『扉の向こうには』 |
(2)……俺の話をしよう。 俺が全てを失った日の話を……。 「なぁ、ちょっと俺の話を聞いてくれるか……?」 仙石の言葉に、行は黙って続きを待ち受けている。黒い瞳が真っ直ぐにこちらを見つめる様は、まるで飼い主に忠誠を捧げる犬のようだ。 何の疑いもなく、何の疑問も持っていない瞳だ。 ……まだ、俺をそんなに信じてくれているんだな……。 この一途な魂を、裏切ろうとしていた自分が恥ずかしい。 仙石は覚悟を決めて、深く息を吐いた。 「まぁ、そうは言ってもな。何から話せば良いか……」 苦笑を浮かべながら、仙石は一年前のことを思い返していく。 行と初めて出会ってから、また別れるまでの、ほんのわずかな時間。それがどれだけ自分の人生を変えてしまったことか。 未だに思い返すのもつらい記憶もあるけれど、それでも行と出会えたのは、何よりも感謝すべきことだった。 「話したいことが……、多すぎてな」 何しろ、これほどまでに自分の奥深くを、誰かにさらけ出すのは初めてなのだから。 仙石が頭を掻いていると、行のまなざしがやわらかくなる。 「ゆっくりで良いよ、仙石さん。夜は長いんだ」 「そうだな。それじゃ、とにかく順番に話すか……」 仙石はうなずき、ぽつりぽつりと話しだす。 「明日は"いそかぜ"で出航するって時になってな。いきなり言われたんだよ、女房に。もう俺には付いていけない。家を出るってな。……参ったぜ、あれは。俺のこれまでの人生を全て否定されちまったみたいだった。この歳になって、要らないって言われりゃ、キツイだろ……?」 冗談めかしてみても、あの時に受けた衝撃がやわらぐ訳でもない。正直に言えば、今でもまだ傷はふさがったとは思えないが、話せるようになっただけ、回復したのだろう。 「どうしてだ?」 行に単刀直入に尋ねられ、仙石はやはり苦笑する。 「今なら分かるんだよ。あいつが言っていたことも。結局は俺が悪かったんだ。……あの時は分からなかったけどな。 だから、俺も言ったさ。どうしてだ?と。ひでえ話だけどな、女房の浮気も疑ったよ。俺は留守がちな仕事だからな。でも、問題はそんな単純なことじゃなかった。いっそ他に好きな奴が出来た、とでも言われた方がマシだったぜ……」 「問題って?」 行の表情はほとんど変わらないけれど、こちらを見つめるまなざしが、仙石をいたわるような、心配するような色を帯びているように感じられた。そのことを、つい嬉しく思ってしまう自分が、ほんの少し嫌になる。 「……俺は何も見えてなかったんだよ。女房のことも娘のことも。全部分かっているつもりになっていただけでな。俺の理想を勝手に押し付けていただけで、本当の姿を見ようともしなかった。それで満足していた。 当然だよな。俺には俺の見たいものしか見えてなかったんだからよ」 訥々と語られる仙石の言葉を、行はじっと黙って聞いている。どうやら何か考えたいことがあるようだった。 仙石は構わずに話を続けた。 「それに、二人は俺に気を遣って、必死に演じてくれていたんだろうな。俺が望んでいる女房や娘の理想の姿を。俺が陸にいる短い間だけでも、俺を喜ばそうとしてくれていたんだろうな。あいつらが無理をしていることに、俺はずっと気付かなかったんだ」 「でも……」 「ん?」 ふいに行が口を開く。おずおずと、しかし視線は真っ直ぐに仙石を見つめて。 「でも……、それは偽りだ」 「ああ、そうだな」 「向こうだって嘘を吐いて、あんたをだましていたんだから、あんただけが悪いんじゃないだろ」 行の言葉に、仙石は苦笑を浮かべる。 若くて純粋で世間知らずな青年は、どんな理由があろうとも嘘は許せないらしい。そんな生硬さは、すっかり汚れた大人になってしまった仙石がとうに失った部分だから、とても眩しく思えた。 「そうじゃねえよ。俺があいつらに嘘を吐かせていたんだ。俺以外の前では、そんなことはしなかっただろうし、だからこそ俺と一緒に居られなくなったんだろう。誰だって自分を偽り続けるのはつらい。ましてや『家族』が相手だったら尚更だ」 すると行はハッとした表情を浮かべた。そしてボソリとつぶやく。 「……そうだな。偽り続けるのは、つらいよな」 どうやら行には何か思い当たることがあるらしい。その理由も仙石には何となく想像が付いていたが、深くは追求しなかった。 「でな、ここからが本題なんだけどよ」 仙石は気持ちを奮い立たせるように、わざとらしいほどの明るい声を上げた。行もまた意識をこちらに戻して、話を促すようにうなずく。 「それで俺は、女房にいきなり別れを切り出されて混乱したままで、"いそかぜ"に乗っちまった。それからずっと考えてたよ。いったいどういうことだろうって。他の誰かを好きになった訳でもなく、俺に不満がある訳でもねえのに、どうして別れなきゃならないのかってな」 「それは、そうだろうな」 「ああ、でも突然気付いたんだ。不満が無いってことは、それが幸福に繋がる訳じゃないってことに。それで喜びが生まれるわけじゃない。生き甲斐を感じられる訳じゃないってことにな」 「……生き甲斐」 行はオウム返しにつぶやく。仙石はうなずいた。 「不満が無いのは、マイナスにならないってだけでな。プラスになることが無ければ、いつまで経ってもゼロのままだ。そんなのは空しいじゃねえか」 すると弾かれたように行が叫んだ。 「オレには、あんたはプラスだから!」 「……ありがとよ。お前にそう言ってもらえると嬉しいぜ」 「お世辞じゃないぞ」 仙石が信じていないと思ったのか、行はちょっと唇をとがらせて拗ねた顔になる。そんな表情はまだあどけない子供のようで微笑ましかった。 「ああ、分かってるさ。お前と一緒に過ごしているうちに、俺はそのことに気付いたんだからな」 「オレと……?」 「そうだよ。"いそかぜ"で、お前と触れ合い、お互いに少しずつ心を開いていくうちに、俺は自分に足りなかった物を見つけたんだ。だからお前には少しでも何かを残してやりたい、俺と一緒に居て良かったと思ってもらいたい、と俺なりに努力したつもりだ」 「……そっか」 行は小さくつぶやく。 「だから俺を変えてくれたのは、お前だ。俺がお前に何かを与えられたのだとしたら、それはお前の力なんだ。自分には何もない、なんてお前が思う必要なんて、これっぽっちも無えんだぞ」 「何だ、それが言いたかったんだ、あんたは」 行はふいに、くすりと微笑んだ。 「何だ、じゃねえよ。一番大事なことじゃねえか。分かってんのか、お前は」 「うん、分かってる。ありがとう、仙石さん。それと……」 「ん?」 「それと……、ごめん」 これまでは仙石をからかうようだった行のまなざしが、真剣なものになる。 「いきなり何だよ」 「あのさ……、オレ嬉しかったんだ。あんたがオレに真っ直ぐにぶつかって来てくれて、オレは初めて心から信じられる人が出来たと思った。でもそれは、あんたが大切なものを失ったからで、そうじゃなければ、あんたがオレと関わることもなかったかもしれない、と思ったら、その……」 行は言いよどんだが、仙石には続きが分かった。 「俺の不幸を喜んじまうみたいで、気が咎めるか?」 「うん、だから、……ごめん」 「バーカ、余計な気ぃ遣ってんじゃねえよ。それに俺はこれで良かったと思ってるんだ。俺が何も与えられない、俺を必要としてくれていない家族と一緒に居ても、お互いにつらいだけだろ」 仙石は立ち上がると、手を伸ばして、行の髪をくしゃりと掻き回す。行の気持ちが嬉しくないとは言わないけれど、自分のことでそんなに心を痛めて欲しくはなかった。 しかし、仙石の手のひらの下でも、行の顔色は冴えない。やがて、ぽつりとつぶやく。 「でも……、家族は一緒に居た方が良いよ、出来ることなら」 そう言う行は、いったい誰のことを思い描いていたのだろうか。仙石は行の家族のことをあまり詳しくは知らない。ただそれでも、今の行には家族と呼べる人が居ないということだけは分かっていた。 こんなに広い家で、一人きりで、寂しいのにも慣れたという行。 頑ななまなざしで、きっぱりと『結婚はしない』と断言する行。 そんな行だからこそ、家族というものへの想いがあるのだろう。 「ああ、そうだな。もしも元に戻れるならな」 仙石は無理をして明るい笑みを浮かべた。おそらくは、もう元に戻ることはないだろうとは思っていたけれど。 仙石自身は妻や娘に対して、全く未練がないとは言えない。かつての自分が見えていなかったことも今ならば見えると思うし、してやれなかったことも、今度はしてやれると思う。 しかし、それは仙石の理屈だ。 いくら仙石が訴えたとしても、『多分これからは』『次はきっと』なんて、そんな台詞では彼女たちの慰めにもならないだろう。その言葉に賭けてみるほどの価値も見出せないに違いない。 それだけの長い長い間、仙石は妻と娘を苦しめてきたのだから……。 そんな仙石の空々しいまでの笑顔を、行はどう感じたのか。 どこか寂しげなまなざしで、小さく『戻れるよ……』とつぶやいただけだった。 その姿に仙石は胸を衝かれる。 お前はどうなんだ、と言いたかった。お前はこのままずっと一人で生きていくのか、と言いたかった。 それなら俺が一緒に、とまで口にしそうになったけれど、すぐに自分にはそんな資格も義務もないことに気が付いた。 行はもう立派な大人で、画家としても成功していて、こんなに大きな家も持っている。仙石が面倒を見てやらなければいけない子供ではないのだ。兄の家に居候をしている自分よりもずっとまともだろう。 それでも……。 『オレは、一人じゃ何も……』 先刻の行の言葉が、どうしても頭から離れない仙石なのだった……。 |