【えせほし─似非星─ 】 kyo-ko

『白い欠片』

(1)

 仙石の作った料理で、和やかな夕食が済むと、次は行の出番だ。
 以前は仙石がやってくれるままに甘えて、何もかも任せっきりだったのだが、最近は、食後のコーヒーを淹れるのは行の担当になっていた。
 行自身、このくらいしか出来る事がないということもあるが、何よりもコーヒーを淹れることで、仙石に喜んでもらえるのが嬉しいのだ。

 何かをすることで、誰かが喜んでくれる、それが幸せだと思う。
 当たり前のように思えるそんなことも、行がずっと忘れていた感情だった。仙石は行に色々なことを与えてくれて、色々なことを思い出させてくれる。何よりも得がたい存在だ。


 だから今日も、行は心を込めて、仙石のためにコーヒーを淹れる。
 まずは豆を挽くところから始めるので、少々時間が掛かってしまうが、そんなことを気にする仙石ではない。行は慌てることなく、ただ一心に美味しいコーヒーを淹れることだけに意識を集中させた。
 お湯を沸かして、次はカップを温めて、と思っていると、ふいに左手に何かが当たった。

 その瞬間……。

 カシャン。
 それはひどく軽い音だった。まるでシャボン玉が割れるかのように。だが割れたのは、もちろんシャボン玉などではない。
 行は、キッチンのタイルの上に散らばった欠片を、茫然と見下ろす。
 慌ててしゃがみ込んだものの、どうして良いか分からなかった。

「どうしよう……、仙石さん」
 そっと拾い上げた白い破片は、どうしてここまで、と呟きたくなるほどに、容赦なくバラバラになっていた。どう見ても復元出来そうになかった。
 あるいはヒビが入っていたのかもしれない。元々が壊れやすい作りだったのかもしれないけれど。

 壊れてしまった物は、もう二度と元には戻らないのだ。
 喪われてしまった命が、還って来ないように。


 行は、きり…、と唇を噛みしめた。
 割れたのは、単なるマグカップだ。それも画廊のオーナーが置いていったもので、行はこのカップに何の思い入れも無いはずだった。
 けれど、目の前の破片は、行の胸をどうしようもないほどに締め付ける。

 『俺はこれにしよう。一番デカイしな』
 そう言って笑った仙石の顔をふいに思い出した。
 行の家にある食器類は皆、画廊のオーナーが飽きたものや、使わないものを適当に置いていったものなのだが、どれも品が良く、繊細な作りで、高級感の漂うものばかりである。
 コーヒーカップも美しい絵柄に華奢な取っ手で、仙石の武骨な指で扱ったら、壊れてしまうのではないかと思われるものがほとんどだった。

 その中で唯一、大きくてしっかりした作りの白いマグカップがあり、それがいつの間にか、仙石専用になっていた。
 仙石がコーヒーを淹れてくれる時は、自分でそれを使っていたので、行も同じように、このカップに淹れるようにしていたのだが。

 それが自分の不注意で、粉々の欠片になってしまった。
 ただマグカップが壊れただけではなく、何か大切なものも一緒に壊れてしまったような気がして、行は身動き一つ出来なくなった。
 何が失われてしまったのかは分からないけれど。


 しばらくそのまま、行はしゃがみ込んでいたが、やがてハッと我に返った。
「……謝らなきゃ」
 仙石にカップを壊したことを謝る、それがまず自分がやらなくてはいけないことだと気が付いた。

 すると、そこに驚いたような声が掛けられる。
「どうした、行。なんか割れるような音がしなかったか?」
 心配そうな顔で行を見下ろした仙石だが、散らばった破片を目にして、すぐに状況を悟ったようだ。
 慌てて行と同じ目線になるように座ると、まだカップの破片を握っていた行の右手を引き寄せた。そしてその破片を取り上げる。

「大丈夫か、怪我しなかったか?」
「……え?」
 仙石の真剣なまなざしに、行は戸惑いを隠せなかった。

 怒られるのではないかと思っていた。
 カップを割ったことを責められるのではないかと。
 いや、そこまではしなくとも、まずカップについて、何らかの反応があると思っていたのに、いきなり自分の心配をされるなんて、想像もしていなかった。

「カップ割っちゃって……、ごめん」
 とにかく行は謝ることにした。これだけを言うのでも、とても苦しかったけれど、言ってしまえば、ホッとした。
 しかし、仙石の表情は変わらない。それどころか、何故か怒ったような顔になる。

 ……謝ったのに、どうして怒るんだろう?
 やっぱりカップを割ったことが許せないのかな?
 行の頭は疑問で一杯になった。


 すると仙石は、行が驚くような大声で言った。
「カップなんかより、お前の方が大事だろ!」
「……でも」
「怪我してないか見せてみろ、ほら」
 どうして良いか分からなくなっている行の手を、仙石はぐいぐいと引っ張り、両方の手のひらをためつすがめつして、ようやく安心したようだ。

「……どうやら何ともないみたいだな」
「あ、うん。怪我はないよ」
 行は割れた破片を拾い上げただけだ。怪我なんてする余地もない。
 が、行がそう言うと、仙石はますます怒った表情になる。

「それを早く言え。ったく」
「……でも」
「またか?でも、何だよ?」
 あくまでも反論しようとする行に、仙石はちょっと呆れ顔になった。それでも行はそのまま言葉を続ける。

「でも、オレの怪我はそのうちに治るけど、割れたカップは元に戻らないじゃないか。だから、あんたがカップよりも、オレを心配するのはおかしいと思う」
 それは行の本心だったけれど、その言葉を聞いた瞬間、仙石は絶句し、名状しがたい表情になった。


 ……ああ、またか。
 行は、どうやら自分の言ったことが普通ではないらしい、ということをすぐに悟った。
 自分が人よりもずれているとか、変わっているとか思ったことはないけれど、こういう顔を何度も仙石にさせてしまうのは、やはり自分は他人とずいぶん違っているのだろう。
 …………もちろん仙石とも。

 そのことが少し哀しかった。
 仙石のカップを割ってしまった罪悪感すら消え失せるくらいに。そして、それに気付いた瞬間、ますます罪悪感が深くなるのだけれど。


 そこへ、いきなり行の頭に、仙石の大きな手のひらが置かれた。武骨な指が、行の髪をくしゃりと掻き回す。
「……仙石さん」
 行が見上げた先には、仙石のやわらかなまなざしがある。
 仙石は時折、こういう目で行を見つめることがあった。包みこむように穏やかで、何の心配もいらないと言うような、静かなまなざしで。

 それは、行をひどく落ち着かない気分にさせた。
 仙石の瞳が優しければ優しいほど、行は不安になる。このまなざしを受け容れてしまって良いのか、甘えてしまって良いのだろうか、と思うのだ。
 そんな行の戸惑いを知ってか知らずか、仙石はまたくしゃりと行の髪を撫でると、明るい笑顔を浮かべた。

「明日、新しいカップを買いに行こうな」
 仙石の言葉に、行はただ黙ってうなずくのだった……。


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