『月を待ち』 |
(2)行が絵を描いているのを見ているうちに、すっかり夜も更けていた。 真剣なまなざしで絵筆を動かしている行はもとより、それをじっと見つめていた仙石もまた、時間の経つのを忘れてしまっていたのだった。 それでも最初は、単なる興味本位にすぎなかった。 『克美』画伯が実際に絵を描く所を見られる、という程度の。もちろん同じ画家として、自分にとっても勉強になるだろうとは思ったが、大して深い意味などなかった。 しかし行が…、いや克美がキャンバスに絵具を乗せていくのを見るうちに、仙石の頭から何もかもが吹き飛んだ。大げさではなく、奇跡の生まれる瞬間に自分は立ち会っているのだろうと思った。 始まりはとても静かで、それとは分からなかった。 色の選び方も、筆の置き方も、行には一瞬たりとも迷いがなく、まるでロボットが絵を描いているかのように、淡々と作業が進められていたから。 実は、そこに配された色の一つ一つが大きな意味を持っているなんて、気付くことはできなかったのだ。 数時間前に一度見せてもらったその絵は、ただ暗くて寂しい海の絵だとしか思えなかった。それが、仙石の目の前で息を吹き返すかのように、変貌していった。 降りしきる雨に打たれながら、荒れ狂う波に翻弄される小さな船。 先刻までは、今にも波に呑まれそうだったその船が、波濤を掻き分けて前に進もうとする力強さを備えていく。それを援護するかのように、遠くの雲間からは一筋の光が射していた。 行は沈みゆく船を描こうとしていたのではない。波に立ち向かって強く進んで行く船を描こうとしていたのだ。 完成すればもう少し明るい絵になると言っていた、行の言葉が腑に落ちた瞬間だった。 どこにでもある凡作になってしまうか、世界にただ一つの傑作となるか。その違いをまざまざと見せ付けられ、ひたすら凡作を製作し続けてきた自覚のある仙石は、少なからず落ち込まされた。 それでもここまで才能に差があると、逆に開き直らせてもくれる。誰もがここに到達する必要もない。自分なりの頂上を目指せば良いのだと。それにきっと行もまだ、高みを目指している途中にすぎないのだろうから。 ほう、と小さな吐息を付いて、行が絵に自分のサインを入れる。 それでようやく完成したのだろう。仙石もまるで一緒に描いていたかのように、肩に力が入っているのに気が付いた。苦笑しながら脱力すると、行がこちらに向き直る。 行は、どこかいたずらっぽく微笑みながら一言、おしまい、とつぶやいた。夢の時間は終わり、現実に戻ってきた。 仙石もうなずくと、明るく笑う。 「お疲れさん」 そう言いながら、仙石は左腕に視線を落とした。そこで初めて、自分が時計をはめていないことに気が付く。自衛隊時代の習慣で、寝る時ですら外したことのない時計が。 「んあ?」 思わず間抜けな声を発してしまったが、おそらく風呂に入った時に無意識のうちに外してしまったのだろう。 しかし、基本的にずぼらな仙石は、たいていは風呂にも時計をしたままで入る。たとえ外したとしても、風呂から上がれば身につけるのが当たり前だ。そんな自分が時計を外して平気でいられること自体、信じられなかった。 つまり、それだけ平常心を無くしていたということか。たかが風呂に入るくらいで…? いったい何をそんなに意識していたんだと呆れてしまった。 行と一緒に入った訳でもあるまいし。と、自分で考えながら、ついそんな光景を想像してしまい、慌てて妙な妄想を打ち消す。 そして焦っている自分にまた困惑した。男二人で風呂に入るくらいどうってことないだろう。相手が如月行であろうとも、だ。それを変に意識するからおかしくなる。 …そうだ。何でもないんだ。その筈だ。 必死になって否定することが、それだけ意識している証拠だろうけれど、焦っている仙石にはそこまで自己診断する余裕はない。 とにかく頭と気持ちを落ち着けよう、と深呼吸を始めた所に、いきなり行が声を掛けてきた。 「11時30分だ」 「え?」 驚いて顔を上げると、行の方がきょとんとした表情を浮かべる。 「時間を気にしてたんじゃないのか?」 「あ…、ああ。そうなんだ。そうだったんだよな、うん」 問題は『風呂』ではなく『時計』だったことを、ようやく思い出した仙石である。 「もうそんな時間か…」 行の絵を見ているうちに、すっかり時の経つのを忘れてしまっていたらしい。 すると、行がふいにクスッと笑った。 「ふたさんさんまる、とか言ってやれば良かったな」 「馬鹿野郎、余計な気ぃ遣わなくていいんだよ」 確かに自衛隊生活の長い仙石には、『11時30分』と言われるよりも、そちらの方が馴染み深い。 とはいえ、行に言われてすぐにピンと来なかったのは、別のことを考えていただけなのだから、そこまで気を回されると、逆に恐縮してしまう。 あるいは行も過去の仕事柄、そういう習慣だったかもしれないが。 「で?」 いきなり行が尋ねてくる。 「で?って何だよ」 「あんたはこれからどうしたいのかって聞いてるんだ」 「そりゃ寝るに決まってるだろ」 仙石の基本は早寝早起きである。が、もちろんそれは普通の人と比べての話で、自衛官としては当たり前なのだ。 「なるほど。先任伍長はもうおねむの時間か」 「俺はガキじゃねえぞ」 からかい混じりに笑う行に、仙石は苦りきった顔になる。いい大人をからかって、何が嬉しいんだ、と思うが、行は今まで見たこともないような笑顔を浮かべているから、よほど楽しいのだろう。 人が悪い、とはこのことである。 「寝るぞ、俺は。寝るからな!」 ムキになって怒鳴る仙石に、行はすかさず追い討ちをかける。 「どこでも好きな所で寝てくれ。リビングのソファでも、オレの寝室でも。毛布くらいは貸してやるから。ああ、でもオレのベッドじゃ二人で寝るには狭そうだな」 「だ、誰がお前のベッドで寝るって言った!」 むさくるしいオッサンが頬を真っ赤に染めても、全然可愛くないどころか、まるで赤鬼のようになってしまうが、行はもちろん涼しい顔だ。 「単に選択肢を提示しただけの話だろ。他にも廊下とかキッチンとか玄関とか、言っても良かったんだけどな、オレは」 「……ソファにしてくれ」 「了解」 結局、行の笑いは収まることがなく、仙石はずっと苦虫を噛み潰した赤鬼になってしまったのだった…。 |