村雨誕生日記念SS  「誓いの夜」2


 



「これはいったい何の真似だ!」
如月の怒声が家じゅうに響き渡った。
普段はこんな大声を出したこともない如月だから、
きっと近所の者は驚いていることだろう。
しかしそれも無理からぬこと。
いつの間にか村雨は、
如月家の二間を占拠してしまっていたのだから。

使われていなかった部屋でもあるし、
一人で住むには広すぎる家ではあるが、
ここまでを許したつもりはない。
第一、どうして一緒に住むことになってしまったのか、と途方に暮れた。
そんな如月に構わず、村雨はパソコンの配線に一心不乱だった。

そうかと思えば、いきなりこんなことを尋ねてきたりもする。
「如月、金は俺が払うからADSLにしないか?」
「そう言われても、僕には何のことだか良く分からないんだが…」
パソコンはおろか、エアコンすら存在しなかった如月家なのだから。
そのエアコンもすでに村雨の部屋には取り付けられてしまったが。
人工的な涼しい風に髪を弄られ、如月は小さく吐息をついた。

「…僕がいつ、君と一緒に住むことになったんだ…」
「あんたがそばに居てくれって言ったんだぜ?」
「そうじゃない。
 僕に断りもなく、勝手にふらふらと行くなという意味で」
「同じことだ」「違う、全然違う!」
何度目か分からない言い争いに、毎回敗れ去るのは如月だ。
いつもならば何を言っても無駄だ、と如月があきらめてしまい、
そこで話は『終わり』だったが、今回は違っていた。

ふいに、村雨が真剣な表情で言ったのである。
「親父さんの帰ってくる場所がなくなっちまうからか?」
「…何をいきなり」
突然、『父』を持ち出され、如月は目に見えて焦った。
自分を置いてふらりと出て行ってしまった父。
それは、この目の前の男ともどこか似ていて…。

「僕はひとりが性に合っている。だから」
「でも、待っているんだろう?今も」
「そんなことはないよ」
無理に笑顔を作る如月に、村雨は胸を痛めた。
以前に夕立に降られて、着替えを借りたことがある。
その時に如月が出してくれた着物は父親のものだったが、
ずっとしまい込まれていたという雰囲気ではなかった。
いつ父が帰ってきても大丈夫なように、
手入れをされていたとしか思えなかった。
それを、待っていると言わないで、何と言うのだろう…。

如月は自分の容姿を母親似だと言っていたが、
性格は父親似なのではないだろうか。
素直になれず、自己表現が苦手で、
誰かに自分を分かってもらおうと努力するよりも、
一人でいることを望むような。
そんな二人が一つ屋根の下で暮らすのは、
とても大変なことだったろうし、
村雨には如月の父が出て行った理由も
何となく分かるような気がしたのだった。

母とは死に別れ、祖父も、そして父親もどこかへ行方知れず。
この広い家でただ一人過ごしてきた如月のことを思うと、
村雨はどうにもやりきれない気持ちになる。
しかも、如月自身が自分を孤独だとは認識していなかっただろう、
ということまでも分かるから。
いつも如月は『ひとり』が良いと言い、一人で居ることを望む。
しかし、それでは何も変わりはしないことを、
一歩も前には進めないことを、如月も知ったはずだった。

…唯一の主と認める『龍麻』に出会ったことで。

如月が、自分から誰かを求め、そばに居たいと思い、
そして相手にもこちらを見て欲しいと願った、
それは初めてのことだったろう。
いや、たとえ相手がこちらを見てくれなかったとしても、
その力になれるだけで良かったのだろうし、
ただ彼が存在してくれればそれが喜びだったのだろう。

如月にとっての『龍麻』以上の存在には、誰もなれるはずがない。
村雨とて、そこまで楽天家でもなければ、自信過剰でもなかった。
だからこそ、如月が『龍麻』を喪ったかも知れない時に、
支えてやることが出来たのだ。
龍麻の代わりにはなれずとも、
あの時、あの如月を受け止めてやれたのは自分だけだった、
という自負が村雨にはある。
これが、今でも村雨の自信の根幹であり、
自分を支える拠り所だった。

それは龍麻への劣等感も多少含んでいたのかも知れない。
村雨は如月を本当には理解していない。理解できない。
龍麻と如月が、お互いに分かり合えるほどには。
それは如月と村雨があまりにかけ離れた存在であるからだし、
魂の居場所がこれ以上はない、というほどに遠いからであった。

しかし、お互いに理解できはしなくとも、
想い合い、支え合うことは出来る。
むしろ、相手の心の中まで理解できることなど
有り得ないのではないか?
自分自身ですら、自分の心のことまで、
分かりはしないのだから。
かつても、そして今も、如月と村雨の間に必要だったのは、
『理解』ではなかった。

ただ、村雨にとっては如月が必要で、
如月も村雨を必要としていた、それだけだった…。


「なあ、翡翠」
村雨は、あえて普段は呼ばない『名前』の方で、
如月に呼びかける。
それは如月の頑なな心を揺り動かすのには、
充分すぎるほどの力を持っていた。
「何だ」
いきなり仏頂面になりながらも、
とりあえず返事はするところが律儀な如月らしく、
村雨はこんな場合だというのに微笑みを浮かべた。
その笑みが、如月の怒りをますます助長する。

「用がないのなら僕は行くよ。
 君のたわ言には付き合っていられない」
決然とこちらに背を向ける如月の、
男にしては華奢で頼りなげに見える肩を、村雨はじっと見つめた。
この細い肩に、どれほどの重い荷を背負っているのだろうか…。
そんな哀れみや同情など、如月は欲しくはないというだろうが、
村雨は考えずにはいられない。
そして、その肩を強く抱きしめたら、
やはり如月は身体を硬くこわばらせて、
きつい瞳で睨み付けてくるのだろう。

分かっていながらも、村雨は自分を抑えることが出来なかった。
こうして髪に、肩に、触れてやることで、
全ては解決するのだろうと思うから。
如月が自分の何を信じられなくとも、このぬくもりだけは
今現実に目の前にあるのだ、と教えてやれる、
村雨の唯一の方法だから。
他人のぬくもりや手の暖かさなど必要としないと、
『ひとり』が良いのだと、そう言いきってしまう如月には、
こうやって何度も繰り返し覚えさせてやらなくてはならない。

…そうじゃないだろう?
お前が欲しいのは、『ひとり』じゃないだろう?
傍らに居てくれる存在も、抱きしめてくれる腕も、
髪を撫でてくれる指先も、何もかもを欲しているだろう?と。

「なあ、翡翠。いい加減に認めちまえ。
 お前は俺を必要としているってな。
 俺がそばに居てやらなきゃ、駄目になっちまうってことをよ」
「離せ、村雨」

如月は肩に置かれた村雨の手を、必死に振りほどこうとする。
どんどんと強く喰い込んでくる手のひらを、
まるで憎んででもいるかのように。
村雨の言葉など、まるで耳に入っていない顔で、
如月はただひたすらに、村雨の腕をつかみ、揺さぶり続けた。
「嫌だ、嫌だ、嫌だ…っ!
 僕は君なんて要らない。
 僕には誰も必要じゃないッ!」

感情のままに言い放ち、その一瞬後に、
如月はひどく傷ついたような表情を浮かべた。
自分の言った言葉に、自分で傷つけられたのか。
それとも。
目の前の男が、まるで傷ついていない顔をしていることに、
傷つけられたのか。

うっすらと笑みすら浮かべている村雨に、
如月は無言のままでうつむく。
そこへ、村雨の腕が包み込むように回された。
力を込めすぎないように、そっと触れるだけの指先から、
それでも確かにぬくもりが伝わってくる。
それが如月には耐えられなかった。

こうして愛しげに触れられている指先も、
いつかは自分から離れてしまうことを、知っているから。
この心地良さに慣れて、当たり前になって、
そうと気付いた時には、喪われてしまっているのだ。
そんな悲しみはもう二度と味わいたくはなかった。
何も持っていなければ、喪うつらさを知らずにすむ。

だからこそ、自分は言い聞かせてやらなくてはならなかったのに。
これまでも、これからもずっと『ひとり』で生きていく。
ひとりの方が気楽だし、余計なことを考えなくていい。
自分の思ったとおりの日々を過ごすことが出来る。
誰にもかき乱されずにすむ。

ただ、龍麻が居てくれればそれでいい。
龍麻は分かっているから。
如月のこんな想いも、全てお見通しだから。
それは龍麻も持っている想いだから…。

そして、如月は知っていた。
龍麻がそれでも『京一』を選んだことを。
不安も迷いも何もかもを背負ってでも、京一が必要だったから。
そんな龍麻は如月の目には眩しすぎるほどに輝いていて。
龍麻の幸せを誰よりも願っているのは自分だというのに、
それでも真っ直ぐに見返すことが出来なかった。


…僕は君のようにはなれないよ、龍麻…。
如月は知らずして、村雨の服をぎゅっと握りしめていた。
そしてつぶやく。
「…僕は意気地なしだから、そんな勇気なんて持てない。
 怖い、怖くてたまらない。
 どうしてこんなに僕は弱いんだろう…。
 でも信じていたものに裏切られるのは、
 もう耐えられないから。…だから」

如月の独白は、ふいに途切れた。
村雨の小さな囁きによって。
「すまなかった」
如月は弾かれたように顔を上げて、村雨を見つめる。
すると村雨は、今まで如月が見たこともないような、
優しいまなざしでこちらを見つめていた。
その深い色の瞳に、如月はじっと魅入られる。
包み込まれ、溶けていくような、暖かいまなざしだった。

「悪かった、お前をそんなに傷つけていたとは知らなかった。
 今更謝っても取り返しは付かないかも知れねえが、
 それでも謝るしか他に思いつかない。
 せめてもうちょっと説明しておけば良かったか。
 それとも連絡を取れば良かったのか。
 …とにかく、すまなかったな」
真摯な態度で何度も繰り返される言葉に、如月は戸惑いを隠せない。

「…別に、僕は」
慌てて目を逸らし、言葉を探しても、うまく口から出てこなかった。
それに構わず、村雨の言葉は続いていく。
「翡翠、俺はもう二度とお前を一人にはしない。
 何度でも誓ってやる。
 お前が俺の言葉を信じられなくとも。
 二度と俺を信じないと言ってもな。
 お前が俺を疑うことをあきらめるまで、
 永遠に誓い続けてやるさ」

「むら…さ…」
如月は、しばらくの間、茫然と村雨の顔を見つめ返していたが、
やがてそっと瞳を伏せた。
「…信じたい。
 僕ももう一度信じてみたい、人を。
 君を信じて良いか…?祇孔」

如月の口から紡がれた自分の名を、村雨は夢のように受け入れた。
「ああ、良いぜ、翡翠。俺を永遠に信じてろ。
 お前は俺だけを見ていれば、それでいい」
傲然と言い放ち、不敵な笑みを浮かべる男に、
如月は思わず苦笑する。
「羨ましいな、君は。いつも呆れるほどに…、強い」

そう言ってみると、村雨は驚いたように目を見開いた。
「俺が?冗談じゃない。
 いつでも不安で、自信なんてこれっぽっちもないさ。
 …だから連絡できなかったんだよ。
 もしかしたらあんたは俺のことなんて忘れて
 楽しくやってるんじゃないか。
 俺の存在なんてその程度なんじゃないのか、と。
 いつも思わずにはいられなかった。
 ようやく自分に少し自信が付いて、
 あんたに会えるようになるまで半年も掛かっちまった。
 待たせて悪かったな、本当に」
「…君でもそんな風に思うことがあるのか…?」
「当たり前だろうが。俺だって人間なんだ。それに」
ふと口ごもる村雨に、如月は黙って視線で先を促す。

「…それに、本気の相手には、仕方がねえだろ」
ちょっと拗ねたようにつぶやく村雨の顔が、
妙に可愛らしく見えて、如月はぷっと吹き出した。
「おい、ここは笑う所じゃねえぞ」
「…ごめん。だって君がそんな顔、するなんて」
如月は慌てて言い訳をする。
しかし、それも笑いをかみ殺しながら、とあっては
説得力もなかった。

「ちっ」
ますますふてくされて鋭い舌打ちをする村雨は、
やはりどこか可愛らしい。
如月は微笑みながら、村雨の腕の中からするりと抜け出す。
村雨がそれに気付いて腕を伸ばした時には、
如月はかなり離れてしまっていた。
「…おい」
困ったように瞳を曇らせる村雨に、
如月は弾けるような笑みを見せ、そっとささやく。

「愛してる、祇孔」

はにかみながらそう言って、
慌ててどこかへ駆け去ってしまった如月の、
ほのかに残る香りだけを感じながら、村雨は茫然と立ち尽くす。
しばらくして我に返ると、あれは幻ではなかったか、という気になった。
「ち、ちょっと待て、翡翠。頼む、もう一回言ってくれ」
情けないほどにおろおろしながら、如月の姿を捜し求める。
すると、隣の部屋からくすくすという笑い声と、
いたずらっぽい囁きが聞こえてきた。
「またそのうちに言ってあげるよ。
 聞きたいのなら、それまで傍に居ることだね」

「…ああ、降参だ。分かったよ、翡翠。
 お前がもう言うな、聞きたくないってほど、
 毎日毎日誓ってやるからな。覚えとけ」
村雨は姿の見えない恋人に敗北宣言をすると、
それでも負け惜しみのようにつぶやいた。
「俺も愛してるぜ、翡翠」

その言葉に応えるかのように、如月が姿をあらわす。
もちろん村雨は問答無用で抱きしめて、
耳元で愛の言葉を何度も囁いてやるのだった。
如月が望む限り、永遠に…。


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