『月を待ち』 |
(3)「はい、これ」 そう言うと、リビングのソファの上に、行は毛布を置いた。 「お前が使っていた奴じゃねえよな?」 つい、変な気を回してしまう仙石である。 しかし行は平然とした顔で答えた。 「もちろんオレのだけど」 「え?じゃあ、お前はどうするんだよ」 そう言いながらも、仙石は鼓動が早まるのを感じていた。ソファの上に無造作に置かれた毛布が急に生々しく見えてくる。その毛布に包まって寝ている行の姿すら、思い浮かぶような気すらしたのだ。 ……何考えてんだ、俺は。 仙石が妙な妄想をしている間にも、行は淡々と応えていた。 「オレがその毛布を使っていたのは一ヶ月前のことだ。もう今はタオルケット一枚で十分だよ。でもここで寝るあんたには、それじゃ寒いかもしれないし」 「……そうか、そうだよな。ありがたく使わせてもらうよ」 とりあえず、あの毛布は行が昨夜使った……という訳ではないらしい。そう聞けば、それほど意識しなくても済みそうだった。いや、そもそも毛布を借りたくらいで、何をそんなに意識しているのか、自分で自分を問い詰めたいくらいだ。 どうにも居たたまれなくなり、仙石は慌ててソファに腰を下ろすと、毛布を手に取った。 「よし、寝るぞ」 こうして身体にかけてしまえば、あっという間に自分の匂いや体温が移って、毛布にまとわりついていたおかしな幻想も振り払われる。 「おやすみ、仙石さん」 行が小さく微笑みながら、ささやくように言った。 「おう、おやすみ。お前も早く寝ろよ」 よしよし、ちゃんと挨拶できるじゃねえか、と思い、それでもつい説教じみたことを言ってしまうのは、先任伍長としての習慣か、あるいは父親代わりとでも思いたいのか、自分でも判断は付かなかった。 行は仙石の言葉をどう受け取ったのか、あいまいな苦笑をうかべるだけだ。口うるさいオッサンだ、とでも思ったのかもしれない。 しかも、何故か行は、いきなりリビングのカーテンを開け放つ。 「おい、何やってんだ?」 不審に思う仙石には構わず、行は次は窓を開け始めた。この辺りは周囲も閑静な住宅街だから、こんな時間になっては、窓を開けてもほとんど物音もしない。 「今日はそれほど暑くねえし、そこまでしなくても良いんじゃねえか?」 仙石が重ねて問い掛けると、行は初めて気が付いたように、こちらを振り向いた。 「え、何?」 戸惑ったようなまなざしと、ちょっと小首をかしげて尋ねる仕草は、意外なほど子供っぽくて、微笑ましくも見える、が。 その行の背後、開け放たれた窓の向こう側には、深く暗い闇がある。この家は木々に囲まれていて、隣近所の窓の明かりも、街灯の光も届かないのだろう。 そこへ一陣の風が吹き、うっそうと葉を繁らせた木が揺れてざわめいた。 ……まるで、今の俺みたいだな。 ふいに仙石は思う。 行が起こす、ほんのかすかなそよ風でも、自分の心は揺さぶられてしまう。惑わされ、落ち着かなくなる。 しかし、本来の自分はそんな人間ではなかった筈なのだ。 妻や娘が発していたはずのSOSにも気付いてやれなかった。≪いそかぜ≫の内部で静かに進行していたことにも気付けなかった。 鈍すぎるくらいに鈍い男だ、と思う。だからあの時、自分が全てを失ったのも、その罰が下ったのではないかとすら思っていた。 それなのに、行に対するこの過剰なほどの反応はどうだ。思わず笑ってしまいそうになる。 いや、実際に仙石は声を立てて笑っていた。 「……どうかしたのか、あんた」 行が不審げに眉根を寄せた。それも当然だろう。 仙石は笑いを浮かべながら、ソファから起き上がる。そして行の手から奪い取るようにして、また窓を閉めた。 「夜気に当てられたんだよ」 苦笑と共に重ねられたそんな言い訳も、行にはあまり伝わらなかったらしい。何を言ってんだ、というまなざしで不思議そうな顔をするばかりだ。 しかし、その瞳がいきなりきつく睨みつける。それだけで、思わず仙石が後ずさりしそうになるほどの強さで。 「ど、どうした……?」 「何で、窓閉めるんだよ。せっかく開けたのに」 思わぬ抗議をされて、つい仙石も言い返す。 「開ける必要ねえって、言っただろうが」 「だって、開けなきゃ閉められないだろ」 「……へ?」 行の言葉は良く分からない。確かに窓を開けなければ、閉めることは出来ないだろうが……。 仙石の困惑が伝わったのか、行は改めて言い直した。 「窓を開けなきゃ、雨戸が閉められないだろ」 「……雨戸」 おうむ返しにしながら、ようやく納得する。夜になれば雨戸を閉める。それは一軒家なら当たり前のことだろう。ましてや、行のような仕事をしてきたものが防犯を考えないはずもない。 「すまん!」 仙石は勢い良く頭を下げながら、再び窓を開けようとして、ふと気付く。 「……月、か?」 先刻は、ただの暗闇に見えた窓の向こうに、ほのかに明るい光が射していた。窓から身を乗り出すようにして夜空を見上げると、確かにそこには銀色に輝く月の姿がある。半月にあと少しという上限の月だ。 高い木々の隙間から見る月は、枝や葉で遮られて、ひび割れのようになっているが、それでも美しさは変わりなく、静かにこちらを照らしている。 「きれいだな……」 思わず仙石がつぶやくと、いつの間にか行も、隣で同じように身を乗り出しながら、月を見上げていた。 そうして、しばらく経った頃、行がぽつりと独り言のようにこぼす。 「ここから月を見たの、初めてだ……」 「ずっと住んでたんじゃねえのか?」 「一年くらいな」 行はうなずきながら答えると、また視線を夜空の月に戻した。 「でも……、初めて見たんだ」 「そうか、良かったな」 仙石の言葉に、行はまた黙ってうなずいた。 『俺のおかげだろ?』 そう言って、からかってやろうとした仙石は、真っ直ぐに月を見つめる行のまなざしに、何も言えなくなる。 顔立ちが整っているせいなのか、夜の闇の中、月光を受けた行は、あまり人間味が感じられなかった。このまま月に帰る、と言われた方が納得できるような気すらした。 もしも、そう言われたら、自分は引き止めるだろうか。 行にとって相応しい場所に帰るなら、その方が幸せなのだと、黙って見送るだろうか。 気持ちとしては引き止めたかった。 だが、自分にそこまでの権利も義務もないことも、分かっていた。 そして、それほどの説得力もないだろう、ということも。 行がそうすると決めたのなら、仙石がどれほど止めても、きっと旅立ってしまうだろう。 もしかしたら、こうして一緒にいられるのも、ほんのわずかな時間な のかもしれなかった……。 胸の痛みと、息苦しさに、仙石は行から目を逸らした。 すると、それを追うように、行がまたぽつりとつぶやく。 「オレは、一人じゃ何も見えない。知らないことばかりだ。だから……」 仙石はハッとした。その勢いでまた振り返ると、行は何故かこちらに背を向けていた。その背中がひどく寂しげに見えて、思わず抱き締めてしまいたい衝動に駆られた。 俺がついているだろ。 ずっと俺が一緒にいてやる。 俺がお前に何でも見せてやるし、どんなことでも教えてやる。 そう言ってやりたかった。 ……だが、出来なかった。 そこまで言い切ってしまえる自信が、まだ仙石には無かった。 それは行のこれからの人生を背負うのと同じだ。真っ白いキャンバスのような行に、自分の色を塗りたくっていくのと同じだ。 とても恐ろしくて、そこまでは出来なかった。 同時に、ひどく甘美な誘惑でもあったのだけれど……。 仙石が無言でいると、行も何かを振り切るように、雨戸を閉め、窓を閉め、カーテンを閉めた。夜の闇も、木々を揺らす風も、月の光も、もう届かない。 平凡で、平穏な日常が戻ってきた。 全くの隙間もなく、きっちりとカーテンを閉めた行は、ようやくこちらを振り向くと、何もなかったような顔で、もう一度言った。 「おやすみ、仙石さん」 「ああ、おやすみ」 仙石はそれしか言えなかった。 ……他に何を言うことがあるだろうか……。 おわり 『扉の向こうには』へつづく…。 |
ここまで読んで下さってありがとうございましたm(_
_)m
お久しぶりでございます(苦笑)。 続きを書け書けと言われながらも、 かなり長いこと放置してしまいました…。 しかも、こんな終わり方。スマン。 ついでに、タイトルとも合わなくなったしね(爆)。 最初の予定では、もっとほのぼのさせるつもりだったのに。 二人でのんびりと月を眺めるような。 いや、これも月は眺めてますけどね(苦笑)。 これまでの「シリーズ」本編でもそうですが、 シリアスとほのぼのを行ったり来たりしています。 もちろん、ただほのぼのさせてしまうのは簡単ですけど。 まだ二人とも自分の気持ちに気付いていなくて、 相手の気持ちも分からないから、 不安になるし、迷うし、戸惑うんですね。 そんな二人ですが、気長に見守ってやってください。 ラブラブまでは遠いです……。 2006.05.05 |