『扉の向こうには』 |
(3)「うう…、痛てて」 仙石は全身に重くのしかかる痛みに耐えかねて、目を覚ました。 きゅうくつなソファで無理やり眠ったせいで、身体中の筋肉が悲鳴を上げている。ゆっくりと身体を起こして、大きく伸びをすると、みしみしと音がする程だった。 長年の習慣で身に付けている腕時計に目を向けると、まだ早朝の6時だ。起きるには少々早いが、またこのソファで寝ることなど考えたくもない。それなら身体を動かしていた方がマシだ。 そこで仙石は軽いストレッチを始める。強張っていた筋肉が少しずつ解れていき、末端まで血液が回っていくのが感じられた。やがて全身が汗ばんでくるころには、すっかり元通りだ。 乗艦生活で鍛えた身体は、まだまだ衰えてはいないようだ、と仙石は満足げに微笑む。行が聞いたら鼻で笑われるレベルかもしれないが、この年齢にしてはなかなかのものではないかと思っていた。 「さてと」 身体を動かして、しっかりと目が覚めたところで、仙石はキッチンに向かった。 先刻から腹の虫が空腹を訴えてきていたからだが、冷蔵庫を開けても目ぼしい食材が入っていない。昨日はあれほどたくさん買い物をしてきたというのに、朝食用としての材料は揃っていないのだ。計画性がなかったことが良く分かる。 「これじゃ大したものは出来ねえなぁ」 仕方がないので、昨夜のカレーを温めなおし、キュウリとトマトを切ってマヨネーズをかけただけの簡単サラダを作った。朝食ならば、これで十分だろう。 「行の奴、まだ寝てんのか?」 時計を見れば、そろそろ8時になろうという時刻だ。勤め人の仙石はとっくに起きている時間だが、画家である行の朝は遅いのかもしれない。 何となくイメージでは朝早くから起き出して、トレーニングでもしていそうなのだけれど。もちろん、それなら仙石が気付かないはずもないので、やはりまだ眠っているに違いなかった。 しばらく待っていようと思ったが、このままでは朝食が冷めるだけだ。仙石は行の寝室に向かった。 しかし、きっちりと閉じられた扉の前に立つと、頑なに拒絶されているようで、ドアを開ける勇気は出ない。とりあえずノックをしてみることにした。 まずは遠慮がちに軽く三回。そのままドアの前でじっと待ったが、返答すら無い。 そこで今度はもうちょっと強く叩いてみた。が、やはり応答無し。 仙石はにわかに不安になった。 ただぐっすり眠っているというだけなら構わないが、行はかつては工作員だったのだ。こんなにノックをしているのに、目を覚まさないということがあるだろうか。仙石自身も乗艦時は何かあれば、すぐに起きられるようにしていたから、実感として分かるのだ。 もしかしたら具合でも悪いのかもしれない。仙石は意を決して、ドアを開けることにした。 「おーい、行。入るぞ」 そう言いながら、仙石はおずおずと寝室の中に入る。 遮光性の高いカーテンなのか、部屋の中は薄暗く、目が慣れるのに時間が掛かった。それでもじっくりと見るほどの物がある訳でもない。部屋の中央にぽつんと置かれたシングルベッドの他にはほとんど何も無い部屋だった。 そしてベッドの中には、もちろん行がいる。 「どうした、行。具合でも悪いのか?」 仙石が声を掛けると、行はもぞもぞとタオルケットの下から顔を出した。その表情は明らかに寝ぼけ顔だ。 「……いま、何時」 「もう8時過ぎてるぞ」 「………まだそんな時間?」 行は不満げにつぶやく。どうやら完全に寝ていたらしい。意外だった。 「朝飯、出来ているからよ。とりあえず食え。それからまた寝れば良いだろ」 「あんたが?」 「おう、大したもんじゃねえけどな」 仙石が苦笑を浮かべると、行はちょっと戸惑ったようなまなざしになり、ぽつりと零した。 「…ありがと」 「気にするなって。それじゃ着替えて早く来いよ。冷めちまうからな」 仙石が行の髪をくしゃりと掻き回すと、それを合図にするかのように、行がのっそりと起き上がる。ようやくベッドから出てきた行の服装に仙石は驚いた。上は白い長袖シャツ、下はジーパンを穿いていたからだ。 「お前、そんな格好で寝てたのか?」 行は無言でうなずく。 「それじゃ窮屈だろ。パジャマくらい持ってねえのかよ」 「別に。慣れてるし」 行はこともなげに答えるが、仙石は納得出来なかった。せめてもうちょっとリラックスする服装がありそうなものだ。いっそのことジーパンだけでも脱げば楽になるだろうに。 「毎晩その格好か?」 「ああ、いつ何があるか分からないからな」 「何かって……、何だよ」 行の答えに仙石はあきれた。 おそらく行が言っているのは、火事や地震ということではないだろう。例えば『襲撃』とでも言うのだろうか。そしてそんな事態にはならないことは本人も知っているはずだ。行はもう工作員ではないのだから。 それでも止められないのか。そうせずにはいられないということか。 それは哀れでもあり、寂しくもあったけれど、いずれ時間が解決してくれることでもあるのだろう、と仙石は思った。 それに何よりも。 「俺のノックでも起きないようじゃ、何かあっても逃げられないんじゃねえのか」 仙石が至極真っ当なツッコミを入れると、行はふてくされたような顔になる。 「しょうがないだろ。低血圧で朝は弱いんだ」 「そんなんで、よく勤まっていたな」 工作員が、とまでは言わなかったが、行にはちゃんと伝わったようだ。 「任務の時は平気だった。こうなったのは引退してからだよ。自分が朝が弱いなんて、今まで知らなかったんだ」 「そんなもんかね」 仙石にはピンと来なかったが、任務の時はそれだけ気を張っていたのだろう。たとえ休暇中であっても、気が休まることは無かったのに違いない。 それならば、思いっきり朝寝坊が出来るようになった今は、ゆっくり寝かせてやりたい所ではあるけれど、仙石にも事情がある。あまりのんびりしていられなかった。 「とにかく顔でも洗って、目を覚まして来いよ。朝飯にしようぜ」 「……分かった」 行が不承不承うなずいて、洗面所に向かうのを確認してから、仙石はキッチンに戻った。 昨夜と同じようにカレーをやたらと豪華な皿に盛っていると、ちょうどそこに行がやってきた。裸足の足音がぺたぺたと可愛らしい。昨夜は全く足音を立てていなかったから、まだ寝ぼけているのだろうか。 寝る時もジーンズを穿くくらいなら、靴下も履いて寝たらどうなんだ、と仙石は思ったが、口には出さないでおいた。おそらく靴下は譲れる範囲なのだろう。そんな行の基準はさっぱり分からなかったけれど。 「いただきます」 すかさず椅子に座って食べ始めようとする行に苦笑を浮かべながら、仙石もスプーンを手に取った。 「ゆっくり食えよ」 「……ふぁい」 仙石がすかさず注意したくなるほど、行の食事は速かった。昨夜はまだ遠慮があったのか、それなりに時間を掛けていたが、今朝はあっという間だ。 そう言う仙石自身も、食べる速さでは負けてはいない。昔はよく妻に怒られたものだったが、最後まで直らなかった。 結局、あっという間の朝食が済んでしまうと、また行が後片付けを買って出てくれたので、遠慮なくお願いすることにした。それに今回はそれほど皿の量もない。 もちろん片付けもすぐに済んだ。 仙石が洗い物をしている行の後ろ姿を、ぼんやりと眺めているうちに終わっていた。いきなり行がこちらを振り向いて、何かを問い掛けてきたことで、ハッと我に返る。 「んあ? 何か言ったか?」 「だから、コーヒー飲むかって」 「いや、良いよ。もうあんまりのんびりもしてられねえしな」 仙石がさらりと答えると、行はこちらが驚くほどに意外そうな表情を浮かべた。 「……え?」 「ほら、いきなり飛び出して来ちまったからよ。仕事場にもロクな説明をしてねえんだ。だから今日はこれから行くつもりなんだよ」 画廊のオーナーから、行の家の住所を書いた手紙が届いたのを見た瞬間、もう居ても立ってもいられなくなって、衝動的にやって来てしまったのだ。兄には仕事を休むという連絡はしたものの、それ以上の説明はしていない。 そもそも、何をどう説明すれば良いのかも分からないし、実際には口に出来ないことばかりでもあるのだから。 すると行は、小さな声で『そうか……』と、つぶやいただけだった。 先刻はほんの一瞬だけ、ひどく頼りない表情を見せたのに。まるで捨てられた仔犬のような、仙石の胸が罪悪感でいっぱいになるほどの寂しそうな顔をしたと思ったけれど。 それは幻であったかのように、今はすっかり消え失せていた。 だから仙石も何事もなかったように明るく振舞う。 「また会えるだろ。これからは、いつだってな」 「そうだな」 行も明るさを取り戻した顔で微笑む。そのことに仙石は安堵した。 それから仙石が帰り支度をしている間、行はずっと所在なげにソファに座っていた。ひざを抱えて、小さく丸くなって、ぼんやりと外を眺めている様子は、やはりどこか心細げだ。 『オレは、一人じゃ何も……』 また、あの言葉が胸をよぎる。 この広い家に一人ぼっちで行を残していくことへの申し訳ない気持ちは、確かに存在しているが、だからといって、ここに一緒に住んでやる訳にもいかないし、自分の家に連れて行く訳にもいかない。 別れはいつも辛く寂しいけれど、数日も経てば、またすぐに元の生活に戻って、優しい思い出だけが残ることだろう。人間とはそういうものだ。おそらくは行も。 それならば、今の自分に出来ることは、せいぜい明るい笑顔で別れることくらいではないだろうかと仙石は思うのだ。 「それじゃ、帰るぞ」 仙石が声を掛けると、行は弾かれたように振り向いて、ソファから立ち上がる。そしてそのまま仙石と一緒に玄関先までやって来た。見送ってくれるつもりなのだろう。 「じゃあな」 「あ……、うん。さよなら」 こんな時に、何を言えば良いのか分からず、あまりにもそっけない別れの挨拶になってしまったが、行の表情には何の変化も見られなかった。 ここでもう一度、寂しそうな顔をされたら、もしかしたら留まることを選んだかもしれない。仕事など何日休んだって構わない、と行の傍に居ることを選んでしまったかもしれないが。 行はそうしなかった。 まるで去りゆく仙石に負担を掛けまいとするかのように、表情も態度も口調もあっさりとしたものだった。 「それじゃ、また来るよ」 仙石が再びそう言うと、行も小さくうなずき返す。 ……それで会話は終わった。 ぱたん、と驚くほど軽い音を立ててドアが閉まる。もう扉の向こうには、行がいるのかどうかすら分からない。 仙石はしばらくの間、そこに立ち尽くし、閉ざされたドアを見つめ続けた。 ドアの横には『田上』の表札がある。それを目にして改めて、行は『如月 行』ではなくなってしまったのだと思い知らされた。 行はもう仙石が知る行ではなく、田上克美として新たな人生を送っている。そこにはおそらく自分の入る余地など無いだろうし、必要もないだろう。 ……俺は、また行に会えるのか……? 行には会いに来ると言ったものの、こうして会いに来て良いものなのかどうか、仙石は自信が持てなかった。 行がちゃんと無事に生きていることが分かったのだから、それで満足するべきではないのか、とも思う。 そして仙石が会いに来なければ、きっと行の方から仙石に連絡をすることはないだろうとも分かっていた。携帯の電話番号も交換したけれど。 仙石の前には、閉ざされたドアがある。このドアが開くことは、もう二度と無いのかもしれないとすら思った。 その瞬間。 まるで仙石の考えを読んでいたかのように、ドアがいきなり開いたのだ。中から飛び出して来たのは、もちろん行だ。 「え……、あ、仙石さん」 「どうした、そんなに慌てて」 「……もうとっくに帰ったと思った。でも今からなら、走れば追いつくかと」 「それで?」 行が何を言おうとしているのか見当も付かなかったけれど、仙石はあまり期待をし過ぎないように気を引きしめる。単に忘れ物を届けようとしてくれただけかもしれない。 仙石はただ行の言葉をじっと待った。 すると行は、しばらく口ごもって、かすかに頬を染めながら、それでも仙石を真っ直ぐに見据えて言った。 「オレ……、待ってるから。あんたのこと、ここでいつでもずっと待ってるから。だから……」 どうやら仙石はまたここに来ても良いらしい。 自分にそれだけを言うために、必死に走って追いかけようとしてくれた行を、嬉しさのあまりに抱きしめてしまいたくなる仙石だったが、さすがにそれはまずいだろう。 そこで、行の髪をくしゃりと掻き回すと、ただ一言。 「ありがとう」 そう言って、晴れ晴れとした心からの笑顔を浮かべる仙石なのだった……。 おわり |
ここまで読んで下さってありがとうございましたm(_
_)m
はい、とりあえず一区切りです。 今回はぶっちゃけ二話分くらいあるのですが、 分割するほどでもないかと思って、一気に行きます。 その割には、大して話が進んだ訳ではないですけども。 同人誌の原稿をやるようになってから、 すっかり長文グセがついちゃって、 気が付くと、どんどん長くなってしまいますね。 Webの場合は短くまとめるのも必要だと思うんですけど、 勘が戻るまでは、もうしばらく掛かりそうです。 もしかしたら、ずっとこのままかも(苦笑)。 えーっと、ところで今回で、 ようやく二人が再会した日のエピソードが終わりました。 この次は、ちょっと時間が経った後の話になります。 まだイメージは漠然としか出来ていないので、 お届けできるのは、いつになるか分かりません。 せめて次は何年もお待たせすることがないように、 とは思っていますけれど(苦笑)。 それ以外の短編も順次出して行きたいです。 こちらも、まだ何も書いていないので予定は未定ですが。 でもこんなペースでは、この二人が両思いになるのは、 いったいいつになることか。 本当にこれだけは私にもさっぱり見当が付きません(笑)。 2008.11.29 |