「羽根の如く」  ―青伯鈴さまへ


 


(3)

──しかし、如月骨董品店は、
どうやらとても暇な店のようだった。
先刻から、二人でぼうっと店番をしているが、
一向に客の来る気配もない。

確かに店構えからしても、
一見さんが通りすがりに入れるようなものではないから、
仕方がないのかもしれないけれど。
もしかしたら、この店の客は僕たちだけなのかも…。
ふとそんな疑惑を抱き、
僕は静かに帳簿をめくっている如月さんに声をかけた。
「お客さん、来ませんね…」

すると彼はつと顔を上げて、美しい黒い瞳を僕に注ぐ。
そして、苦笑しながら囁くように言った。
「いつもこんなものだよ。
 元々それほど営業熱心な店ではないからね。
 僕が暇を見つけては店を開けているような状態だから、
 曜日も時間もまちまちだ。
 お客さんだって来るに来られないよ」

「ええ?それじゃ、生活できないじゃないですか」
驚きのあまりに大きな声になってしまった僕に、
如月さんはやはり何が可笑しいのか、
楽しげな笑みを向けてくる。
それだけで僕は幸せな気持ちになってしまうのだけれど。

「例えば…、これを見てごらん」
不意に如月さんは、傍らにあった小さな茶碗を手に取った。
左手とはいえ、落ち着いた手つきで、全く不安はない。
「その茶碗がどうか?」
僕が首をかしげると、彼はいたずらっぽく微笑んだ。

「この茶碗ひとつで、
 僕の一ヶ月の生活費くらいにはなるんだよ。
 それほどぜいたくな暮らしもしていないからね。
 つまりは茶碗をひとつふたつ売れば、
 それで僕にとっては十分なのさ。
 そしてたいていは古くからの馴染みのお客さんたちが、
 月にひとつくらいは買ってくれる。
 まぁ、ほとんどは僕の身の上を
 心配しているのだろうけれど。
 ありがたいことだね」
如月さんはそう言いながら、
手にした茶碗をくるくると動かす。

「だ、駄目ですよっ、そんな茶碗を無造作に扱ったら」
「大げさだな。
 こんなの骨董の世界じゃ日用品みたいなものだよ。
 それに、そんなことを言ったら、
 君がさっき磨いていた皿の方がずっと高いんだからね」
「ええ…ッ?!」

僕は心底びっくりした。
だってスーパーに売っているようなものじゃないから、
いちいち値札なんて付いてやしないし、
僕に扱わせるなら、安物かと思ったのに。
信頼してくれたということなのかな。
単にからかわれているだけかも知れないけれど。

「本当ですか?」
「もちろん本当だよ。
 じゃあ、今度から値段を教えてから
 磨いてもらうことにしようか?」
くすくすと笑う如月さんに、僕はちょっとふてくされた。
もちろん本気で怒った訳じゃなくて、拗ねてみたという所。

「やめてくださいっ。
 もう…、意外と意地悪なんですね、如月さん」
「君がからかい甲斐があるんだよ。
 素直で信じやすいから。…良いね」


どきりとした。
最後の『…良いね』はどういう意味なんだろう。
今まで笑っていたまなざしも、
どこか挑むようにこちらを見つめている。
単純に『羨ましい』という感じではなかった。
どちらかというと、憎しみすら含まれるような。
彼には似つかわしくない、
仄暗い感情が見えたような気がした。

僕はそれを知りたかった。
そして同時に知るのが怖かった。
如月さんの知らない一面を見せられたら、
僕自身がどうなってしまうのか、分からなかったから。
嫌うのか、怖れるのか、憎むのか。
…あるいは愛するのか。

それでも如月さんの抱いている『それ』を
知ってしまったが最後、引き返すことが出来なくなるだろう、
という予感はあった。
ただ、僕はこの時はまだ油断していたんだろう。
如月さんが、そんなに簡単に僕に
『それ』を見せてくれる筈はない、
と思っていたからなのだけれど…。


彼の言葉は、澄んだ水面に一滴の毒をたらしたかのように、
ゆっくりと、そして確実に僕に響いた。
「僕が君のようだったら、
 おそらく今ここには居ないだろうね」
「…如月さん…?」

そう言うと、彼は手にしていた茶碗を静かに置く。
先刻まで、それを慣れた手つきで
玩んでいたとは思えない顔で。
氷のよう、という比喩しか
思い浮かばないほどの表情だった。
そして容赦なく続けられていく。

「僕は幼い頃からずっと戦いの中で育ってきた。
 玄武の力を受け継いだその日から、
 それを妬み、取って代わろうとした者たちの手によって、
 執拗に狙われていた。
 飛水一族の中でも、分家の出である僕が
 玄武となってしまったことが、
 よほど気に入らなかったのだろう。
 飛水本家から嫌というほど刺客が差し向けられたよ。
 本来は血族であるはずの彼らからね」
「え…?」

僕は如月さんの言葉を信じられない想いで聞いていた。
僕の知らない世界で、
想像も出来ないような生き方をしてきた人。
彼にしてみれば、僕なんて本当に子供で、
甘ったれに見えるんだろう。
それは無理もないけれど。

それでもこんな目で見つめられるほどではないと思う。
こんな…、殺気すら帯びた瞳で…。


僕は初めてこの人を怖いと思った。
この人に惹かれてしまう自分が怖くなったことは
何度もあるけれど、それは如月さん自身が怖いんじゃない。
先の見えないことが不安なだけだ。
でも、今は違う。

目の前の如月さんは、
それ以外の言葉が思いつかないくらいに、
…怖かった。
そして、彼は僕への殺意も隠すことなく、
言葉を続けていく。

「それに…、僕には誰も味方は居なかった。
 母は僕が幼い時に死に、そのすぐ後に父は失踪したから。
 僕は厳しい祖父の手によって育てられ、
 来る日も来る日も玄武としての教えを叩き込まれた。
 家の中でも一時たりとも心が休まることはなかったよ。
 それが今まで僕の命を繋いできたことを思えば、
 感謝はしているけれど。
 幸せだと思ったことなど一度もない」
「…そんな」

家族ってそんなものじゃないと思う。
少なくとも、僕の知っている家族とは違う。

僕の父はごく普通のサラリーマンで、
休日には家でゴロゴロしていて母に叱られたり、
趣味と言えば釣りとゴルフという、平凡な人だ。
母も小柄だけれど、いつも元気で明るい笑顔がたえなくて、
パートタイマーでスーパーのレジを打ったりする、
やっぱりごく普通の主婦で。
それから兄弟と言えば、3歳年下の妹がいる。
まだ中学一年であどけなくて、
お兄ちゃんお兄ちゃんと慕ってくれている、可愛い子だ。

夏休みには母の田舎に帰って、
祖父に無理やり将棋の相手をさせられたり、
祖母に手料理を山ほど食べさせられたり。
僕が知っている『家族』はこんな人たちだ。

取り立てて特別なところは何もない、
日本中に星の数ほどありそうな、ごく普通の家庭。
面と向かって「大好き」とは言えなくても、
僕にとっては大切で、掛け替えのない人々だと思う。

そしてきっと、彼らも僕のことを大切に思ってくれている、
と信じている。
僕は、無条件で彼らに愛されていると信じられる。
それが家族なんじゃないのかな。
世界中探したって、
他に代わりなんて存在しない、何よりも大切な…。


僕はそこまで考えて、ハッとして如月さんを見つめる。
すると、彼は口の端を小さく歪めて、
ほんの少し微笑みの形を作った。
もちろんそれが微笑みに見える筈もなかったけれど。

全身にまとった殺気は未だに消えていなかったし、
ますます強くなっているようでもあった。
冷ややかにこちらを見つめるまなざしが、
僕の考えていることなどお見通しだと言っていた。

如月さんの家族の話を聞いて、
僕は自分の家族のことを思い出して。
そして…安堵してしまった。
僕の家族は普通で良かった、と思ってしまった。
と同時に、如月さんに同情してしまった。

なんて傲慢なんだろう、僕は。
僕にはそんな資格なんてないんだから。
如月さんの想いも、哀しみも苦しみも、
僕には理解できないし、実感することも出来ない。
想像することしか出来ないのに、
その想像すら追いつかないくらい、
如月さんと僕の距離は遠い。

それを如月さんも分かっているから、ああして笑うんだ。
氷を身にまとったような冷たい微笑みで…。
僕は何も言えなくなった。
如月さんを見つめることすらつらくて、
うつむくことしか出来なくなった。


そんな僕に、彼は容赦なく追い討ちをかける。
「それからは、君も知っての通りだ。
 僕の前に『鬼道衆』という敵が現れ、
 それを倒したかと思えば、
 またその陰に大きな存在が隠れていた。
 少しも安心することなんて出来やしない。
 それどころか、ますます気が抜けなくなってしまったよ」

彼の周りには敵ばかりだ。
家族にすら心を許すことが出来ず、
親戚に命を狙われている上に、また新たな敵が現れる。
僕もこの一連の事件に関わって、
『敵』のことは知っているけれど、
龍麻さんや京一先輩、そして如月さんのように、
四六時中も狙われているという訳ではない。

むしろ、さやかちゃんが人目につく存在だということもあってか、
僕たちには遠慮をしているような所もある。
面倒なことになりそうだから、ということなんだろう。
それはさやかちゃんにとっても、僕にとってもありがたいし、
このことで僕が如月さんに引け目を感じる必要なんて、
これっぽっちも有りはしないのだろうけれど。

こうして如月さんの話を聞いていると、
僕ばかりが恵まれているような気になってしまう。
ひどく申し訳ない気持ちになってしまう。
こんな想いは如月さんにとっては、
迷惑でしかない、と分かっていても。
僕はやっぱり彼の前でどんな顔をすれば良いのか分からず、
うなだれたままだ。

すると、ふいに彼がくすり、と小さな笑い声を立てる。
今までの冷たいものではなく、
とてもやわらかく優しい声音。

僕はハッとして顔を上げた。
しかし彼の目は僕を見ていない。
深い色の瞳はどこか遠くを見つめている。
それでも彼が何を見ているのか、僕にはすぐに分かった。
この人に、こんな顔をさせられるのは、たった一人だ。

「…ただ、それでも、龍麻に出会えたことだけが、
 唯一の希望だったかもしれない。
 彼だけは僕を必要としてくれる。
 僕は彼と出会う為にだけ生きてきた、
 と言っても過言ではないのだから」

…やっぱり、そうだった。
龍麻さんの名前を出す時には、如月さんはひどく優しくなる。
『龍麻』と呼ぶ声は、とても慎重で繊細で、
大切な宝物を扱うみたいに。
先刻の骨董品を持つ手つきよりも、ずっとずっと丁重に。

僕にとって、京一先輩もさやかちゃんも大切で、
特別な人だけれど、如月さんのような、
ここまでの深い想いじゃない。
それも当然かもしれないけれど。
きっと今もなお、如月さんは龍麻さんの為にだけ
生きているんだろうし、龍麻さんは如月さんに
それだけの想いを捧げられるに相応しい人だから。

僕が二人の間に割って入れるとは思えない。
如月さんにとっての龍麻さんの
代わりになれるとも思えない。
僕はそんなに自信過剰じゃない。
それでも…僕があなたの傍に居たいと言ったら、
やっぱり迷惑ですか、如月さん。

僕はその願いを言葉にはしなかったけれど、
彼には通じていたらしい。
つと視線を僕に戻して、また厳しいまなざしを向けてくる。

「…だからね、霧島。
 僕には君は眩しすぎるんだよ。
 真っ直ぐでほんの欠片ほどの陰りも見受けられない
 純粋さが…疎ましい。うんざりだよ。
 君のような人がこの世に居ると思うだけで、
 自分がどれほど醜く思えるか。
 誰にも頼らない、誰にも心を開かない。
 誰も、そう。誰も愛さない。
 僕はそうやって生きてきたのだし、
 これからもそうするつもりだ。
 僕にとっての『特別』は龍麻ひとりで良い。
 他には誰も要らないんだよ。もちろん、君も」

きっぱりと言い切られた。
今の僕には、それは死刑の宣告にも等しい。

でも…。僕は気がついたんだ。
如月さんはおそらく僕を遠ざけようとして、
こんな話をしたのだろうけれど。
きっと龍麻さんでは出来ないこと。

僕にしか如月さんにしてあげられないことがある。
そのことに、気がついたんだ…。


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