(3)
そして一週間後。
仙石は、行の家の前に立ち、大きく息を吸い込んだ。この家に入るのに、これほど緊張したのは初めてだった。恐る恐るドアベルを鳴らすと、さして待つこともなく、行が現れる。
おそらく、行もこの日を待ち詫びていたのだろう、と仙石は思った。しかし行の表情はいつものように感情の読み取れない顔ではあったのだが。
一週間前と同じように、二人は居間のソファに向かい合って座る。仙石には言うべき言葉が存在しないから、じっと黙って行が口を開くのを待った。
すると行は、珍しくかなりの逡巡を見せた後、どうにか話し始める。
何気ない口調を装ってはいるが、内心の動揺は隠しきれていなかった。普段の行には、迷う、などということ自体が存在しないのだから、当然だろう。
「あんたの言葉で、オレなりに考えてみたんだ。つまり、オレがあんたに恋をしているのかどうかってことを」
「で、どうした」
今にも食いつかんばかりの勢いで訊ねる仙石に、行は今度はきっぱりと断言した。
「分からなかった」
「おいおい」
……そりゃねえだろ…。そんな結論をもらうために一週間待った訳じゃねえぞ。俺の一週間を返してくれよ。いったいどれほど苦労したことか。仕事も手につかねえし、何をやっていても、お前のことばかり考えていたんだぞ。兄貴にからかわれちまったくらいなんだ。お前は自分を病気だとかなんとか言っていたが、俺の方がよっぽど病気になりそうだったんだ。胃に穴の一つや二つは開いたかも知れねえ。その俺の苦労を、分からない…なんて一言で済ませられると思ってるのか。こん畜生。
即座に、仙石の頭の中でこの一週間の日々が甦る。と同時に、盛大な愚痴も脳裏を駆けめぐった。それを行にそのまま言えないのがつらい所だ。
しかし仙石の表情から悟ったのか、行はフォローするように付け加える。
「でも、それは仕方がないだろ。どういう状態が『恋をしている』に相当するのか、オレには分からないんだからな。あんたは無責任に恋だと言ったが、本当に病気かも知れないじゃないか」
「医者は異常がないって言ったんだろ?」
仙石の言葉に、行はうなずいて、言葉を続けた。
「だから、オレなりに調べてみたんだ」
「…何をだ?」
首をかしげる仙石に向かって、行はしれっと言ってのける。
「恋について」
「どうやって…?」
仙石の感覚では、恋について『調べる』というのが理解出来ない。病気の症例ではないのだから、『恋の症状…めまい・動悸・発汗・体温上昇』などと書いてある筈もないだろう。あるいは恋を医学的に解明した文献などがあるのだろうか。
仙石が困惑していると、行はどこからか一枚の紙を取り出した。パソコンからプリントアウトしたらしく、一覧表のようなものが書かれている。
「桐壺・藤壺・葵の上・紫の上・明石の君…、なんだこりゃ」
「源氏物語だ」
「だから、それがどうした?」
「インターネットで調べてみたら、どうやら恋愛小説といったら源氏物語らしい。参考になるかと思って読んでみた」
「…なるほど」
仙石は頭が痛くなりそうだった。
病気だと思って医者に行くよりは、恋愛小説を読む方が進歩したと言えないこともないが、よりによって源氏物語の必要がどこにあるいうのか。それもきっと行のことだから、現代語訳ではなく原文を読んだに違いない。
「光源氏は浮気者で自分勝手でどうしようもない男だ。あれでも恋をしていると言えるのかどうか納得出来ないな。だが、光源氏を思う女たちの恋心が連綿と綴られていて、オレにもそれは理解出来るような気がした。例えば紫の上が…」
「ちょ、ちょっと待て」
いきなり源氏物語について語りだそうとする行を、仙石は必死に止める。光源氏の恋愛など、今はどうだって良いのだ。問題は自分たちの方ではないか。
「…何だよ」
話の腰を折られた行は、不満げな表情を浮かべた。そんなところは歳相応で可愛らしくもあるが、にやけている場合ではない。
「お前の恋はどうなった」
単刀直入に訊ねると、行の不機嫌な顔がますます険しくなった。
「だから分からないって、さっきから言ってる」
「何で分からないんだよ」
ムキになって声を荒げる行に、仙石も大人気なく言い返す。
すると行は、ふいに顔を背けてぼそりとつぶやいた。
「…初めてなんだから、しょうがないだろ」
照れたように、恥らったように、かすかに頬を染めた行は、とんでもなく可愛らしくて、仙石の脳天を直撃した。
…こうなったら実力行使だ。口で言って分からなきゃ、身体に分からせるまでだよな。キスの一つもしてやりゃ納得するだろ。それでも駄目なら行き着く所まで…。
密かに仙石が不穏なことを考えているとも知らず、行はまだぶつぶつと何やらつぶやいている。
その隙を伺うように、仙石がそっと行の隣に座ると、行はいきなりこちらを振り向いた。
さらりとなびく髪の下から、長い睫毛にふちどられた黒い瞳がじっと仙石を見つめる。思わず仙石がそのまま可愛らしい唇に突撃しようとした所で、そこから思わぬ言葉が発せられた。
「やっぱり生霊なのか?」
「何の話だ」
「源氏物語では、六条御息所が光源氏を思うあまりに生霊になって、他の女を殺そうとする場面があるんだが、そのくらいじゃないと恋とは言えないのかと。でもオレは生霊なんて飛ばせないと思うしな」
仙石は呆れた。死ぬほど呆れた。まさかここまで浮世離れしているとは思わなかった。いくら面の皮が厚い仙石でも、この状態からキスなんて無理だ。そんなムードは欠片もない。
「いいかげんに源氏物語から離れろよ…」
「他にもっと良い参考資料があるのか?」
愛らしく小首をかしげながら、無邪気とも言うべき表情で尋ねてくる行に、仙石はここだ!と覚悟を決める。たとえ後から何と言われようとも、このままでは永遠に進展は望めまい。
「恋に参考書なんて…、ねえんだよ」
出来うる限りの低く響く甘い声で、仙石は行の耳元にささやく。ここでうっとりしてくれれば、しめたものだが、おそらく如月行はそれほど単純ではないだろう。
「全て、実践で覚えていくしかねえのさ…、こうやってな」
自分で言っていても歯が浮きそうな台詞を吐きながら、仙石は右手を伸ばして、行の細いおとがいを持ちあげると、そのまま唇を合わせる。
突然のことに行は戸惑っていた様子だったが、程なくして小さく唇が開かれたので、仙石は遠慮なく舌を差し入れていった。
すかさず左手は、行の身体をしっかりと抱きしめて逃げられないようにする。もちろん行が本気になったら、どんなことをしても逃れられてしまうだろうが、幸いにも仙石の腕の中で、たどたどしく口付けを受け止めていた。
いったいどのくらい、そうしていただろうか。中年男のしつこさで、仙石はじっくりと行の唇を味わい続けた。それでも腕の中で行が小さくふるえるから、仕方がなく身体を離す。
すると、行は仙石の胸の中に顔をうずめ、荒い息を吐いていた。息継ぎのタイミングすら分からなかったらしい。
「もしかしてキスも初めてか?」
仙石が尋ねると、行はすぐにかぶりを振って否定した後、やはり思い直したように、こくりと小さくうなずいた。
「どっちなんだよ」
「口と口を合わせたことはある。でもあれはキスじゃなかった…、と思う」
「なるほどな」
仙石はうなずくと、いたずらっぽく笑いながら尋ねる。
「それじゃ、今のは『キス』だったんだな?」
その言葉に行は、かあっと頬を染めた。まるで恋する乙女のような反応に、仙石は気を良くした。というよりも調子に乗った。
「つまり嫌じゃなかったってことだろ。それとも気持ち良かったか? もっとして欲しいと思ったか? ん…?どうなんだよ」
これでは単なるセクハラエロオヤジだ。
「うるせえ」
案の定、行に思いっきり殴りつけられてしまうが、否定しないというのは、そういうことだろう。仙石のニヤケ顔は一発二発殴られたくらいでは、元に戻らなかった。
それどころかまたも行の身体を抱きしめると、髪に頬に耳に首筋に、キスの雨を降らせる。唇のキスへと違い、行はくすぐったそうにするが、構うことなく何度も。
そんな仙石の情熱的な愛情表現を受けながら、行はポツリとつぶやいた。
「…恋って、……暑苦しいんだな」
「ん?何か言ったか?」
「いや、何でもない」
この場にはあまり相応しくない行の感想は、幸いにして、夢中になっている仙石には聞こえなかった。そこで仙石はいつまでも、行を抱きしめ続けるのだった…。
おわり
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