「羽根の如く」  ―青伯鈴さまへ


 


(2)

タクシーで、という僕に、そんなぜいたくは出来ない、
と律儀に電車で帰ってきた如月さんは、
左手で器用に家の鍵を開けた。
そう言えば、自動改札も左手でするっと通っていたっけ。
もしかしたら、本当に僕の助けなんて、
要らなかったのかもしれない。
でも、もうここまで来たら、後には退けないから、
出来るだけのことはするつもりだった。

「散らかっているけれどね」
「おじゃまします」
初めて上がる如月さんの家に、
僕はドキドキしながら足を踏み入れる。

如月さんのことだから、絶対に散らかっている筈はない、
と思っていたけれど、やっぱりとてもきれいな部屋だった。
歴史のありそうなたたずまいでも、古びた感じは受けない。
隅々まで掃除が行き届いているからだろうか。
落ち着いた部屋の中にそっと置かれた調度品の趣きが
良いからかもしれなかった。

勧められるがままに、座布団に座り、
ちゃぶ台で向かい合わせになった僕に、
如月さんは真剣なまなざしで言う。
「僕は、ずっと一人で生きてきた。
 それが当たり前で、それ以外の生活なんて想像も出来ない。
 僕は僕の場所に、他人が入り込むことを好まない。
 申し訳ないけれど。だから出来る限り、
 君の手は借りないつもりだ。
 君もそのつもりでいて欲しい。
 どうしても用事があるときは僕の方から呼ぶから」

揺るぎない黒い瞳が語っていた。
 『君は邪魔だ』『必要ない』と。
その瞳を受け止めて、僕もにっこりと微笑みながら、
負けずに応える。
「出来ません」
「霧島くん…ッ」

絶句する如月さんに構わず、僕は言葉を続けた。
「僕は如月さんのことをあまり良く知りません。
 それでも分かっています。
 如月さんはとても頑固で意地っ張りで不器用で、
 僕に弱みなんて決して見せないってことを。
 だから、如月さんが呼ぶまでなんて、
 待ってあげられませんから、僕は。
 貴方が、自分で何でもやろうとして無理をする前に、
 僕がちゃんとやってあげますから」


「…君は…、そんな人だったのか」
思わずこぼれた如月さんの台詞に、
僕の微笑みは深まる。
きっと如月さんは僕のことを、
素直で可愛い後輩だと思っていたのだろう。
でも、僕はそんなんじゃない。
少なくとも、如月さんの腕に関しては、
言うことを聞いてあげられない。

だって、僕は龍麻さんに言われたのだから。
如月さんの腕は下手に無理をして使うと、
今度は本当に動かなくなる可能性もあるのだ、と。
そして如月さんのことだから、
それでも腕を使ってしまうに違いない。
どうか、助けてやってくれ、と頼まれたのだから。

龍麻さんからの信頼のためにも、如月さんのためにも、
僕が出来ることはどんなことでもやってあげよう、
と心に決めたのだ。
しかし、如月さんはそんな僕の決意をよそに、
困ったように立ち上がると、隣の部屋への襖を開ける。

「どこへ行くんですか?」
それには如月さんはぶっきらぼうに答えただけだ。
「着替えだよ」
「お手伝いします」
「必要ない」

そんなやり取りの後、
目の前でぴしゃりと襖を閉められてしまう。
やっぱり如月さんは手ごわい。
普通ならば、ここで引き下がってしまうところだけれど、
僕は違うんだから。


「それじゃ、僕も着替えようかな」
わざとらしくつぶやきながら、大きなボストンバッグを片手に、
如月さんのいる部屋に入っていく。
案の定、如月さんは服のボタンを外すのに、
悪戦苦闘をしていた。

「如月さん、家ではどんな格好なんですか?」
僕は如月さんの方を見ないふりをしながら、
バッグから着替えを取り出す。
そんな僕の背中に、如月さんの呆れ声がかけられた。
「君、本当に泊まっていくつもりなんだね…」
僕の前にある、大量の荷物を見つめ、
つい言ってしまったのだろう。

そう、僕はここに来る前に、自分の家に寄ってもらい、
着替えなどの泊まり込むための荷物を持って来ていたのだ。
フェンシング部の合宿もあれば、
さやかちゃんの地方ロケに付き合って泊まることもある
僕にとっては、荷造りなんてお手の物だった。

もちろんさやかちゃんと泊まるといっても、
スタッフも一緒なのだし、何がある訳でもないけれど。
もしかしたら、今回は何かが起こるかもしれない、
なんて下心たっぷりの予感を覚えてしまう僕だ。
如月さんと二人きり、ひとつ屋根の下で眠る、
と考えるだけでもワクワクしてしまう。

はやる気持ちを抑えながら、
僕は手早くスウェットに着替えた。
いつでも家ではこんな格好だ。
如月さんだって、いくら忍者とはいえ、
僕と同じ高校生なのだし、こんなものだろうな、
と振り向いた僕の目に飛び込んできたのは…。

着物の帯を、左手だけでは巻くことが出来ずに、
苦労している如月さんの姿だった。
紺色の渋い色合いが、如月さんによく似合っている。
そして、それ以上に、
着物の下からのぞく白い肌がなまめかしかった。

うわ、目のやり場に困る…ッ。
僕は反射的に目を覆ってしまいそうになったけれど、
ここは如月さんの手助けをしなくては。
「僕がやりますよ」
「…いや、良いよ。大丈夫だから…ッ」
心なしか頬を染めて慌てる如月さんは、
こう言っては何だけど、ものすごく可愛らしく見えた。

…こんな顔もするんだなぁ。
と、うっとり見惚れながらも、
僕は如月さんの着物の前を合わせて、
手際よく帯を巻いていく。
後ろにしゃがみながら、帯の形を整えていると、
如月さんの細い腰のラインが目にまぶしい。
僕はしばし至福の時を噛みしめた。

「さあ、出来ましたよ」
「あ、ああ…、すまない。
君が着付けも出来るなんて意外だね」
「そんな、着付けなんてほどのものじゃないですよ。
 女の人と違って、男物は簡単だし」
そう言いながらも、如月さんに誉められて、
僕は嬉しさを隠し切れない。

「それでも大したものだな…」
「以前にね、さやかちゃんが時代劇に出ていたことがあって。
 僕もそれについていったんですが、
 現場ではうろうろしていても邪魔になるだけだし、
 少しでも手伝えることはないかと、
 見よう見まねで覚えたんです。
 でも、こんな時に役に立つとは思いませんでしたけど」
「なるほど、芸は身を助くという奴だね」
如月さんは妙に感心した声で言った。
僕はそれに微笑み返す。
「それじゃ、一休みしましょうか…」


そしてまた、僕たちは二人でちゃぶ台に差し向かいになる。
僕が淹れたお茶を、如月さんは美味しそうに飲んでくれていた。
「如月さんは、昼間はどんな風に過ごしているんですか?」
「そうだね。たいていは店に出ていることが多いな。
 あるいは身体を鍛える為の鍛錬をしたり、
 お得意さん周りをしたり。
 旧校舎に潜ることも、たまにね。
 他には日常生活のこまごましたことだよ。
 掃除やら、洗濯やら、買い物やら。
 蔵の整理をして一日が終わってしまうこともある」

甘いお茶菓子のおかげか、
ぽつぽつと自分のことを語る如月さんの表情は優しい。
僕は何となく見た目から、
無口な人なんじゃないかと思っていたけれど、
意外にも饒舌らしかった。

「それじゃ、趣味の時間はないんですか?
 自分の好きなことをしたり、遊んだり」
素朴な疑問を投げかけると、彼は伏し目がちにうつむく。
白い頬に長いまつげが強調されて、
ますます端正に見えた。

「ああ…、趣味といえるようなものは、特にないな。
 でも骨董品を眺めているのは好きだよ。
 どの品物を店に出そうか、と考えるのも楽しいしね。
 強いて言うならば、骨董が趣味かもしれないな。
 仕事でもあるけれど」
少し寂しげに微笑む如月さんに、
僕は素直に思ったことを言う。
「好きなことを仕事に出来るなんて、幸せですよね」

すると、如月さんは驚きに目を見開いて、
弾かれたように微笑んだ。
「ああ、そうだね。全くその通りだよ。
 僕は幸せ者らしい」
何だか分からないけれど、
僕の言葉は如月さんを喜ばせたみたいだった。

「如月さんが嬉しそうだと、僕も嬉しいです」
それは僕の心の底からの言葉だったけれど、
その瞬間、如月さんの秀麗な顔が曇る。
「…君はいつでも真っ直ぐなんだな」

どちらかというと、その言葉は僕にではなく、
彼自身への独り言のようだった。
でも僕は、如月さんの言葉にちゃんと応えたい。
「僕は、こんな風にしか出来ませんから」

以前に、京一先輩に手合わせをしてもらった時にも
言われたことがある。
お前は剣が素直すぎるから、先が読めちまうんだよな、と。
それはお前の最大の長所でもあり、
欠点でもあるのだ、と指摘されたことがあった。

それでも僕にはこれしかない。
いつでも真っ直ぐに壁にぶつかって、全力で体当たり。
要領が悪い、もっと器用に立ち回れ、
と言われることもあるけれど、
そんなに簡単には自分を変えることは出来ないし、
これが僕だから。

「これが、僕ですから」

きっぱりと言い切った僕に、如月さんはぽつりとつぶやく。
「強いね、君は。
 そんなところ…、京一くんと似ているな、やっぱり」
眩しそうに目を細め、静かに微笑む如月さんは、
何だかとても…、とても頼りなげだった。

強いように見えて、脆く壊れやすい所がある。
まるで、如月さん自身が骨董品のように。
美しくて、貴重だけれど、
扱いを間違えると壊れてしまうんだ。

…僕は唐突に、この人を護りたい、と思った。
これまでも助けになりたい、
力になりたいという気持ちはあったけれど、
それは責任感や単純にこの人への興味がそうさせたことで。
如月さんは、僕なんかに護られるほど弱くはない、
と思っていたから。
本当に如月さんが僕を必要とすることなんて、
有り得ないと思っていたから。
でも、どうやらそうでもないらしい。
こんな僕だからこそ、出来ることがあるのかもしれない、
と気がついた。

この気持ちはいったい何だろう…?
さやかちゃんを護りたい、と思う気持ちとは違う。
さやかちゃんにとって僕は、言うなれば、花の番人。
美しく可憐に咲き誇るバラの花を、
誰かに摘まれたり、傷つけられたりしないように、
見守るのが仕事。
だからもちろん僕自身が
その花を摘もうなんて思いも寄らないし、
花が誰かに摘まれることを望んだならば、
喜んで捧げるつもりではあるけれど。

如月さんへの想いは、それとはずいぶん違っていて。
如月さんを花に例えるならば、
僕は決して他の誰の目にも触れさせたくない。
ガラスケースに大切にしまって、誰にも傷つけさせない。
でも、いつか花は枯れてしまうのならば、
それならいっそ、僕自身の手で摘み取ってしまいたい、
と…、そう思う。

ねえ、如月さん。
そんな瞳で他の人を見ないで下さいね。
僕以外の人に、そんな顔を見せないで下さいね。
僕だけの…、あなたになってくれませんか…?


不意に黙りこくってしまった僕に、戸惑ったのだろう。
如月さんがそっと声をかけてくる。
「霧島くん…?」
静かながらよく通るその声に、僕は我に返った。
「如月さん、お願いがあります」
「何だい?」
「僕のことは『霧島』と呼び捨てにするか、
 あるいは『諸羽』と呼んでいただきたいんです」

ダメで元々のつもりで、そう言ってみると、
如月さんは小さくつぶやく。
「もろは…、か」
まさか名前を呼んでくれるなんて!?
と胸を躍らせた僕をあざ笑うかのように、
如月さんの言葉は続いた。
「ずいぶんと物騒な名前だな」

いたずらっぽく笑う如月さんの表情で、
僕はからかわれているのだと分かった。
「その『諸刃』じゃありません。
 僕の名は全ての人々を包み込む羽のように優しくあれ、
 との願いが込められた『諸羽』なんですから」

「もちろん、分かっているよ。
 でも、そういう一面も確かにある、とは思うけれどね。
 君はただ優しいだけではなく、とても強い人だ。
 そして、その強さこそが、
 己をも傷つけてしまうのではないか、
 と心配だね、僕は」

まさに『諸刃』の剣のごとくに。
なんだかすっかり見通されてでもいるような、
深い色の瞳に、僕は目が離せなくなってしまう。
それでも如月さんの言葉に、僕は別のことを思った。
「それじゃ、如月さんはいつでも峰打ちですね」

「ん…?」
首をかしげる彼に、僕は思ったままを説明する。
「貴方の剣は、いつでも刃が貴方自身に向いていて、
 結局傷つくのは貴方だけ。
 自分に厳しすぎますよ、如月さん」
…そして、例えようもなく優しすぎます、貴方は。
おそらく僕よりもずっと、
不器用な優しさを持った人なんですね。

僕にしては珍しいことに、そう続く言葉を飲み込んだ。
聞いていた如月さんの表情が、
少しずつ変わって行ったから。
いかにも心当たりがある、という顔をしながらも、
平静を装っているのが、痛々しかった。

明らかに、彼は僕の言葉で傷ついていた。
僕の剣はいつでも真っ直ぐに、相手を捕らえるのだから。
しかし、あの如月さんが素直に僕に弱みを見せる筈もない。
決然と立ち上がると、そっと微笑んで言ってのけた。
「それでも…、これが、僕だからね」

先刻、僕が言ったのとほとんど同じ台詞。
そう言われてしまっては、
僕も何も返すことが出来なくなるけれど。

でもね、如月さん。
僕はそんな『貴方』を僕の手で変えられたら、と思うんです。
それはひどくおこがましいことかも知れない。
僕なんかの手に負えることじゃないかもしれない。
そんなことは承知の上で、僕は貴方に挑みますから。
貴方が、何もかもをただ一人で背負って、苦しまないように。

その想いを込めて、僕も如月さんに微笑んで言う。
「それじゃ、僕が教えてあげます、あなたに。
 人に甘える、ということをね」
弱音を吐いたり、甘えたり、ワガママを言ったり。
そんな如月さんも見せて欲しいから。
すると如月さんは、困ったような、戸惑ったような顔になる。
そして、小さくつぶやいた。
「…遠慮しておくよ」

居たたまれずに背を向けた、如月さんの白い頬が、
かすかに紅に染まっていたように見えたのは、
僕の目の錯覚だったろうか。
まだまだ先は長そうだ、とそっと吐息をついた僕の耳に、
如月さんの声がかけられた。
「僕はこれから店に出るけれど、君はどうする?霧島」

さすがに『諸羽』とは呼んでくれなかったけれど、
まずは一歩前進といったところかな。
胸を揺さぶられそうな浮遊感を覚えながら、
僕はもちろんこう答えた。
「…お手伝いします」


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