村雨誕生日記念SS  「誓いの夜」1


 



如月はその場所に、ただ一人、立ち尽くしていた。
どうして今、自分がここに居るのかすら、
はっきりと自覚のないままに。
猥雑な話し声や、女たちの嬌声が聞くともなしに、耳に飛び込んでくる。
少し離れたところから響く声は、言葉の意味までは聞き取れず、
ただの騒音としか認識できなかった。
それが、落ち着いて何かを考える余裕をなくしていくようで、
如月の気持ちをささくれ立たせたが、
本当の理由は別のところにあるのだと、
自分でも嫌というほど分かっていた。

「あのバカが…ッ」
目の前にいない相手を心に思い浮かべて、
容赦なく悪態をつくと、多少気も紛れてくる。
それでも、自分が『ここ』にいる理由を考え始めると、
また憂うつになってくるのだが。

如月が、何かを求めて、あるいは何かを諦める為に
やってきた場所は、新宿歌舞伎町の裏通りだった。
にぎやかな通りから一本奥に入っただけで、
途端にひと気は少なくなり、不夜城のネオンも届かなくなる。
光の射さない暗い影がそこここに沈んでいた。
朽ち果てた廃ビルの裏や、細い路地の奥にも。

そして、その影こそが如月を悩ませる最大の原因だった。
はっきりと見通せないその場所から、
あの男が歩いてくるような気がするから。
闇の中にぼんやりと白い学生服が浮かび上がってきはしないかと、
ふと気付くと目を凝らしてしまっている。
もう高校も卒業してから一年以上がすぎているというのに、
未だにあの男の印象はそんな姿だった。
初めて出会った時のイメージが、
そのまま焼きついているのかも知れない。

如月は、その日のことを今でも鮮明に思い出すことが出来る。
2年前の、今日。
夜空では彦星と織姫が出会っているだろう七夕の夜に、
二人は巡り合ったのだった。
その場では、お互いに名乗りはしたものの、
再会することになるとは思ってもみなかったし、
ましてや『仲間』になることなど、想像も付かなかった。
もちろん、それ以上の気持ちを抱く、なんてことは論外だ。

そう、自分があの男の姿を求めて、わらにもすがるような思いで、
こんな所にまで足を運んでしまうことなど…。


如月があの男、村雨に初めて出会ったのはこの場所だった。
そして、最後に別れたのは、如月の家の庭のこと。
降りしきる雪の中を、純白のコートでやってきた村雨は、
別れの言葉を告げると、あっさりと背を向けて去っていった。
如月も慌てて後を追ったが、後から後から落ちてくる雪が、
村雨の白い姿をかき消し、見失ってしまった。
それが、如月の見た村雨の最後の姿だったのだ。

まるで今生の別れのような言葉だけを残して、
どこへ行くとも、何をするとも言っていかなかった男に、
如月が憤りを覚えなかったはずはない。
すぐに心当たりには全て聞きまわった。
しかし、誰も男の行方について、知っている者はいなかった。
そして、誰もがそのことを、当たり前だと思っているようだった。
村雨が一つの所に留まってはいられない性分なのだと、
分かっているから。
『村雨らしい』と笑顔すら見せていた者も居たほどだ。

村雨が居なくなったことを怒っているのは、
どうやら自分だけらしい、ということを如月にも理解できてくると、
今度は別の怒りが湧いてきた。
どうして自分の気持ちをこんなにかき乱されなくてはならないのか。
こんな風に慌てふためいたり、取り乱したりするのは、
自分らしくない行動だった。
それもこれも全部あの男のせいなのだ。
望まぬことをやってしまうのも、
自分の気持ちに整理が付かないのも。
何もかも、あの男が悪いのだ。

…やはり僕は、君が誰よりも嫌いだよ、村雨。
如月は心の中でつぶやいた。
何度も何度もくりかえし刻み込んでおかないと、
自分があの男を嫌いだということも、忘れてしまうかも知れないから。
空気すら凍りつきそうな冬の日々を過ごす中で、
如月はこの想いも、胸の奥にそっと凍らせておくことに決めた。
そうして、再会した時に、言ってやるのだ。
「僕は君が世界中で一番嫌いだ」と。
その為に、しばらくの間は眠らせておくことにしたのだった…。

  * * *

そして、眠らせていた想いを揺り動かすために、如月は今ここに居る。
初めて村雨と出会ったこの場所に。
あれっきり、電話どころか、手紙も何の連絡もない。
もちろん、今日ここで会う約束などを、交わしているはずもなかった。
ただ、如月は賭けてみただけだ。
雪が降りしきるあの日に、村雨がやったように。

…ここでこうして待っていて、君に逢えたら僕の勝ちだ。

勝負事には負けることのない村雨が、
わざわざ負ける賭けにやってくる筈もない、が。

「逢えたら、奇跡だな…」
雪の降る中に立ち尽くしていた村雨は凍えるようだっただろうが、
暑さも今が盛りと押し寄せてくる7月の夜は、
ただ立っているだけでも汗が流れてくる。
小さく溜め息をつきながら、ハンカチで汗をぬぐっていると、
自分がいったい何をやっているのか、と情けなくなってきた。
自分は村雨に逢いたいのか、それとも逢いたくないのか。
その境界すらも曖昧になって、
形にならない想いが胸の奥に沈んでいく。

どうにもやりきれない気持ちになって、
如月は心の中で自分への言い訳を必死に考えた。
…ちょっと通りかかっただけなんだ。
仕事の都合で、近くまで立ち寄ったから。
ふと思い出して気まぐれに、ここまで足を伸ばしてきただけだ。
そう、それだけで、深い意味なんてない。
あり得ないさ、ある筈がないんだ。
…僕が、あの男に逢いたいと思っているなんて…。
例えどこに居たって、
この日だけは自分に逢いに来てくれるのではないか、と
一縷の望みを繋いで、初めて出会ったこの場所に
やってきてしまったなどと、認められる訳がない。

違う、違う、違うんだ…ッ!
如月はもう何に対して言い訳をしているのかも分からず、
ただ否定をし続けた。
誰が聞いているのでもなければ、
誰かに伝えようとしているのでもないのに。
自分自身が認めてしまうことが、何よりも許せない。
…そんな気がしてならなかったのだ。


それでも待ち疲れて、如月はちらりと腕時計に目を落とす。
すでにあと10分もすれば12時になってしまう時間だった。
12時になったら、今日の日も終わりを告げる。
七夕の夜も、二人が出会った日も、そしてあの男の誕生日も。
如月は思わずそっと吐息をついた。
もう無理だ、とあきらめて、そのまま背を向けた瞬間。
如月の目に飛び込んできたのは、懐かしい微笑みだった。

「よォ」
右手を軽く上げて、こちらに近づいてくるのは紛れもなく、
如月が待ち続けていた男の姿に他ならない。
如月は夢か、あるいは幻か、としばらく茫然としていたが、
やがて決然と背を向けると、勢いよく走り出した。
「お、おい。待てよ…っ」
慌てて追いかけてくる男の気配を感じながら、
如月は闇雲に走り続けた。

そして、ぴたりと足を止める。
そこにはひどく見慣れた景色が広がっていた。
いつの間にか最初の場所に戻ってきてしまっていたのだった。
この場所に呼ばれてでもいたのだろうか。
二人が出会った運命の場所に…。

すると村雨も同じことを考えたらしい。
音もなく如月に近づくと、如月の細い身体を後ろからきつく抱きしめる。
「何をする」
もちろん如月は戸惑って身じろぎをするが、村雨は許しはしない。
「以前にも、こうやってここであんたを抱きしめたっけな。覚えてるか?」
「一年前のことなど忘れたね」
皮肉めいた口調で如月は言うが、
一年前だと認識しているということは、もちろん覚えている証だった。
相変わらず素直じゃない態度に、村雨は思わずくつくつと笑う。

「本当にあんたは一つも変わっていないんだな。
 そこが何よりもいとおしい、と言ったことはあったかな」
優しく低い声で『いとおしい』などと囁かれ、如月は耳まで赤く染めた。
「…知らない」
振り絞るようにしてつぶやいた言葉は、
ずいぶんと頼りなげな口調になってしまい、
それがますます恥じらいを深める。
そんな如月に構わず、村雨の睦言は続いていく。

「それじゃ、その黒い瞳と髪がとてもきれいだ、と言ったことは…?」
「……知らないよ」
すでに如月の抵抗はなくなり、全身を村雨にあずけていた。
村雨は、如月のぬくもりと髪の香りを味わいながら、また言葉を継ぐ。
「じゃあ、愛している、と言ってもいいか?」

今度はそう言ってみると、如月もこくりとうなずいた。
確かに村雨はそう感じたのだったが。
ふいに如月はこちらに向き直ると、きつい瞳で睨み付けてきた。
「…僕は、僕は君のことが嫌いだと言ったはずだ!」

こちらを見つめる黒い瞳が、うっすらと潤んでいるのは、
悔し涙か、それとも。
「そうか」
村雨はゆるりと如月を離しながら、困ったように苦笑した。
そして、その笑みを一瞬にして『にやり』に変える。
「そんなに熱烈に歓迎してもらえるとは思わなかったな。
 ずいぶん待たせちまったようだ」
「…何を言っている!?」

まるでかみ合わない会話に、
如月は目の前の男を奇妙な目で見つめた。
こんな気持ちになるのも久しぶりだった。
誰かに困惑させられたり、戸惑わされたりすることも。
苛立たされたり、怒鳴ったり、感情的になることも。
いつもは静かに凪いでいる心を波立たされることも。
全ては『村雨』にだけ、なのだから。

ざわついて、制御できない気持ちに、
どこか喜びを感じるのは気のせいだったろうか。
それが少し悔しくて、如月はどうにかして
この男をやりこめる方法はないか、と考えを巡らせた。
そして、ふと思いついて言ってみる。

「賭けは僕の勝ちだな。君の運もどうやら尽きたらしいね」
「…賭け?」
村雨は一瞬、驚いた顔をするが、
またすぐに何かを悟ったようにうなずいた。
「なるほどね。じゃあ、賭けに負けた俺はどうすればいい?」
逆に問い返され、如月は困惑した。
そんなことまで考えてもいなかったから。
そこで口から滑り出した言葉は、
如月自身も戸惑ってしまうようなものだった。

「もう二度と、どこにも行くな」

自分を置いて、誰もが行ってしまうのだ。…だから。


「ああ、分かった。もう二度とあんたを一人にはしない」
きっぱりと誓った村雨に、如月はそっと背を向けると、小さくうなずいた。
当然ながら、村雨はその背中を抱きしめる。
如月もほとんど抵抗はしなかった。
「それじゃ、行くとするか」「どこへだ?」
村雨の言葉に、如月はきょとんとする。

すると村雨は当たり前のように答えた。
「どこって、あんたの家に決まっているだろう。
 もう二度と離れはしないと誓ったばかりなんだぜ?」
「…あれは言葉のあやだ」
途端に往生際の悪くなってしまう如月に、
村雨はやはり苦笑を浮かべる。
そこが好きなのだから、仕方がないところだ。

そして結局、村雨はその日から如月の家に
居ついてしまうことになったのだった…。


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