「羽根の如く」  ―青伯鈴さまへ


 


(1)

──この日、僕は大失態をやらかした。
それでも、後になって思えば、
これこそが運命のいたずらだったのかもしれないけれど──



「さやかちゃん、危ないッ」
さやかちゃんに向かってナイフを振りかざして
襲いかかってくる敵の前に、僕は反射的に飛び出した。
そしてそのまま構えていた剣でナイフを鋭く弾くと、
後ろを振り向いて、さやかちゃんに微笑みかける。

「大丈夫ですか?さやかちゃん」
「ええ、ありがとう、霧島くん」
さやかちゃんが天使のような微笑みを返してくるのと、
それはほとんど同時だった。

「翡翠ッ」
切羽詰った龍麻さんの声に、
僕は只ならぬことが起きたのを知る。
どんな時でも冷静なあの人が、
これほどに悲痛な声を上げたのだから。

恐る恐る僕は、左隣で戦っていた如月さんに目を移し、
その瞬間に全てを悟った。
苦しげに膝をついてうずくまる彼の右腕から、
服の上でも分かるほどの血が流れている。
その腕に深々と突き立っていたのは、
まぎれもなく僕が先刻弾き飛ばした敵のナイフだった。

「如月さん…ッ!」
慌てて駆け寄ろうとする僕に、
彼は厳しいまなざしを向ける。
「このくらい、どうということはない。
 君にはやるべきことがあるだろう」

涼やかで優しげな面差しに惑わされてしまうけれど、
彼は見た目以上にずっと強い人なのだ、
と僕はこの時初めて知った。
それまでは何となく近寄りがたくて、
骨董品店で何度か話をするくらいだったから。


…こんな人だったのか。
こちらに向けられた黒い瞳の射るような視線が、
まるで挑むようで、僕はそのまなざしを
ただ陶然として受け止めることしか出来ない。

迫力に気おされた、というのとは違う。
肌の下がざわりと疼き、
そこから僕の知らない何かが生まれ出でるような。
踏み出してはならない道に、
足を一歩踏み入れてしまったような。

不安定で恐ろしく、それでいてどこか心が躍るような、
こんな気持ちになったことはない。
僕自身に何が起こっているのかは分からなかったけれど、
それがこの目の前の凛然とした人に、
関わりがあることだけは分かっていた。

「でも、如月さん…」
このまま突き放されてしまうのがつらく、
思わず追いすがると、やはり彼はあのまなざしを向けてくる。
…ああ、どうしよう。
この瞳に射殺されてしまいそうだ。

瞬間的に、そんなことを考えた僕に、彼は静かに応えた。
「これは僕の不注意が招いたことで、
 君には何の落ち度もない。
 言うなれば不可抗力だ。
 だから僕のことなど気にせず、
 君は君の責務を全うすることだ」
明らかに僕のミスだったのに、
ただひたすら自分を責める口調の彼に、
僕は何もかけてあげられる言葉が思いつかなかった。

それに、彼の言うとおりだ。
まだ戦闘は終わっていない。
僕には護るべき人がいて、
やらなくてはならないことがある。
「は、はい。すみません」
もやもやした想いを振り払うかのように、
決然と背を向けると、さやかちゃんの前に戻った。

もう二度とあんな失敗はしない。
さやかちゃんを護るだけじゃなく、
如月さんも、誰も傷つけない。
だから、見ていてください、如月さん…。


苦行にも等しい戦闘がようやく終わり、
僕はほっと息をつく。
こんなに気を張って戦ったのは、
もしかしたら初めてだったかもしれない。
そんなことを言ったら、彼は怒るだろうか。
それとも呆れるかもしれないな。
どんな時でも凛として隙のない如月さんには。

あ、そうだ。如月さんの具合はどうだろう?
慌てて辺りを見回してみるが、彼の姿は見えない。
「え…?いったいどこへ」
茫然とつぶやいた僕の目に飛び込んできたのは、
醍醐さんに背負われて、ぐったりとする彼の横顔だった。
普段でも透けるように白い肌が、
生気をなくして青ざめている。
印象的な黒い瞳は硬く閉じられ、
うっすらと寄せる眉根が彼の苦痛を物語っていた。

「如月さん…ッ」
我を忘れて駆け寄る僕に、醍醐さんがそっと答える。
「どうやらあのナイフに毒が塗られていたようでな。
 傷自体は大したことがないんだが、
 急いで病院に行く必要がありそうだ。
 気丈な如月が気を失ってしまうくらいだから、
 相当に辛かったのだろうな」

「そんな、如月さん…」
「そう気に病むな。誰のせいでもないのだからな」
醍醐さんは包み込むような微笑みを向けてくれたけれど。
僕は自分が許せなかった。
「僕もついていって良いですか」
「…ああ、構わんぞ」
その言葉に、僕はぺこりと頭を下げる。

こんなことしか出来ない自分が、
情けなくて、不甲斐なかった。
非力な僕では、如月さんを抱えていくことすら出来ない。
細くて今にも折れてしまいそうな、
あの人の背中をただ見つめるだけで…。

* * *

桜ヶ丘病院についた僕らを、
すぐに高見沢さんが出迎えてくれた。
きっと連絡をしてあったのだろう。
担架に乗せられて、運ばれる如月さんを見つめる僕は、
ずいぶんと悲痛な表情をしていたらしい。
心配そうに高見沢さんが覗き込んできた。

「大丈夫〜。如月くんは強いからぁ。
 それに〜、あの院長が如月くんを死なせる訳ないもん。
 だからぁ、霧島くんも元気だしてね〜?」
「あ、すみません、ご心配をおかけして。
 でも僕のことなんて気にしないで下さい」

高見沢さんのやわらかな笑顔に、僕は心を慰められる。
そして、それだけに罪悪感を覚えてしまう。
今、如月さんは必死に戦っているのだから。
「ふぁいとぉ、霧島くん。じゃあね〜」
顔をこわばらせる僕に、
やっぱり高見沢さんは慈愛に満ちた微笑みを浮かべ、
手を振りながら去っていった。

高見沢さんは、看護婦として如月さんの力になれる。
それすら僕は妬ましく思えてならなかった。
──如月さんにもしものことがあったら…。

僕は、この命を投げ出そう。
それで、如月さんが戻ってくる訳じゃないし、
きっとあの人は喜ばないだろうと思うけれど。
僕が持っているものは、そのくらいしか…、ないんだ。

最後まで護ってあげられなくて
…ごめん、さやかちゃん。
不甲斐ない後輩ですみません、京一先輩。

ああ、そして、如月さん。
貴方には何も言葉が出ません。
許してください、なんて言えません。
でも、この命を懸けて償いますから…、どうか。


やがて、永遠にも似た時間が過ぎた後。
僕の祈りが通じたのか、如月さんは命を取り留めた。
いや、きっとあの人の強さに違いない。
もうちょっと遅かったら、危ない所だったらしいけれど、
毒もすっかり抜けて、今夜一晩入院すれば良いようだった。
大事に到らなくて、本当に良かった。

僕は心の底からほっとしたその瞬間、
床にへたり込んでしまった。
それだけ気を張っていたということなのだろうけれど、
情けなくて涙が出そうだ。

「大丈夫?霧島」
耳あたりの良い通る声と共に、
手を差し出してくれたのは龍麻さんだった。
この人だって、僕よりもずっと
如月さんを心配していだろうに…。

「は、はい。大丈夫です。すみません」
僕は子供っぽい意地を張って、
龍麻さんの手を取らずに、自分で立ち上がる。
それでも彼は静かに微笑みかけてくれた。
「…良かったね」
龍麻さんの想いがぎっしりと詰まったようなその言葉に、
僕はただうなずくことしか出来なかった…。


今夜は面会謝絶だ、と院長に言い渡され、
僕たちは不本意ながら、病院を後にする。
僕としては、このまま病院に泊り込んでも良かったけれど、
それだけは絶対にやめておけ、
と京一先輩に止められてしまった。
その理由は分からなくても、
京一先輩がそう言うのならば、仕方がない。

幸い、明日は土曜日で学校も休みだし、
さやかちゃんの仕事もないから、
朝一番に如月さんの顔を見に来よう。
僕はそう心に決めると、
明日の日を心待ちにするのだった。


──そして翌朝。

驚いたことに、張り切って行った僕よりも、
早く来ていた人がいた。
龍麻さんとそれに寄り添うようにしている京一先輩。
そして雨紋さんに、黒崎さんだった。

龍麻さんと京一先輩は当然だろうけれど、
他の二人はどうしてなんだろう?
僕は心の中で首をかしげながらも、口には出さなかった。
二人の真剣なまなざしを見ただけで、
如月さんへの想いが伝わってきたから。

僕はまだ如月さんと出会って間もない。
如月さんのこともほとんど知らないし、
あの二人よりもずっと付き合いが短いのだから、
仕方がないけれど、
そうやって誰かに想われている如月さん…、
というのは、何となく受け入れ難かった。

多分、考えたくなかったんだろう。
僕が、僕こそが、誰よりも
如月さんを心配しているのだ、と思いたいんだ。
責任感からか、あるいは別の理由からか。
単純に、如月さんにとって僕が一番になって欲しい、
という子供じみたワガママだったのかもしれないけれど。


病室の前で待っていると、
そっと扉が開いて、如月さんが姿を現した。
顔色も良く、元気そうに見えるから、
余計に包帯の巻かれている右腕が痛々しい。
「ああ、龍麻。来てくれたのかい?
 心配かけて済まなかったね」

如月さんは僕たちには目もくれず、
龍麻さんに一番に声をかける。
そのまなざしも口調も、全くいつもどおりで、
僕は本当に安堵した。
もちろんこっちを向いて欲しい、とは思うけれど、
これが如月さんなんだから。

端正な横顔をそっと見つめる僕とは対照的に、
雨紋さんと黒崎さんは、我先にと話し始めた。
「大丈夫ですか、如月さんッ」
「如月サン、心配したゼ」
まるで仔犬が飼い主に尻尾を振るように
すがりつく二人を見つめ、如月さんは静かに微笑む。

「君たちにも心配をかけてしまったようだね。
 もう僕は大丈夫だよ」
その言葉を聞いた二人は、病院の中だというのに、
飛び跳ねて喜んだ。
「さすが、如月さんですねっ」
「俺サマの憧れの人だけのことはあるッス」

そしてニコニコしながら、二人口を揃えて言った。
「やっぱり忍者だからなぁ」

「…君たちは、僕自身を心配しているのか、
 それとも忍者の僕を心配しているのか、
 いったいどっちなんだ」
呆れ顔でつぶやく如月さんに、
二人はしれっと言ってのける。
「そりゃあ、両方ッスよ」
「忍者じゃない如月さんなんて想像できません」

「ああ、そうかい、分かったよ。
 せいぜい忍者としての腕を磨くとしよう」
それは如月さんなりの精一杯の嫌味だったのだろう。
そして、もちろん二人には通じなかった。
「頑張ってください、如月さん」
「俺サマも応援してるッスよ」
「はいはい」


返事をする気もなくしたのか、
如月さんは二人におざなりにうなずくと、
ようやくそこで初めて僕の姿に気付いたように、
こちらに目を向けた。
おそらく彼のことだから、最初から僕の存在に
気付いていたに違いないのだけれど。

「君も来ていたのかい、霧島くん。
 心配してくれるのはありがたいけれど、
 君のせいじゃないと言ったろう?
 そこまで責任を感じることはないよ」
そう言って如月さんはやわらかく微笑む。

でも、僕はうべなうことは出来なかった。
ほんの短い間とはいえ、
如月さんを見てきた僕にはもう、分かる。
そうやって僕を許してしまうことで、
この人は自分を責めるようになるのだ、と。

負傷した腕では龍麻さんという主を
護ることも出来なくなってしまう。
自分の責務を果たせなくなってしまう、
その無力感と不甲斐なさは、
僕が感じているのと同じものだから。

多分、今の僕が誰よりも、この人を理解できると思う。
もしかしたら僕たちは
とてもよく似ているのかもしれない、とも思う。
だから、僕は思わず言ってしまったんだ。

「無理です。如月さんがそうなった
 全ての責任は僕にあるんですから。
 いくら如月さんに言われようとも、
 このままでは僕の気が済みません。
 だから、どうかお願いです。
 僕にチャンスを下さいっ!」

如月さんからの信頼を回復し、
僕もいままでの自信を取り戻す機会を与えて欲しかった。
「…そう言われても、
 僕にはどうすることも出来ないよ」
しかし、言われた如月さんは困惑するばかりだ。

それはそうだろう。
僕だって、具体的には何も考えていないのだから。
ただ、何かをしたい、何かをしなきゃ、と思うだけで。
すると、そんな僕に天啓がひらめく。
…求めよ、さらば与えられん。

「あの、如月さん。
 その腕じゃ色々と不便じゃないですか?
 ご迷惑じゃなければ、僕がお世話します」
誠心誠意を込めた僕の言葉に、
如月さんはあからさまに『迷惑』という顔をした。
「いや、結構だ。僕は一人で…」

「あ、そうだ。如月さん、お一人なんですよね。
 それじゃ、やっぱり何かと大変ですよ。
 お手伝いします。させて下さい」
如月さんが反論する暇を与えずに、
僕は言葉を畳み掛けていく。
こういう人は強気で押しまくれば折れるだろう、
と思った僕のもくろみは、しかしあっけなく外れた。

「必要ないと言っているだろう」
微笑みすら浮かべずに、鋭い口調で言い放たれ、
さすがに僕も言葉を失う。
無理に押し付けたことで、
かえって意固地にさせてしまったようだ。


ああ、やっぱり僕は如月さんのことを、
これっぽっちも分かっていないんだなぁ。
せっかく良い考えだと思ったのに、
次の手がなくなり、僕は途方に暮れた。

すると、意外なところから、
思わぬ救いの手が降ってくる。
「そうッスよね。如月サンのお世話なら、
 この俺サマにおまかせッスよ」
「いや、ぜひともこの黒崎、黒崎にお任せを」
如月さんの追っかけらしい、雨紋さんと黒崎さんだった。

この二人は、状況が見えていないのだろうか。
あんなに如月さんが、『誰も寄せ付けないオーラ』を
ビシビシと張り巡らせているというのに。
決して誰の手も借りるものか、
と強いまなざしが語っているというのに?

鈍感なのか、一途なのか、
二人は必死に自分の誠意を訴えかける。
「如月サン」「如月サン」「如月サン」
「如月さん」「如月さん」「如月さん」
まくし立てる二人に、
如月さんは言葉を挟むことも出来ない。

ああ、気の毒に、如月さん。
僕が同情のまなざしで如月さんを見つめていると、
彼は助けを求めるように、龍麻さんに目を向けた。
しかし、龍麻さんは京一先輩と二人で
にやにや笑っているばかり。
如月さんが慌てふためいているのを、
楽しんででもいるようだった。
でもきっと龍麻さんが友達甲斐がないってことじゃなく、
如月さんが元気そうで嬉しいんだろうけれど。

そして、如月さんは覚悟を決めたように、
僕の方に向き直り、苦渋に満ちた声で告げた。
「分かったよ。僕の世話は霧島くんにしてもらう。
 皆もそれで良いね?」
「はいッ!ありがとうございます、如月さん!」
僕はビシッと背筋を正して応える。

雨紋さんと黒崎さんは、如月さんの決定には逆らえないようで、
意外にも大人しく引き下がった。
「それじゃ、よろしく頼むよ、霧島くん」
「はい。あ、カバンをお持ちしますね」
さっそく甲斐甲斐しく世話を焼きはじめる僕に、
京一先輩がいたずらっぽく笑いかける。
「頑張れよッ、諸羽」
「はいッ、京一先輩」
京一先輩の名に恥じないような後輩になるためにも、
僕は精一杯やらなくては。


 ──こうして、僕と如月さんの
  奇妙な同居が始まったのだった──


  NEXT>>


--------戻る-------     TOPへ