【えせほし─似非星─ 】 kyo-ko

『約束の場所』

(1)


 筆を買ったその足で、行は仙石との待ち合わせ場所に向かった。国産で燃費の良いコンパクトカーに乗り込む。

 こちらで暮らすようになってからは、もっぱら移動手段は車だった。車の運転をするのも久しぶりではあったが、身体が覚えていたのか不自由はない。免許もダイスが手配してくれたものがある。何の問題もなかった。
 むしろ、公共の交通機関を利用するために、人込みをウロウロする方が人目について良くないと思う。故郷で暮らすことを選んだからには、どこで知人に会うか知れない。リスクは少しでも少ない方が良い。

 それでも、ダイスが仙石と会うことを許してくれたのだから、かなり警戒も緩くなっているのだろう。もう二度と『如月行』には戻れないとしても、いつかは何の気兼ねもなく街を歩くことも出来るだろうか。

 …仙石と二人で?

 ふと、そんな姿を思い浮かべ、行は戸惑う。この所、気がつくと仙石のことを考えてしまっていて、自分で自分が理解出来なかった。
 きっと、本人に会えば、こんな気持ちもどこかへ消えてしまうだろう、と思いながらも、訳の分からない不安が押し寄せてくるのも確かなのだった…。


 行は、運転に集中するために車の窓を開けた。
 まだ六月なので、爽やかな風が頬を撫でる…とはいかないが、じっとりと湿った重い空気でも、強く顔に吹き付けられれば、意識もはっきりしてくる。しばらくは仙石のことも忘れられそうだ。

 仙石と会う約束をしたのは、かつて行が住んでいた白浜の家。現在住んでいる館山からもそれほど遠くはないから、車を飛ばせば、あっという間に辿り着く。それでもあの家を訪れるのは父の死後、初めてだった。
 そんな暇は無かった、ということもあるが、それ以上に、あの場所に行くのが怖かった。自分の手が血に染まっていることを、思い知らされるのが。…今更ではあるけれど。

 そうして過去に背を向けて、ひたすら逃げながらも、生まれ育った海の見える場所に住み家を選んでしまった自分は、まだ断ち切れていない執着があったのだろう。
 離れることも出来ず、さりとて近づく事も出来ず。


 中途半端だった行の背中を押したのは、やはり仙石の存在だった。
 仙石と再会するのなら、あの場所だ、と自然と心が決まった。この日のために、ずっとあの家に訪れていなかったのだ、とすら思えた。

 しかし、仙石はおそらく困惑することだろう。行の自宅を訪れるつもりで、やって来たら、人けのない寂れた家が現れるのだから。しかも、そんな場所を指示した行の意図など、仙石には分かるまい。
 そこが行にとって、どれほど特別な場所なのか、仙石には知る由もないから、あるいはだまされたとでも思うだろうか。

 仙石に会った瞬間に怒鳴られることも覚悟の上ではあったが、もしかしたら殴られるくらいのことは、心に留めておかないといけないかもしれなかった。無論、大人しく殴られてやるほど親切な行ではないのだが。


 細い山間道路を抜けると、車は懐かしい場所に辿り着いた。家の周囲を取り囲んだ塀の上から、覚えのある瓦屋根が見える。
 行は懐かしさと、言い知れない想いを抱きながら、車を降りた。ほとんど手入れをされていないのか、荒れ果てた印象はぬぐえないが、それでもこの家で過ごした日々を、思い起こさせるには十分過ぎるほどの面影を留めていた。

 楽しいことよりも、つらく苦しいことの方がずっと多かった場所ではあるものの、ここを出てからも、それほど明るく楽しい毎日を送ってきた訳ではない。そのせいか、いま行の胸に込み上げてくるのは、ひどく優しい思い出ばかりだ。

 母の後ろに乗って揺られた自転車、二人で眺めた海、抱きしめられたやわらかな胸、花のように甘い香水の匂い、線香花火のかすかな灯り、母と共に小さな世界で生きていたあの頃。もしかしたら一番幸せだったかもしれない日々。


 …母の絵を描こうか。

 行はふと思った。
 未だ肖像画というものを描いたことはないけれど。ましてや目の前に存在しない人を、思い出の中だけに居る人を、描くことが出来るかどうか分からない。それでもこの家で過ごした懐かしい日々ごと描き出すことが出来たなら。
 自分にとって、大きな成長になると感じた。

「ずいぶん前向きじゃないか…?」
 思わず口に出してしまって、行は恥ずかしくなる。


 こんな風に考えられるようになったのも、真っ直ぐに前を向いて歩いていくように、行を導き、教えてくれた人のおかげではあるが、その本人ともうすぐ会うことになっているのだ。どうしても照れくささの方が先に立ってしまう。

 この想いをきっと仙石に伝えることは出来ないだろう。
 どう言葉にすれば良いのかも分からない。ただ、いつか母の絵が出来上がった時に、仙石がその絵を見て、少しでも何かを感じ取ってくれれば、と思うのだった…。

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