『扉の向こうには』 |
(1)「おやすみ、仙石さん」 行はそれだけを残して、リビングから出て行ってしまった。これで話は終わりだ、とでも言うかのように、ご丁寧に電気まで消して。 パタン、という音に目を向ければ、廊下との間仕切りの扉を、行が閉めて行った所だった。他の部屋とのつながりを遮断されると、それだけでひどく閉鎖的に思える。息苦しいほどだ。 この部屋が狭い訳ではない。ゆったりとしたリビングと、ダイニングキッチンが並んでいるのだから。このリビングからは行の寝室にもつながっている。 決して狭くはないが……。 あの閉じられたドアが、まるで行自身の心のように思えてならない。玄関へ、外へと続く扉を閉めて、家の内側で一人こもっているような。 ……もしかしたら。 もしかしたら、行は扉を開けようとしていたのだろうか……? 助けを求めるように、こちらに手を伸ばしていたのだろうか……? 『オレは、一人じゃ何も……』 あの時の、行のつぶやきは、まだ耳に残っている。 その声や言葉には、何の感情も含まれてはいなかったけれど。 寂しい、哀しい、苦しい、と、そんな露骨な感情を、真っ直ぐぶつけてくるような相手ではないことも、仙石には分かっていた。 だからといって、そういうものが行の心の中に存在しないとは思わない。ただそれを言葉に乗せることは出来ないだけ。表に出すことが出来ないだけで。 だから……。 あれが行の精一杯のSOSの合図だったとしたら。 それに応えてやることが出来なかったのは、自分だ。 助けを求めて、必死に伸ばされた手を、見て見ぬ振りをした。 ……それは、行を見殺しにしたのと同じだ。 「行……ッ」 仙石は思わず立ち上がっていた。 行は、どこにいるのだろう? 寝室ではない。このリビングを通らないと寝室には行けない。目の前の閉ざされたドアの向こうには、トイレと風呂とアトリエに続く階段、それから玄関だけだ。 外に出て行った、ということはないだろう。玄関扉が開けば、その音は仙石にだって分かったはずだ。 「アトリエか?」 そういえば……、と仙石は思い出す。 二人が再会した浜辺に立てられていたイーゼルの絵。あれは未完成のようだった。少なくともサインは入っていなかった。行を待っている間、ずっと眺めていたのだから、間違いない。 もしかしたら、あの続きを描いているのだろうか。しかし、行はこの家には描きかけの絵ばかりだと言っていた。それなら、未完成品がまだたくさんあるのかもしれない。 ……アトリエに行ってみよう。 そう思い、仙石が一歩を踏み出すのと同時に、間仕切りの扉が開いた。もちろん開けたのは行だ。行は歩くのに足音を立てないから、全く気付かなかったのだ。 「仙石さん?」 廊下の明かりも消えているから、ほぼ真っ暗な中で、行の戸惑ったような声だけが響く。 「……起こした?」 申し訳なさそうな声音に、仙石は慌てて答える。 「いや、まだ寝てなかった」 そして、そっと付け加えた。 「……電気、点けても良いか?」 「良いけど、あんた寝るんだろ?」 そう言いながらも、行はダイニングの明かりをつける。ようやく行の顔がはっきりと見えて、それだけで仙石はホッとした。行はちゃんとそこにいるのだ。 そして、明かりがついてみると、行がどこに居たのかも、すぐに分かった。 「風呂入ってたのか」 記憶の中よりも、ますます伸びた黒髪がしっとりと濡れている。 パジャマ代わりなのか、仙石が今着ているのと全く同じ白いTシャツに着替えていた。行の言うとおり、少し大きめなのだろう。襟ぐりや袖口がかなり余っていて、どこか可愛らしい。 「ああ。でも、もう寝るよ」 行がこちらに近付いてくると、ふわりと良い香りが漂った。シャンプーか石鹸か、そういう類だ。 訳もなく、どきりとした瞬間、辺りがパッと明るくなる。行がリビングの電気をつけたのだと気付くまで、しばらく掛かった。 明るい光の下では、行の頬が上気しているのまで見て取れる。ただ単に風呂に入ったからだと分かっていても、ざわめく心を止められなかった。 ……ただ一人、如月行にだけ、揺さぶられてしまう心。 その理由は、仙石には分からない。 いや、それを深く考えてしまうのは、怖いような気がした。 立ちつくす仙石を不思議そうに見つめながら、行はキッチンに行き、水をコップに注いで一気に飲み干した。そして、小さく吐息をつくと、ハッと気がついたようにこちらに顔を向ける。 「あんたも何か飲むか?」 そう言うと、行は慌てて冷蔵庫を開けた。 「牛乳と、野菜ジュースと……。あ、これじゃ……、ダメだよな」 行の手には、小さなビンが握られている。そのラベルには『酒』と書かれている、が。 「当たり前だ。それは料理酒だ」 「だよな」 行も最初からそのつもりだったのか、すぐにビンを元に戻した。 行なりにずいぶんと気を遣ってくれているようだが、そもそも酒を買ってこなかったのは仙石だ。二人で再会を祝して乾杯、とやっても良かったのだけれど、何となくそんな気になれなかった。 「気にするなよ。呑みたい気分じゃねえから」 仙石がそう言うと、行はうなずいて、何も持たずにやって来る。そしてそのまま向かい側のソファにちょこんと座った。 「寝るんじゃねぇのか?」 尋ねると、行は何故かあいまいに微笑んでみせた。寝るとも、寝ないとも言わない。しかし、この状況は『寝ない』のと同義だろう。仙石はそう判断した。 ……何か俺に話があるのか? 『オレは、一人じゃ何も……』 先刻の言葉を思い出しながら、仙石は、行が口を開くのを待った。 それでも行は見動き一つせずに、じっとしている。二人でしばらく見つめ合い、先に折れたのは、やはり仙石だった。 「なぁ、ちょっと俺の話を聞いてくれるか……?」 行はまた黙ってうなずく。 それを見た仙石は、心の中で安堵した。 ……あの時。 仙石の目の前で、扉が開こうとしていたのかもしれない。 行がおずおずと扉を開こうとしていたのに、仙石がそれを閉じたのだ。 いや、閉じたのは行だろうか。 扉を開いたことすら、見ないようにしていた仙石に、きっと行は傷ついたことだろう。落胆し、打ちのめされて、もう二度と扉を開かない、と思ったとしても無理もない。 ……だから、今度は俺の番だ。 俺が扉を開ける。 誰にも見せたことのない、心の奥の扉だ。 決して開けることはないと思っていた扉。 開けてはいけないと思っていた扉を、今開けよう。 そして、そのことで、少しでも行が心を開いてくれたなら。 それで十分ではないか……? |