【えせほし─似非星─ 】 kyo-ko

『約束の場所』

(3)


「行くか」
 行は、もやもやと自分の中にわだかまる思いを断ち切るように、勢い良く立ち上がる。周囲で巻き上げられた埃が舞ったが、もう慣れてしまって気にならない。
 しかし、こんな埃だらけの部屋は、絵を描くのには相応しくないのも確かだった。

 離れから出ると、そのまま鍵は掛けずにおいた。こんな廃墟同然の家に入る泥棒もいないだろうし、盗まれて困る物も何もない。どうせ仙石がやって来るまで、しばらくはここで過ごすことになるのだから。
 そして、また来た時と同じように塀を乗り越える。

 車に乗り込み、海に向かって走らせれば、ほどなくして、見覚えのある海岸線が現れた。
 真夏であれば、海水浴客でそこそこ賑わう浜辺も、今日は人影が全くない。
 久しぶりの晴天に海が透けるほど青く輝き、白い波濤がきらきらと飛沫を上げているのに、この美しい光景を見ている者が誰もいないというのは、もったいないような気がした。


 …ここから見る海も、何度絵にしたことだろう。

 行は人けのない砂浜にイーゼルを立てながら、青い海を見つめる。ここを母の手に引かれて歩いたことも、ゆっくりと通りすぎていく護衛艦に手を振ったことも、潮が満ちては引いていくように、思い出しては消えていく。
 『思い出』などという簡単な言葉で片付けられるものではなかったが、さりとて、甦ってくるそれらを、どのような名前で呼べば良いのか分からなかった。

 行は描きかけの油絵をイーゼルに乗せると、ほんの少し微笑んだ。記憶だけを頼りに、久しぶりに描いた故郷の海は、実際に目の前にしてみると、色も光も波も、何もかもが違っていた。

 …まぁ、そんなもんだろ。
 現実よりも、ずっと深く暗い色で塗ってしまっていた海に、行は思いきって筆を入れて行く。この目の前の、白々しいほど健康的で明るい海の色を写し取ってしまいたかった。
 日が沈むまでには、まだ数時間はある。間に合うだろう、おそらく。


 それからしばらくは何もかも忘れて没頭して絵を描き続けた。すでに日が落ちてきていて、青一色だった海の色が、茜色に染まりつつある。日が沈みきる前に仕上げてしまいたかった。

 が、ふと空腹を覚える。考えてみれば、昨日自宅を出てから、何も食べていない。2、3日食べなくとも、どうということはないが、きっと仙石はちゃんと飯を喰え、と怒るだろうと思った。
 その顔が目に浮かぶようで、思わず苦笑する。
「分かったよ、何か食えば良いんだろ」

 つぶやいて、行はまた車を走らせる。ここから白浜町まではあっという間だ。それほど大きな町でもないが、コンビニの一軒くらいはあるだろう。
 古い店では、行の顔を知っている者がいるかも知れないけれど、そういう店なら気兼ねも要らない。


 程なくして、コンビニでお茶とおにぎりを買って戻ってきた行は、キャンバスの所に誰かが立っていることに気が付いた。かなり遠いから、はっきりとは言えないが、見覚えのある背中だ。
 行は驚きのあまりに、荷物を取り落としそうになった。もちろんこの中には画材道具だけではなく、例の物も入っている。

「…なんで、ここが分かったんだ?」
 行のあの家から、海の見える一番近い場所がここだから、偶然通り掛かり、思わず車を降りたという所だろうか。海が好きだというあの男らしい行動だが、それにしても。

 行は途端にどうして良いか分からなくなった。
 心の準備を全くしていない。今日、しかもこんな所で会うことになるなんて、思いもよらなかった。

 しかし、仙石があのキャンバスを見た以上、行の絵だと分かったに違いない。自分が戻ってくることを期待して、そこで待っているのだろうから。
 行は小さく吐息を付くと、覚悟を決めた。


 それでも正面から近づいて行くことは出来ずに、気配を殺しながら、仙石の死角になるような方向へ周りこむ。
 会う時には、何と言おうかと考えていた。どんな話をして、どうやって筆を渡そうかと悩んだりもしていた。

 が、そんなことは全部吹っ飛んでしまった。頭の中は真っ白で、何も考えることが出来ない。
 ただ、懐かしくも覚えのある背中に、思わず涙が零れそうになって、行はそんな自分が可笑しくなった。自分の中にそれほど感傷的な所があるとは知らなかった。


 行は微笑みながら、仙石に近づく。仙石がその気配に気が付いて振り向いた。驚いたように見開かれる大きな目も記憶の中にあるもの、そのままだ。

 …変わってないな。
 仙石が、変わらず仙石恒史だったことに安堵しながら、行は口を開いた。

「悪くないだろう? ここから見る海も」

            おわり

               『水平線』へつづく…。

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ここまで読んで下さってありがとうございましたm(_ _)m

この話を書く時に、二人の再会シーンを何度も読み返しましたが、
仙石さんが何故、行が絵を描いていた砂浜を見つけられたのか、
結局、分かりませんでした…。
愛の力か、以心伝心パワーか(笑)。

もしかしたら、私が見落としているだけかもしれませんが、
行はあの家で逢うつもりだったんですよね。
きっとすごくびっくりしたと思います。
一人でおろおろしている(顔には出ないけど)行は、
やっぱり可愛いよなぁ、と思ったり(爆)。

実は仙石さん視点のこの辺の話も、書きたい気持ちはあります。
でも、原作が仙石さん視点だから、かぶっちゃうんだよね…。
という訳で、書くかどうか微妙な所。
他にも書きたい物はたくさんあるので、
そのうちに忘れちゃうかもしれません(こらこら)。

2005.03.19

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