「如月の受難」  ―渉さまへ


 



如月翡翠の朝は早い。

まず5時30分、起床。
そして軽いジョギングをすませ、戻ってくる頃には、
ちょうどご飯が炊き上がっている。
それから朝食の支度をしつつ、弁当を作る。
あくまでも和食にこだわった朝食は、
アジの開きにわかめの味噌汁。
それに加えて海苔と卵があれば十分だ。
もちろん自家製の漬け物や梅干も欠かせない。

それらを時間をかけてゆっくりと食し、身も心も落ち着けてから、
手早く身支度を済ませて家を出る。
如月の通っている王蘭高校までは電車と徒歩で1時間弱。
品行方正の如月は、これまで遅刻も欠席もしたことがない。
始業の8時30分よりも、たいてい15分は早く学校に着いていた。
それが如月の朝の光景であり、高校入学以来のほぼ3年間、
毎日判で押したように続けられていたのだったが…。

  * * *

如月はいつものように目を覚ました。
その筈だったが、閉め切った雨戸の隙間から洩れ入ってくる
朝の光に、秀麗な眉をひそめる。
この冬のさなか、如月が起きる時刻はまだ夜明け前である。
その薄暗い中を走りながら、
だんだんと夜が明けてくる気配を感じるのが好きだった。

「え…?」
茫然としながら辺りを見回して時計を確認すると、
針はすでに7時を回っていた。
「遅刻だッ!」
自分でも情けないくらいに慌てふためいて、如月は飛び起きる。
今から支度をして急いで行けば、まだ何とか間に合う時間だった。
いつもであれば丁寧にくしを入れる髪も、
今朝は寝ぐせをつけたままで、
カバンを片手に家を出ようとした、その瞬間。

いまどきどこにこんな電話が?と思うような
如月家の古めかしい黒電話が、けたたましい音を立てた。
「いったい誰だ、こんな時間に!」
苛立ちを隠しきれずに、思わず電話に怒鳴りつけるが、
それでも律儀に受話器を取ってしまうところが如月らしい。
「はい、如月です」
「よお、俺だよ。今日、暇だったらちょっと付き合わねえか?」
「…君か」

電話の相手は村雨だった。
仕事の関係ならばいざ知らず、村雨であれば遠慮はいらない。
如月はとたんに冷たい口調に豹変する。
「急いでいるんだ。それじゃ」
「お、おい、ちょっと待てよ。そりゃ、ねえだろ。
 俺は今日休みなんだよ。
 今から迎えに行ってもいいか?」
「断る。君だって学校だろう」
学校をサボるなど想像もつかない如月だ。
しかし、村雨はしれっと言ってのける。
「創立記念日でね」
「…君、それ何度目だい?」

さすがに呆れて言葉も出なくなる如月とは対照的に、
村雨は堂々としたものだ。
「うちの学校はな、創立記念日が5回あるんだよ」
「そんな訳があるか」
「ん?疑うのか?
 幼等部・初等部・中等部・高等部・大学部だよ。
 それぞれ出来た日が違うんでな。
 それでも学校はいっせいに休みってことさ」
「…へえ、そうなのか」

あっさりと納得してしまう如月に、
村雨は電話の向こうで弾かれたように笑う。
「あんた、そんなに簡単に人を信用するなよ。
 いつか悪い奴にだまされるぞ」
「それじゃ、今の話は嘘か!?」
険しくなる如月の声に、村雨も笑いを収める。

「いや、嘘じゃねえぜ」
「君にはもう付き合っていられないよ」
如月は小さく吐息をつき、ハッとして時計に目をやった。
「大変だ…ッ」
「どうした?」
如月の切羽詰った声に、村雨が心配そうに尋ねる。

しかし、如月はそれどころではなかった。
返事もそこそこに、受話器を叩きつけるように電話を切ると、
それでも指差し確認をして、戸締りをチェックした。
そして、慌てて家から駆け出して行こうとしたところで、
玄関の前にいた人影とぶつかる。
「あ、失礼」

軽く頭を下げて通り過ぎようとした如月の耳に、
頭が痛くなりそうな大声が響いた。
「如月サン!待ってたんッスよ」
「…雨紋」
今日は次々に邪魔が入る、と苦々しく思いながら、
如月は無意識のうちに雨紋を睨み付ける。
「どうしたんスか?怖い顔しちゃって。
 あ、あの、今日暇だったらツーリングでも…」

派手な外見とは裏腹に、もじもじしながら尋ねる雨紋に、
如月は冷たい視線を向けるだけだ。
「僕は学校に行くんだよ!
 …遅刻しそうなんだ」
気が急いているあまりに、
思わず一言付け加えてしまったのが運の尽き。

「それなら学校まで送るっスよ!」
傍らの愛車をぽんぽんと叩いて、自慢げに胸をそらす雨紋だ。
如月はそんな雨紋の様子に、
ぱたぱたと尻尾を振る犬の姿を思い出さずにはいられない。
…まるで忠犬だな。
心の中で大きく吐息をつくが、断るのも忍びなく、
ついうなずいてしまうのだった…。


「もうちょっとスピードを落とせないか?」
如月は雨紋の背中にしがみつきながら、必死に声をかけた。
それでも激しい風の音や排気音にかき消されてしまう。
「えー?!何スか?!」
「スピードを!落としてくれ!!!」
喉が枯れそうになりながらも叫んでみると、
雨紋は何が可笑しいのかゲラゲラと笑った。
「如月サンを遅刻させる訳には行かないッス」

…事故で死ぬよりは、遅刻した方がずっとマシだよ…。
雨紋の運転を完全には信じ切れない如月は、
もうこれ以上、後ろに乗っていることは不可能だ、と、
とりあえず最寄り駅まで行ったところで
強引に下ろしてもらうことにした。
雨紋はずいぶん落胆した様子だったが、
それでも如月の力になれたことに満足げな笑みを浮かべている。

「ありがとう、助かったよ。それじゃ」
律儀に礼を述べる如月に、雨紋はますます明るく微笑んだ。
「いつでも呼んで下さい!」
「あ、ああ。その内にね…」
あいまいに微笑みながら、
金輪際、雨紋のバイクの後ろには乗るまい、
と心に固く誓った如月だった…。

  * * *

「ふう、それでも何とか間に合いそうだ」
如月は電車の時刻表を見つめて安堵の息をつく。
雨紋の運転はかなり荒っぽかったが、
ずいぶん時間の短縮になったらしい。
次の電車に乗れば、ギリギリ始業に間に合うだろう。
通勤客や学生でごった返す駅の構内を、
如月はやきもきしながら通り過ぎる。

もう如月には後がないのだ。
この電車を乗り過ごしたら、
『遅刻』という汚点がついてしまうのだ。
焦れながら、無理やり人ごみを掻き分けていくと、
少し先に、妙にそこだけ人の居ない空間がある。
疑問に思いながらも、とにかく人の少ない場所に行きたかった。

必死に泳いで海から陸地に上がったように、
大きく息を吐いた如月の目の前に現れたのは、
信じられない光景だった。

「世界の平和を守るため!」

「我らは通勤ラッシュと戦うぞ!」

「皆さん、整然と並んで下さーい」

赤・黒・ピンクの3人組が、押し寄せる人々を、
交通整理のつもりか、右や左にと指示を出している。
むしろその行為こそが、混乱を招いてしまっていることに、
幸いにして彼らは気づいていない。
いや、如月にとっては、これ以上はない不幸であったが。

…ここは他人のふりだ。
如月は即座に『見なかったふり』をする。
が、そんな時こそ、見つかってしまうものなのだ。
「ああっ、如月さん!
 こんなところで会えるなんて〜♪」
ブラックの弾んだ声に、如月は地獄に叩き落された。
「や、やあ、黒崎」
忍者好きパート2である。…頭が痛かった。

「どうしたんですか?あ、学校ですね!」
当たり前のことを尋ねてくる黒崎に、
如月は返事をすることも出来ない。
もちろん、『じゃあ君たちは?』と尋ねることも。
どんな答えが返ってくることか、想像するのすら恐ろしかった。
この場から今すぐに立ち去りたい如月に、
黒崎は驚くべき一言を告げる。
「でも、いつもよりも遅くないですか?」

…どうして君は僕の『いつもの』時間を知っているんだ?!
と、怒鳴りつけたい気分を抑えるのに精一杯で、
また如月は失言をしてしまった。
「ああ、ちょっとね。遅刻しそうなんだ」
口に出してから、すぐに『しまった』と思ったが、もう遅い。
黒崎の目が、喜びにきらきらと輝きはじめる。
「じゃあ、オレの出番ですねッ!」

そ、そんなこと、誰も言ってないよ…。
などと如月が言える筈もなく。
気がついた時には、黒崎にぐいぐいと手を引かれてしまっていた。
しかも例のコスチュームをした黒崎は、
辺りに大声で叫んでいるのだ。
「どけどけー!如月様のお通りだぞー!
 道を開けろ〜〜!!!」
「…もういいよ、黒崎…」

如月の呟きなど、聞いちゃいない。
お願いだから、止めてくれ。
如月は恥ずかしさのあまりに、顔から火が出そうだった。
それでも、無事に電車に乗り込めた時には、
ちょっと感謝してしまった自分が情けなくなる。
しばらく黒崎は『如月骨董品店』の出入り禁止だ、
と心に固く誓った如月だった…。

  * * *

何だか色々あって、学校に行くまでに
ぐったりと疲れてしまった如月だが、
ようやく電車の中でほっと息をついた。
この電車に乗れたのだから、余程のことがなければ、
学校に間に合う筈だ。
そう、余程のことがない限りは…。
もう何も起こらないでくれ。
そんな如月の悲痛な願いを、
神も仏も聞き届けてはくれそうになかったが。

「おや?如月さんではありませんか。
 こんな所で会うとは奇遇ですね」
いきなり声をかけられ、今度は誰だ!と振り向き、絶句する。
もう、たいていのことには驚かない自信があったが、
目の前の人物は、如月の予想を遥かに超えていた。
「み、御門…くん」

どうしてこんな時間に、
しかも同じ車両に乗り合わせてしまったのか。
その上、御門は制服ではなく、安倍晴明ばりの陰陽師姿だ。
辺りの者もやはり遠巻きにしており、
混み合った車内でも御門の周りはずいぶんと空間が出来ている。
「今日は近くで仕事がありましてね」
「学校は休みなのかい?」
思わず尋ねた如月に、御門はしれっと言ってのけた。
「創立記念日ですよ」

…本当だろうか。
本当だとすると、同じ学校の村雨も
やはり創立記念日で休みだったということになる。
疑って悪かったな、と思いながらも、
まだ今ひとつ御門の言葉を信じきれない如月だ。
村雨はふざけて嘘や冗談を言う男だが、
御門は真顔で嘘の吐ける性格である。
どちらも信じられない…。
疑わしい目で見つめる如月に、御門は悠然と微笑むばかりだ。

そして、なおも如月を驚かせる。
「遅刻しそうなのでしょう?如月さん」
「何故それを…」
如月は茫然とするが、御門は含み笑いを浮かべるだけだ。
「私がお役に立てそうですね」
「え?あ、いや、必要ないよ」

慌てて断る如月の言葉など、もちろん御門は聞いてはいない。
「芙蓉」
何もない空間に厳かに告げると、どこからか声が返ってきた。
「御意」
それと共に、式神・芙蓉の姿も現れてくる。

いきなり現れた芙蓉に、辺りにどよめきが走るが、
きっと理由はそればかりではないだろう。
芙蓉もやはり制服ではなく、式神本来の姿だったのだから。
つまりは胸の谷間もあらわな着崩れた着物、である。
京一ならば大喜びだろうが、如月は当惑するばかりだ。

「や、やあ。芙蓉くん」
挨拶もしどろもどろになってしまう。
すると芙蓉は無言で頭を深々と下げた。
当然ながら、豊満な胸がこぼれ落ちそうになる。
『おおっ』『うッ…』
周囲の男性陣から溜め息とも歓声とも聞こえる声が洩れた。

…ああ、もうどうにでもしてくれ。
如月は半分やけになって、御門に任せることに決めた。
どうせ如月が何を言っても、御門という人物は、
自分のやりたいようにやるのだから。
それなら素直に従って機嫌を損ねないのが得策である。
「それでは芙蓉、如月さんをお送りしなさい」
「御意」

御門の言葉で、芙蓉はぴったりと如月の隣に身体を寄せた。
「あ、あの。そんなに近づかなくても…」
「晴明様のご命令ですから」
淡々と告げる芙蓉に、如月は思わず心の中で首をかしげる。
…そんな命令だったかな。
と、思いながらも、どうしようもなく、
二人並んでお雛様のように立ちつくすのだった。


目的の駅に着き、電車を降りようとする如月に、
御門が声をかける。
どうやら御門はここでは降りないらしい。
当然ながら、芙蓉は如月についてきているのだが。
「それではお気をつけて、如月さん。
 無事を祈っておりますよ」
「あ、ああ。ありがとう、御門くん」

御門の言葉が何となく『警告』あるいは『忠告』めいていて、
ぞくりとする如月だ。
いや、むしろ『呪い』じゃないのか?などと思ってしまい、
その考えを必死に振り払う。
もうこれ以上の面倒はごめんだった。
すでに背後にしっかりと『芙蓉』という名の
厄介事を背負っているのだから。

なるべく芙蓉の方は見ないようにして、
如月はすたすたと駅を出る。
自動改札を抜けると、芙蓉もどうやったのか、
一緒にするりと通り抜けた。
「もうここで大丈夫だから、芙蓉くん」

如月はダメで元々という気持ちで言ってみたが、
もちろん芙蓉がうなずく筈もない。
芙蓉にとっては『晴明様』の命令が絶対なのだ。
如月のことなど構わず、問答無用で厳かに告げる。
「参ります」
「え?どこに」

思わず間抜けな返事をしてしまうが、
その時はすでに如月の身体は宙に浮かんでいた。
「わっ、何だ!?」
忍者らしくもなく、慌てふためいた如月が、
どうやら芙蓉に抱きかかえられているらしい、
と気づいたのはしばらくしてからだ。
芙蓉の豊満な胸は如月の背中にしっかりと当たっており、
しなやかな腕が脇の下を通って、如月の身体に回されている。

情けない格好だな…、と思いながらも、
いつしか空中からの景色を楽しめるようになって来た。
こんな経験はそうそう出来るものではない。
それに、眼下には見慣れた学校の校舎が見えてきた。
散々な目には合ったものの、
遅刻さえしなければいいのだ。…多分。

「…もうここで良いよ」
「御意」
芙蓉は、今度は素直に如月の言葉に従う。
ふわりと着地した如月の目の前で、
また芙蓉は煙のように姿を消した。
如月に礼を言う暇すら与えない。
「…相変わらずだね」
思わずつぶやいた如月だった。

通学途中の学生たちに指を差されたり、
好奇の目で見られたりはしたが、
それでもようやく無事に学校の前に辿り着いた。
後はこの角を曲がれば良いだけ。
それで校門が見える筈なのだ。
その筈だったが…。

「いったい何なんだ、これは…」
角を曲がった如月はやはり絶句する。

きっと今日は厄日に違いない…。


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