『月を待ち』 |
(1)食後のコーヒーを飲み終えると、行はカップを持ってキッチンに片付けに行ってしまったので、仙石はぽつんとリビングに残される。所在無さに、辺りを眺めることくらいしか出来ない。 さりとて、何の装飾もない部屋の中は、見るべきものも特に存在しないのだが。 画家の家なら、自分の絵くらい飾ったらどうなんだ、とひとこと言ってやろうと思ったけれど、そもそも行はそんなタイプではないだろう。絵を飾るとしても、あえて自分の物は避けて、他の画家の作品を選ぶのではないか。 そこで仙石はふと気付く。 行はいったいどんな絵が好きなのだろう。影響を受けたり、傾倒している画家はいるのだろうか。それとも誰かに師事したことがあるのか。 仙石自身も絵はほとんど独学であるから、行にそうした人が居ないとしても、不思議はないけれど。 しかし、仙石の見たことのある『克美』の絵には、これといってイメージする画家は思いつかなかった。たいていは似た画風の画家が存在するものだが、それが見つからないのも天才たる所以か。 ちなみに仙石の絵はクールベの影響をかなり受けているので、見る者が見たら、一目で分かってしまうことだろう。それは仕方がないから、その上で自分の色をどれだけ付けられるか、だと考えていた。 行が戻ってきたら聞いてみよう、と思いながら、仙石はドアの方に視線を向ける。カップを置きに行っただけにしては、ずいぶん時間が掛かっているが、片付けでもしているのだろうか。 自分の家の中なのだから、心配する必要もないのだけれど、行はちょっと目を離すと、どこかに消えてしまいそうで、仙石はつい不安になる。考えてみれば、行と再会してからまだ数時間しか経っていないのだ。 あるいはこれは仙石が見ている夢で、目が覚めたらやっぱり行は見つかっていない…、なんてことまで想像してしまう。 となると、いったいどこからが夢なのか。行の描いた絵を見たことも、交差点で叫んだことも、画廊のオーナーから手紙が来たことも、何もかも仙石の作り出した妄想だとしたら…。 「何を考えてるんだ、俺は」 あまりの馬鹿馬鹿しさに自分でも可笑しくなった。今自分が寝ているか起きているか、そんなことすら分からなくなるなんて、まさに馬鹿げている、としか言いようがない。 それだけ『如月行』という存在が、仙石にとっては現実感に欠けていることの証明かもしれないが。 それでも不思議なことに、再会するまでは一度たりともそんなことを考えたことなどなかったのだ。あれが全て夢だったのでは、なんてことは。行ももちろん自分の中でしっかりと存在していた。 それがいざ本人に会ってみると、途端に存在感が稀薄になるというのは、いったいどういうことなのだろう。 むしろ、行に会うまでの仙石が、ずっと夢の中を漂っていたのかもしれない。行と再会したことで、ようやく自分の時間が正常に進み始めたのだとしたら、この戸惑いにも説明が付くだろうか。 そう結論付けても、行がここに居ないことへの不安が消える訳でもなかった。 「遅せえな…」 苛立ち混じりの仙石のつぶやきが届いたかのように、ようやく行がリビングに戻ってくる。そのことにホッとするよりも、涼しげな澄まし顔がシャクにさわって、殴ってやりたい気分になった。 しかし行はつかつかと仙石の背後に回ると、手にしていた布を広げる。そのまま何やらブツブツとつぶやいているから、仙石は戸惑うばかりだ。 「何だよ」 たまらず焦れて振り向くと、行が手にしていたのは白いTシャツだった。ちょっと小首をかしげて困った顔をしているのが可愛らしい。 「もしかしたらサイズが合わないかと思って」 「あぁ、着替えか」 行がそこまで自分に気を遣ってくれているとは思わず、仙石は少なからず感動し、それ以上に申し訳ない気持ちになった。 先刻、買い物に出た時に、適当にみつくろって来れば良かったのだ。そんなことにすら気付かない自分が情けない。 「気にするな。二、三日くらい同じ服でもどうってことねえよ」 わざとらしいほどの笑顔を浮かべた仙石に、行はやはり困惑した顔のままだ。 「そりゃあ、オレだって下着までは貸してやれないけど…」 せめてこれだけでも着てくれ、とぐいぐい押し付けられるから、仙石も行と同じような困り顔でTシャツを受け取る。 「オレには大きめだから、多分大丈夫だろ」 という言葉を信じて、ありがたく使わせてもらうことにした。 それでも行が何気なく付け加えた言葉に、仙石はどきりとする。 「風呂、沸いてるぞ」 「え!?」 「入らないのか?」 「あ…、いや。入るぞ、うん。そうか、だから戻ってくるのが遅かったのか。なるほど…」 なぜか一人でうんうんとうなずく仙石なのだった…。 「ふう…、生き返るなぁ」 この家の風呂は一軒家らしく、かなり広くて立派なものだ。タテにも横にも幅を取る仙石の身体でも、ゆったりと湯に浸かることが出来る。さすがに足を伸ばすと、ぶつかってしまうが、そこまでぜいたくは言えない。 思えば今日は、ずいぶんと忙しい一日だった。電車を乗り継ぎ、長時間かけてここまでやって来て、行と再会してからも、あっちへ行ったりこっちへ行ったり。 興奮していたので、疲れも忘れてしまっていたが、こうして風呂に入っていると、自分がどれほどくたびれているのか、思い知らされた。このまま眠ってしまいたいほどだ。 いや、冗談ではなく、本当に湯船の中で熟睡しかねない。仙石は慌てて風呂から上がる。あまりに慌てたので、床のタイルで滑って転ぶところだった。 冷や汗をかきながら、行から借りたTシャツを身に付けてみる。自分で選んだのか、胸に小さなロゴマークが付いているだけの、至ってシンプルなデザインだ。 つまりは着る人を選ばないデザインだとも言える。アイドル並の端正な顔立ちをした行でも、中年太りで普通のオッサンの仙石でも。そんな訳で白いTシャツは、サイズはもちろん、それなりに仙石にも似合ってくれたのだった。 湯上りの仙石が居間に戻ってみると、残念ながら、行はそこにはいなかった。すかさず、また不安が押し寄せてくる。自分でも馬鹿だと思うが仕方がない。とりあえず目に付く部屋を覗きこんでみても、やはり見つからなかった。 あるいはトイレかと思ったが、仙石は二階に上がってみることにした。 すると予想通り、行はアトリエの中央に置かれた椅子に座っていた。目の前にはつい先刻、見せてもらったばかりの描きかけの絵がある。どうやら続きを描いているようだ。 仙石が居ようが居まいが構わないのは、いかにも行らしかったが、あるいは自分が居るからなのかもしれない、と仙石は思った。 かつての自分が、甲板で絵を描く姿を行に見せたように、行もまた自分が描いている姿を仙石に見せたいのではないのか、と。 それとも単純に、描きかけの絵を見られたことが悔しくて、意地でも完成させてやる、とムキになっているのかもしれない。 どちらにしても、微笑ましく可愛らしい動機だ。 思わず仙石は心の中で苦笑する。たとえ正解が何であれ、自分が行に対して抱いているイメージとは、そういうものなのだ、と今更ながらに思い知らされたようで可笑しかった。 何はともあれ、行がここに居てくれたことで、仙石はホッとする。行の存在が幻でなければそれで良い。 仙石はそっと立ち去ろうとしたが、その前に行の方から声を掛けられた。 「もう行くのか?」 「ああ。邪魔だろ、俺が居ると」 すると行は小首をかしげて考え込むような仕草をする。 「さあ、どうだろうな。あんまり人前で描いたことないから分からない」 「そうか…」 きっと行はいつも一人で絵を描いていたのだろう。その時もやはり暗い色調の海の絵ばかりを描いていたのだろうか。それはひどく寂しい姿だ。 「それじゃ、良い機会だ。ここで見ていてやるから、どんな気がするか、試してみろよ」 殊更に明るく笑った仙石に、ちらりと視線を走らせたものの、行はまたキャンバスに向き直ってしまった。 しかし、その後ろ頭が小さくうなずく。 ふわりと揺れる髪を見て、仙石はまたくしゃくしゃにしてやりたくなったが、それでは明らかに製作の邪魔になるだろう。 そこで少し離れた場所から、ただひたすら行が絵筆を走らせるのを、じっと見つめるのだった…。 |