【えせほし─似非星─ 】 kyo-ko

『約束の場所』

(2)


 画廊のオーナーは電話ではなく、住所を書いた手紙を出すと言っていたから、仙石がそれを知るのには、何日か掛かることだろう。手紙を受け取った仙石が急いでやってくるとしても、今日ではあるまい。
 一日くらいは待つつもりで、ちゃんとキャンバスと画材道具も持ってきている。

 しかし…。


 …さすがにここで待つのは無理か。
 行はすっかり荒れ果てた、かつての自分の家を茫然と見上げる。
 人の住んでいない家が、ここまで寂れてしまうものだとは思ってもいなかった。
 どうせ一日か二日のことだろうから、雨風さえしのげれば十分なのだが。最悪の場合は車で寝泊りするか、家に一旦戻ってまた来るしかないだろう。

 錆び付いた門扉には硬く鎖が巻き付けられていて、外すのは容易ではなさそうだった。そして高い塀が誰をも拒むように立ちはだかる。行はそっと溜め息をついた。

 …仕方がない。最後の手段だ。
 行は家の周囲をぐるりと歩いて、人目につかない裏側に廻ると、塀に右手を掛け、身軽に乗り越える。ひざ下まで埋まってしまいそうな長い雑草が、連日の雨に湿っていて、行のズボンを濡らした。それでも構わず踏み分けながら奥に進めば、懐かしい離れが見えてくる。

 この家にはほとんど良い思い出のない場所だが、あの離れだけは、多少はマシだった。いや、ここがあったからこそ、今の行も在る。祖父と、絵があったからこそ。
 行は胸が締め付けられるような思いで古びた建屋を見つめた。


 しかしすぐに静かなまなざしに戻ると、扉の鍵穴に針金を差し込んで、器用に鍵を開けた。その気になれば、一蹴りで粉砕することも可能なほどの薄い木戸ではあるが、無茶はしたくない。すばやく中に入り、戸を閉める。
 そこで行は小さく咳をした。
 中に入った瞬間に埃が立ち込めたからだ。例の事件以来、ほとんど誰も足を踏み入れていないのだろう。行は一瞬ためらった後、土足で上がることにした。かび臭い床の上に積もった埃が、歩いていく行の足跡をくっきりと残す。

 行は真っ直ぐに祖父の部屋に向かった。壁に飾られていた二枚の絵を物珍しく眺めた日も、まるで昨日のことのように思い出される。
 無論、その絵も持ち出されてしまい、今は残っていないが、絵に興味のない親戚が物置にしまい込んでいると聞いている。いつかはそれも取り戻したかった。そしてこの部屋に同じように飾れたら、どんなに良いだろう。

「クールベか…」
 生まれて初めて本物の絵に接したのは、クールベの海を描いたものだった。
 そして仙石もまた、クールベを敬愛していると聞いたことがある。思えば二人とも、出発点から似ていたのかもしれなかった。


「あいつの絵も飾ってやるか」
 行はつぶやいて、くすりと微笑む。
 いつかこの家を買い戻して、祖父の集めた絵や自分の描いた絵を展示する美術館にしたいという夢があった。いや、それは単なる夢ではなく、すでに画廊のオーナーには話をしてある。実現するのも、そう遠いことではあるまい。

 が、その中に仙石の絵を一緒に飾ると言ったら、いったいどんな顔をするだろうか。想像するだけで可笑しくなるが、行は本気だった。
 仙石が量販店スーパーの壁画を描いていることは、画廊のオーナーから聞いていた。美術界でも話題になっているらしく、行もいつかその絵を見てみたいと思っている。あるいは仙石に、美術館の壁画を描かせるのも面白いかもしれない。

 そんなことを考えて、行はふと気がつく。
 いつの間にか、頭の中はまた仙石のことで一杯だ。もうすぐ会えるから、少しはしゃいでいるのだろうか。だとしても…。
「オレは馬鹿か」
 自分で自分を呆れたようにつぶやくと、視線を例の壁から外した。それだけで、仙石のことを忘れるには十分だった…。


 それから行はしばらくの間、追憶の中を漂い続けた。
 ここに来るまでは、ほとんど思い出すこともなかった日々、むしろ思い出すことを避けていたようなことですらも、生々しくよみがえってくる。漆喰の剥げかかった壁に付いた染みですら、行の心をささくれ立たせた。

 この部屋にいると、父を殴りつけたブロックが伝えてきた手応えや、ぬるつく血の感触はおろか、あの瞬間の憎悪や嫌悪ですら、戻ってきそうな気がする。
 それは確かに自分の中に存在していたものではあるが、それを認めたくない、受け容れたくないという思いも同時に存在していた。
「逃げるのは…、嫌だ」

 行は我知らず、口に出していた。そうやって言葉にしなくては自分が揺らいでしまいそうだったから。
 あの海で、一度死んだ自分は、新しく生まれ変わったような気がしていたけれど、実際はそうではない。名を変え、住所を変え、仕事を変えても、ここにいる自分はまぎれもなく『如月行』なのだ。
 少なくとも、これから会う男はそう思っているだろう。


 …オレは、『如月行』としてあいつに会えるだろうか…。
 自分があの男と再会した時、果たして『如月行』なのか、それとも別の自分なのか、行には分からなかった。ただ、予感はしていた。

 仙石はきっと自分を『如月行』に戻してしまう、と。
 それが怖いような、嬉しいような、複雑な心境になる行だった…。

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