「ある時は別の顔」 その1


 



「…ちゃん、ひーちゃん。もう授業終わったぜ」

京一の言葉で、ぼんやりと龍麻が顔を上げる。
「んあ?いま何時間目だっけ?」
寝ぼけ眼でつぶやく龍麻を、京一はいとおしげに見つめると、
艶やかな黒髪をくしゃくしゃと撫でた。
「もう昼だよ。
 オレもウトウトしたけど、ひーちゃんは本格的に寝てたもんなぁ。
 昨夜、夜更かしでもしたのか?」
「うん、ちょっとゲームやってた…」
てへへ、と気まずそうに頭をかく龍麻に、京一は明るい笑みを見せる。

「ったく、仕方がねえな。
 オレの汚い文字でよけりゃ、ノート貸すぜ?」
「ホント?ありがと、京ちゃん♪」
全てにおいて、スローモーな龍麻の口から出ると、
『きょうちゃぁん』と聞こえるが、
そのちょっと甘えるような口調が、京一は殊の外、好きだった。
「イイって、そんなの。オレたちの仲だろ」
「えへへ。やっぱり京ちゃんだね〜」
お互いに微笑みあい、いつの間にか『二人の世界』を作ってしまう。

すると、そこへ容赦なく声をかけてくるものがいた。
葵と小蒔だ。
他のクラスメートから見れば、
『普通じゃない』くらいに仲の良い龍麻と京一の姿も、
いつも見慣れているこの二人にとっては日常茶飯事なのだから。

「ダメだよ、龍麻クン。
 京一のノートなんて借りても無駄になるだけだって。
 ボクか、葵のにしておきなよ」
「うーん、そうだねぇ。オレもちょっとそう思うけど。
 京ちゃんはどう思う?」
「…あのなあ。オレにそれを聞くか、お前は」
無邪気に尋ねてくる龍麻に、
京一は呆れ顔でつぶやくが、すぐに付け加えた。
「ま、そういうところが放っとけねえんだよな」

やはり、京一はあくまでも龍麻に甘い。
しかし龍麻はすでに全く違う方を向いていた。
「やっぱり葵ちゃんに借りようかなぁ」
「ええ、私ので良かったら」
「ちょっと、龍麻クン。ボクのは〜?」
「あ、ごめん。
 えっと、じゃあね、日本史は葵ちゃんで、
 現国は小蒔ちゃんにする」
いったい何時間寝ていたのやら。

と、そこへ低い声がかけられた。
「数学の時も寝ていなかったか、緋勇」
「あ、雄ちゃん。ううん、数学は起きてたよ。
 ノートもちゃんと取ってるもん。ほら」
醍醐の言葉に、龍麻は自慢げにノートを広げて見せる。
が、醍醐は困ったように微笑むばかりだ。
「この状態で『ノートを取っている』と言えるのだったら、
 京一のノートでも役に立つかも知れんな…」
「ええ〜?そんなことないよぉ」
首をかしげながら、龍麻は自分で書いたはずのノートに目を落とす。
そして、深々とうなずいた。

「うん。オレ、寝てたみたい」
確かにノートには黒板の文字を写した痕跡はあったが、
ミミズのような文字が並び、ほとんど判別不能だった。
半分眠ったままで、書いていたのだろう。
「俺ので良ければ貸すぞ」
醍醐はそう言いながら、手にした自分のノートで
龍麻の頭をぽんと叩いた。
「ありがとね。雄ちゃん」

弾んだ声で言うと、龍麻は、にへら…と微笑んだ。
普段はパッチリとした黒い瞳が、そうやって笑うと糸のように細くなり、
情けなく垂れ下がる。
そんな姿はいかにも愛嬌があり、
可愛くて、可愛くて、…可愛かった。
京一はもちろんのこと、
皆、のほほんとした龍麻が大好きだった。

見つめているだけで、言葉を交わすだけで、
こちらものんびりした気持ちになる。
穏やかになごませてくれる雰囲気を持っていた。
だからこそ、誰もが龍麻を助けてやりたいと思ったし、
ほんの些細なことでも力になってやりたいと思うのだ。
少なくとも、いま目の前に居る『龍麻』に関しては…。


やがて放課後。
「一緒に帰ろ、京ちゃん」
龍麻が可愛らしい微笑みで声をかけてきた。
その姿に、京一はいつも『仔犬』を思い出さずにはいられない。
自分になついていて、ちょこちょこと後をついてくる仔犬だ。
しかし、実際のところ、龍麻の身長は180センチあり、
身体つきも武道をやっているために、かなりがっしりとしている。
京一よりもガタイがいい位なのだが、
全体からかもし出す雰囲気が、そう見せるのだろう。

つい手を伸ばして、龍麻の髪をくしゃくしゃと撫でる。
これが京一のクセになってしまっていた。
やっぱり『犬』扱いなのかもしれないが、
それを龍麻が嫌がったことはない。
むしろ、撫でてやると、ものすごく嬉しそうな顔になる。
その顔が見たいあまりに、何度でも撫でてやりたくなってしまうのだ。
今日ももちろん。

「よし、ラーメン屋、行こうぜ」
「うん。オレ今日は何ラーメンにしようかなぁ」
「今のうちに考えとけよ。
 いつも悩むんだからな、ひーちゃんは」
えへへ、と二人で微笑みあっていると、やっぱり声がかけられる。
振り向いた先には、いつもの通りに、葵、小蒔、醍醐が立っていた。

「ずるいぞ、京一。ボクたちも連れて行ってよ」
「そりゃ、いいけどな。割り勘だぜ」
「当然だろう。俺たちも京一におごってもらおうとは思わん」
「うふふ、京一くんはまたお金がないの?」
「しょうがねえだろ。小遣い少ねえんだから」
目の前で和気あいあいと交わされる会話を、龍麻はのんびりと眺める。
というよりも、なかなか口を挟めなかっただけだが。

自分に向かって話しかけてもらえれば、
なんとか中に入っていけるものの、
こうして皆が勝手に話しているような時は、
テンポについてゆけないのだった。
そして、結局ただ微笑むばかりになってしまう龍麻に気づくのは、
いつも京一だ。

「早く行かねえと、店が混んじまうよ。
 なぁ、ひーちゃん」
「う、うん。そうだね、京ちゃん。
 オレ、今日はみそラーメンにするよ」
「おう。そうしろ、そうしろ」
お世辞にも噛み合っているとはいえない会話だったが、
二人の間では立派に成立しているのだから、これで良いのだろう。
「じゃあ、行きましょうか。龍麻くん」
葵の言葉で、一行はさっそくラーメン屋に向かうのだった…。


「京ちゃん、オレやっぱり、とんこつラーメンにしようかなぁ」
「何だよ、ひーちゃん。まだ迷ってんのか?
 ま、いつものことだけどな」
「だって、どれも美味しいんだもん」
とろけそうな笑みを浮かべる龍麻に、京一は優しいまなざしを向ける。
「じゃ、オレが決めてやるよ。
 今日はみそ。明日はしょうゆ。明後日はとんこつだ」
「うん、そうする。ありがとね、京ちゃん」

すかさずほのぼのムードをかもし出す二人に、
醍醐が呆れてつぶやいた。
「おいおい、緋勇。
 ラーメンのメニューまで京一に決めてもらってどうする。
 それではいつまでたっても自立できんぞ」
「え?そっかぁ。ダメなのかぁ。
 じゃあ、どうしようかな。
 ねえ、どうしたら良いと思う?雄ちゃん」
「そうだな。今日は最初に思った通り、
 味噌にするのが良いんじゃないのか?」

龍麻に、捨てられた仔犬のような目で見つめられ、
醍醐は思わずアドバイスをしてしまう。
これでは京一と大差なかった。
「じゃあ、やっぱりみそにしようっと。
 ありがと、雄ちゃん」
打って変わって喜ぶ龍麻を見つめ、がっくりと肩を落とす醍醐だ。
そんな醍醐の様子に、皆は笑いを誘われる。

ひとしきり、明るい笑顔を見せていた一行だったが、
ふと、京一が真剣なまなざしになった。
「なあ、いま何か聞こえなかったか!?」
「そうか?気のせいだろう」
醍醐に『気のせい』とあっさり片付けられそうになり、
京一はふてくされた。
「違う。絶対に聞こえたんだよ。
 アレはきっと美人のオネーチャンがオレに助けを求める悲鳴だ!
 間違いないぜ!」

京一が力説すればするほど、他の皆は半信半疑になっていく。
「そうかなぁ。ボクは何も聞こえなかったけど。
 それにどうして声だけで美人のオネーチャンって分かるのさ」
「それはもちろん、オレの男としての野生のカンってやつさ!」
「当てになりそうにないなぁ」
「何だと、小蒔」
すかさず小蒔と京一が言い合いを始めるが、
もちろんそこに龍麻が入り込む余地はない。
二人の小気味よく放たれる言葉を追いかけるだけで精一杯だった。

しかし、そうやって黙っているのが幸いしたのだろう。
龍麻の耳にも、確かに女性の悲鳴らしきものが届く。
「あ、京ちゃんがアタリみたい」
「だろ?やっぱりな。さすがはひーちゃんだぜ。
 で?どっちから聞こえた!?」
「うーんとね。あっちの方だったかなぁ」
龍麻はかなり心もとない様子で、ひと気の少ない裏路地を指差す。
「よし、行くぜ、ひーちゃん。
 この蓬莱寺京一様が助けに行くからなー!!」
「え?あ、ちょっと待ってよぉ、京ちゃぁん」
すかさず駆け出す京一を、
慌てて龍麻も、他の皆も追いかけるのだった…。


そして、一同が辿り着いた先には、
やはりガラの悪い奴等に囲まれる女性の姿があった。
珍しいことに、京一の逆転サヨナラ満塁ホームランだ。
「蓬莱寺京一、剣参!」
いきなり木刀を振り回し、男たちの中に突き進んで行く京一に、
皆は呆れるばかりだが。
助けを求めていた女性も、
京一の姿を見た瞬間、怯えて後ずさりを始める。
また新たな仲間がやって来た、とでも思ったのだろうか。

そして、京一がこれからカッコ良く決めよう、としたところで、
脱兎のごとく逃げ去ってしまった。
京一は、女性が男たちよりも自分を怖がっていたように思えて、
がっくりと落ち込む。
しかも助ける相手が居なくなってしまったら、
やる気も失せるというものだ。

「あーあ、大丈夫?京ちゃん」
「ああ、ひーちゃん。
 オレはもうダメだ…。立ち直れねえよ」
ワザとらしいほどのため息をつく京一に、龍麻はのほほんと答える。
「じゃあさ、ラーメン食べたら元気出るんじゃない?」
「オレがそんなもんに釣られるとでも」
京一はまだふてくされている。
が、龍麻は笑みをたたえたままだ。

「京ちゃんの好きなラーメンおごってあげるから〜」
「よっしゃ!約束したぜ。オレはみそチャーシュー大盛りなッ!」
あっという間に浮上する、単純な京一なのだった。
「ええ〜、一番高いヤツ〜?」
「男に二言はないだろ、ひーちゃん♪」
「もー。仕方がないなぁ…」
龍麻はぶつぶつとつぶやきながら、財布の中身をチェックし始める。
ちゃんとお金があるかどうか、気になったのだろう。

そこをすかさず京一が覗き込んだ。
「お?餃子もつけられそうだな」
「もうダメ!残りは本を買うんだからー」
「じゃあ、明日はオレがおごってやっから」
「そんなの信用できないもん」
「あ、何だよ、ひーちゃん。オレを疑うのか?」
「だってぇ〜〜」

あくまでも、のんびりと、のほほんとした会話が続けられているが、
それを大人しく見ている気分じゃないのは、邪魔された男たちの方だ。
すでに龍麻も京一も気持ちは『ラーメン』に向かっているので、
全く眼中になかったが。
「おい、てめえら。いい加減にしろよ」
「コケにしやがって。どうやら痛い目に合いたいらしいな」
「思い知らせてやる」

お決まりの台詞を吐きながら、
男たちがいきなり二人の周りを取り囲み始めた。
そのただならぬ様子に、慌てて醍醐が駆け寄ろうとするが、
京一に目で制止される。
葵と小蒔は任せる、というところだろう。

そして、京一は木刀をしっかりと構えなおすと、
厳しい瞳で龍麻に言った。
「危ねえから、ひーちゃんは下がってろ」
その凛々しく男らしい姿に、思わずうっとりとしてしまう龍麻だが、
事態はそれどころではない。

『何か』が起きて、京一に迷惑をかけないように、
龍麻も醍醐のいる場所まで大人しく引き下がった。
「お前ら、オレを相手にしたことを後悔するぜ」
不敵に笑いながら、鳶色の瞳を輝かせ、
京一はすかさず斬り込んで行く。

すでに『人ならざるもの』たちとの歴戦を積んでいる京一に、
当然ながら町のチンピラごときが敵うはずもない。
あっさりと全員を倒してしまった。
「へっへっへ、旧校舎での戦いが役に立ったな」

満足げにチンピラを見下ろす京一の目には、
見ている者をどこか不安にさせる光が宿っている。
龍麻だけではなく、醍醐、葵、小蒔もぞくりと背を粟立たせた。
戦いに身を投じている京一はやはり何かが違っている。
存分に自分の力を振るうことだけを望むような禍々しさが、
わずかながら確かに存在していた。

しかし、こちらを振り向いた時には、すでにいつもの京一だ。
「ああ、身体を動かしたらハラへっちまったよ、ひーちゃん」

そういって明るく笑う京一に、先程の陰りは見受けられない。
幻か、目の錯覚か。とにかく何でも構わなかった。
今、目の前にいる京一が、彼らの知っている京一なのだから。
「じゃあ、早くラーメン屋さんに行こうよ」
そうして無邪気な笑顔で答える龍麻こそが、
彼らの『龍麻』であるように。

龍麻の微笑みで、また春の陽だまりのような雰囲気が戻ってくる。
とりあえずみんな無事で良かったと、
一同がラーメン屋に向かおうとした、その刹那。

一陣の閃光が彼らの間を引き裂いた。
ハッとして龍麻が辺りを見回すと、
京一が腕を押さえてしゃがみ込んでいる。
その顔は苦痛に歪み、指先には腕から流れる血が滴った。

「京ちゃんッ!」
龍麻が悲痛な叫びを上げて、そばに駆け寄る。
そしてそのまま傷を覗き込むように、ぺったりとしゃがみ込んだ。
しかし京一は無理やりに微笑みを形作っていく。
「大丈夫だ、何てことねえ。かすり傷だよ」
「だって、京ちゃん。血が出てるよ」
京一の血を見てしまったことで、龍麻に恐慌が訪れた。

「大丈夫だって言ってるだろ。落ち着けよ、ひーちゃん」
京一の言葉も、すでに龍麻の耳には届かない。
「嫌だよ。京ちゃんを傷つけたヤツは許さない。
 絶対に許しておけないよ…」
龍麻の声が狂気を孕む。
京一は思わず息を呑むが、すぐに立ち直った。

「待て!オレの言葉を聞け、ひーちゃん。
 オレは大丈夫だって言ってるだろ!」
「…よくも京一を…」
「ひーちゃん、ひーちゃ、…龍麻!」
京一の悲痛な叫びと、龍麻が傲然と立ち上がるのが、ほぼ同時だった。
そして、京一は知る。
龍麻が『龍麻』ではなくなってしまったことを。

「くぉら!出てきやがれッ!
 京一を傷つけやがった野郎は、どこのどいつだ!!!」
「ああ、…出ちまった…」
仲間たちが絶望的な想いで見つめるまなざしの先には、
今までの龍麻とは、まるで別人の表情をした男が、
殺気を全身にまといながら、辺りかまわず怒鳴りつけているのであった…。



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