『皮膚接触』 |
(1)「仙石さんに怒られるかな…」行は、水の滴る前髪をわずらわしげに掻き上げて、ボソリとつぶやく。 たとえ不可抗力とはいえ、こんな状態で家に戻ったら、仙石は間違いなく怒るだろう。あの大きな手でゴツンと頭にげんこつを一発くらいのことを、覚悟しておかなくてはいけないかもしれない。 うつむいて、小さく溜め息を落としながら、行は玄関のドアを開ける。 「…ただいま」 そう言った所で、おそらくはリビングかキッチンに居る筈の仙石が、迎えてくれる訳もない。 だが、仙石に『あいさつは基本だ』と厳しく躾けられた結果、家を出て行く時は『いってきます』帰ってきたら『ただいま』を言えるようになっていた。これも進歩だ。 すると、返って来ない筈の声が、頭の上から降ってくる。 「お帰り、行」 恐る恐る頭を上げると、そこにはやはり怒った顔の仙石が立っていた。 「あの、いきなり雨に降られて…、それで」 簡潔に状況を説明しようとした行は、なぜか言い訳じみてしまう自分の言葉に嫌悪感を覚え、すぐに口を閉じる。それに仙石の方も、行に言い訳をさせる暇など与えてくれなかった。 「……うわ」 いきなりバスタオルを頭から、すっぽりとかぶせられ、行は驚きの声を上げる。 しかし仙石はそれには構わずに、タオルの上からがしがしと行の髪を拭き始めた。 「こんなことだろうと思ったぜ」 「え?」 「お前が買い物に出て行ってから、急に雨が降り出しただろ。でもきっとお前のことだから、雨宿りをしたり、傘を買ったりせずに、ただひたすら真っ直ぐ家に戻ってくるだろうってな。 いっそのこと迎えに行こうかと思ったんだが、すれ違っちまう可能性もあるからな。ここで待っていたって訳だ」 ようやく仙石の手から解放されて、タオルから顔を出した行は、感心して仙石を見つめる。どうして、そんなに自分の行動が分かってしまうのか、信じられないくらいだった。 すると、仙石はくつくつと笑う。 「お前なぁ。俺のことを感心している暇があるなら、さっさと風呂に入れ。沸かしてあるからよ」 「なんで……」 行はまた見抜かれてしまったことに茫然とする。 自慢ではないが、感情を表に出さないことに関しては自信があった。というよりも、仙石のように素直に感情を表せないのだ。仕事柄、ますますその傾向は強まっていたし、何を考えているのか分からない、と言われたことも数知れない。 それなのに。 仙石は明るい笑顔でしれっと言ってのけるのだ。 「お前くらい分かりやすい奴、他にいねえよ」 どうしても仙石には勝てないと思うのはこんな時だ。 行は大人しく風呂に向かいながら、どうして仙石は怒らなかったのだろう?と首をかしげるのだった……。 ゆっくりと湯に浸かりながらも、結局は、仙石が怒らなかった理由が思い付かず、行は釈然としない思いで、風呂から上がる。 そのまま考え事をして、ぼんやりとリビングに向かうと、そこでいきなり仙石に怒られた。訳が分からない。 「こら、何やってるんだ」 「どうして今なんだよ」 怒るならさっきだろ、今じゃないだろ、というつもりで仙石に言い返すと、仙石はきょとんとした。 「何の話だ。とにかく頭を拭けって」 仙石に言われてみて、初めて自分が洗い髪をほとんど拭かずに、出て来てしまったことに気が付いた。 「あ、ごめん」 「子供じゃねぇんだからよ」 仙石は苦笑しながらも、すぐにバスタオルを持ってきて、行の髪を拭いてくれる。今度は先刻とは違って、優しい手つきだった。 「なかなか乾かねえな。ちょっとそこに座ってみろ」 仙石がソファを指差すので、行は大人しく言われるままに座った。すると仙石は、ソファの後ろに回って、行の頭を包みこんでマッサージでもするかのように、全体をまんべんなく拭き始める。 「やっぱり髪が多いんだよな、お前。若いって良いよな」 「あんただって、そんなに少なくないだろ」 「いやいや、後頭部は結構きびしいものがあるんだ」 「知らなかった。今度じっくり見せてよ」 「止めろって」 そんな会話を交わしながらも、仙石の大きな手のひらに包まれる心地良さに、行は思わず目を閉じて、うっとりと身を委ねる。 どこかで、こんな感じを味わったことがある気がする…、と記憶を辿ってみると、それは美容院の洗髪台だった。 普段の行は髪も自分で切ってしまうし、美容院なんて縁のない生活だが、以前に任務でフォーマルな席に出る必要があり、髪もセットさせられたのだ。他人に触れられるのが苦手な自分が、美容師に髪を洗ってもらっている時だけは、心地良くて眠ってしまいそうだったことを思い出した。 ましてや、今は自分が好意を持っている仙石に触れられているのだから、その時の気持ちとは比べ物にならないほどに心地良い。まるで海にたゆたうように、ゆるりと夢の中に誘われていく。 そこを仙石の声に引き戻された。 「こんな所で寝るなよ」 ハッとした行が顔を上げると、仙石が苦笑しながら、こちらを覗き込んでいた。 「ごめん。あんまり気持ち良かったから、つい」 行は正直に答える。すると仙石は、何故か不敵にニヤリと笑った。 「そんなに好評だとは知らなかったよ。で、どうする。このまま俺が毛先の方も拭いてやろうか?それとも自分で拭くか?」 いたずらっぽく仙石に尋ねられ、行はほんの少し考えた。実際は考えるまでもなかったのだけれど。 「全部拭いて欲しい」 「了解」 仙石はそう言うと、いそいそとソファの前に回って、行の隣に無理やり座った。そしてそのまま、行の身体を後ろから引き寄せて、自分の腕の中にすっぽりと収めてしまう。 「この方が拭きやすいからな」 その言葉に、行は内心で首をかしげずにはいられなかった。どう考えても、こんなに密着しては拭きづらくなるに決まっている。そう思ったものの、それでも行は何も言うことはしなかった。 仙石の腕の中に抱かれているのは安心できるし、何よりも仙石はちゃんと髪を拭いてくれているのだから、文句の付けようもないのだ。 ふんふんと鼻歌まじりで行の長い髪を拭いていく、仙石の武骨な指先の感触を味わいながら、行はそっと仙石に身を委ねるのだった……。 NEXT>> |