしないと変な気分になりそうだった。 仙石には決してその手の趣味はない。 行はもとより、同性をそういう対象で見たことはなかった。狭い艦艇内では特に珍しいことではなかったが、仙石には全く関わりのない世界の話だ。 だからこそ、いま自分がひどくうろたえていることに、仙石は戸惑っていた。 ふと、先刻こっそり見てしまった行の寝室が思い出される。ぽつんと置かれていたベッドに、行が毎晩眠っているのか、と思えば、また動機が激しくなった。 そんな自分が自分で理解出来ない。ぶるぶると頭を振ると、妙な妄想を閉め出す。 行がこちらを奇妙なものを見るような目で眺めているから、仙石は慌てて言いつくろった。 「そりゃあ、ありがたい申し出だけどよ。寝る所なんてねえだろ?」 いっそのこと、それなら帰れ、と言われた方が楽だったが、行にしては驚異的なほどの心の広さを見せてくれた。 「毛布くらいなら貸してやるよ」 「…それじゃ寝かせてもらうか」 仙石は降参した。心の中で泣き笑いを浮かべながら。 もうこれ以上、どう抵抗することも出来ない。最後の手段は『泊まりたくない』とはっきり言うことくらいだが、それでは嘘になってしまう。 仙石自身も帰りたくはないのだ。ようやく二人出会えたというのに、まだろくに話もしていない。聞きたいことも、言いたいこともたくさんある。これで別れてしまうのは嫌だった。 ましてや次の機会がいつ巡ってくるか、分からないのだから。 一夜を共に過ごした所で、行がいきなり打ち解けて、自分の身の上話を始めてくれる…、などとは、さすがの仙石でも思わなかったが、行に自分の話をしてやることは出来るだろう。 あの海で、行を見つけられなかった時のことや、それからずっと苦しみ続けたこと、そして例の絵を描くことで、自分も救われたことを…。 仙石が、こうして行と再会できたことをどれほど喜んでいるか、きっと行は知らないだろう。 そんなことを、ゆっくりと時間を掛けて、行に伝えてやりたかった…。 「俺は今…」 …本当に幸せだ、と続く筈だったのだが、それを遮るように、間の抜けた音が静かな居間の中に盛大に響いた。 ぐうう〜〜〜。 仙石の腹の虫だった。規則正しい自衛隊生活が長かったせいなのか、この虫は時刻には非常に正確である。だが、これではせっかくの良い台詞も台無しだ。 「腹減ってるのか?」 行がくすりと笑いながら尋ねてくるので、仙石も困ったように微笑み返す。 「あ、ああ…。そう言おうと思ったんだ」 実際はまるで違うが、ここはそう言うしかない。 しかし行は即答する。 「何もないぞ」 「それじゃ、お前は何を食べるつもりだったんだ?」 「オレは適当に…」 うやむやに言葉を濁す行に、仙石はいぶかしげな視線を向けるが、行はそれ以上何も答えようとはしなかった。 「それじゃ、俺が何か作ってやるよ。米はあるんだろ?」 米と卵とちょっとした野菜でもあれば、チャーハンぐらいなら作れる。それほど凝った料理は出来ないが、行もそこまで要求はしないだろう。 すかさず立ち上がり、キッチンに向かった仙石の後ろから付いてきた行は、仙石の背中に声を掛けた。 「冷蔵庫に、さっき買ったおにぎりがある」 「おにぎりじゃ、チャーハンにはならねえなぁ」 しかし、おにぎりをそのままモソモソと二人で食べるというのは味気ない。それをどうにか出来ないか、ぼんやりと考えながら、仙石はキッチンの冷蔵庫を開けた。そして茫然とする。 「なんだこりゃ…」 ブロックタイプの栄養食品と、野菜ジュースと、サプリメントなどがひんやりしている中に、ぽつんとコンビニの袋に入ったおにぎりが置かれていた。およそ食材と呼べるものが存在しない。むろん調味料の類もだ。 「お前、主食は何だよ」 後ろを振り返って尋ねると、行は黙って固形栄養食品を指差す。 「これだけか!?」 「これで成人男性の一日分のカロリーと栄養が、摂取出来るように設定されている。問題ない」 「いや、そういうことじゃなくてだな…」 仙石が独身の時でも、もうちょっとマシなものを食べていたと思う。これではまるで糧食だ。行にとって『食事』がこういうものだとしたら、あまりにも気の毒で涙が出そうだった。 「よし、分かった。俺が何か作ってやるよ」 「必要ない」 「こんな物を俺にも食わせる気じゃねえだろうな」 気合いを入れて睨みつけてやると、さすがの行も押し黙った。そこですかさず仙石は近所の商店街の場所を聞き、家を飛び出していくのだった…。 行の家の周辺は木が茂って、うっそうとしているので、どれだけ山奥かと思っていたが、意外にも10分も歩けば、普通の街中に出ることが出来た。ずいぶん日が長くなってきたとはいえ、もう7時も過ぎれば辺りは真っ暗だ。人けも少ない。 それでもすぐに小ぢんまりとしたスーパーを発見して飛び込む。まるで規模は違うが、なんとなくセンゴクストアを思い出した。 頭の中で自分で作れる数少ないメニューを描きながら、目に付いた食材をカゴの中に放り込んでいく。そして気が付いた時には、カゴは山盛りになっていた。 会計を済ませた品物をビニール袋に入れながら、仙石は首をかしげる。いくら男二人だと言っても、こんなには食べないだろう。2、3日は楽に暮らせそうな程の量がある。事実、袋を下げた両手には、ぎっしりと重みが掛かっていた。 明日にはもう東京に戻るつもりではあったが、無意識のうちに帰りたくない気持ちが働いて、こんなことになったのだろうか。 「作って置いときゃ、あいつが食うか」 仙石もそれほど料理に自信がある訳ではなかったが、あの無味乾燥な食事状況を考えたら、自分の下手くそな手料理の方がずっとマシだろうと思った。少なくとも心はこもっているのだ。 荷物が重いせいで、足取りも遅くなり、帰宅には予想以上に時間が掛かってしまった。若い頃ならこのくらいどうってことなかったのに、と仙石はようやく見えてきた行の自宅の灯りに、ほっと息を吐く。 ドアベルを鳴らすと、すぐに行が扉を開けてくれたものの、その表情からあまり機嫌が良くないらしいことも分かる。 「遅かったな」 「仕方がねえだろ。これでも急いだんだぞ」 口の中で言い訳をする仙石に、行は冷ややかな目を向けながらも、右手を出してさりげなく、仙石が下げているビニール袋を受け取った。そしてそのままダイニングのテーブルに置くと、片っ端からそこに中身を広げ始める。 「こんなに買ってきて、いったい何を作る気なんだ」 呆れ顔の行に、仙石も苦笑を返すより他にない。 「…まぁ、どうにかなるさ。それよりお前も少しは手伝えよ。野菜の皮を剥くくらいなら出来るだろ?」 「分かったよ…」 いかにも嫌そうにつぶやく行に笑みを誘われながら、仙石はいささか荒っぽい手つきで料理の下ごしらえを始めるのだった…。 |