『 変わったもの、変わらないもの 』



「乾杯」
 グラスをカチンと鳴らし、それと同時に軽く唇を合わせる。お互いに歳を取ったせいなのか、貪るようなキスではなく、挨拶程度に触れるだけだ。
 そうして二人で笑い合うと、成歩堂はグラスのワインを一口飲んで、しみじみとつぶやいた。
「何だか最近の僕たち、ずいぶん頻繁に会っているよねぇ。以前とは大違いだ」

「そうだな」
 御剣もうなずく。
 成歩堂が弁護士に戻る前は、ほとんど会うことが出来なかったから。
 その頃の寂しさを思い出し、御剣はつい愚痴めいたつぶやきをする。
「だが、君は一度も私を誘わなかったではないか」

 すると成歩堂は、苦笑を浮かべた。
「仕方ないだろ。お前はいつも忙しくしていたし、毎日遊んでいるような身としては、誘いづらかったんだよ」
「……フム、そんなものか」
「それに断られるのも堪えるしね」

 成歩堂は冗談めかした口調で言うが、当時の御剣が殺人的に忙しかったのは事実だ。
 実際に成歩堂が誘ってくれたとしても、きっとほとんど断ることになっていただろう。
 それが分かっていても、やはり誘って欲しかった、などと言うのはワガママが過ぎるか。


「致し方あるまい」
「分かってくれて嬉しいよ」
 成歩堂はくすりと微笑み、ふいにこちらをじっと見つめる。
「何だね?」
 ドキドキしながら御剣が尋ねると、成歩堂は逆に問いかけてきた。
「だからさ、不思議なんだよね。どうして今はこんなに会えているのか。もしかして、お前ヒマになった?」

「ヒマ……というと語弊があるが、確かに自由な時間は多くなったな」
「検事局長さんなのに?」
 御剣はうなずく。
「だからこそ、だ。以前は一年の半分くらいは海外に行っていたのだが、さすがに検事局長ともなると、そうそう留守にする訳にもいかなくてな」
「ああ、つまり忙しさも半分になっているってことか」
「そうだな。分かりやすく言えば」
 御剣はうなずき、今度は成歩堂に尋ねる。

「そういう君はどうなのかね。弁護士に復帰したばかりで、忙しいのではないのか?」
「いや、それがさぁ。そうでもないんだよね」
 成歩堂は照れくさそうな顔をする。
「ほら、法廷が爆破されちゃっただろ。だから開廷される裁判の数が少なくなっているんだよ。で、僕みたいな新米には、なかなか順番が回って来ないって訳さ」

「そういえば、そうだったな。だが、そのくらいならば、私の方で便宜を図ってやれるが?」
 御剣の言葉に、成歩堂はぶんぶんとかぶりを振る。
「そんなことされたら、また会えなくなるだろ。このままで良いよ。しばらくはね」
 こういうことも出来なくなっちゃうし? と言いながら成歩堂は御剣を抱き寄せた。御剣も素直に従い、彼の胸に身を預ける。


(……ずっとこうしていたい)
 そのまま成歩堂にうっとりと抱かれていた御剣だったが、ふと気になって問いかける。
「ところで成歩堂、休みといえば私と会ってばかりで良いのかね。みぬき君が寂しがっているのではないか?」
 御剣が尋ねると、成歩堂は驚いたように目を丸くした。
「何だ……?」
 きょとんとする御剣に、成歩堂は何故か弾かれたように笑う。

「まさか、お前がねぇ……。ずいぶん変わったなぁ」
「ム……、何がだね」
「だってさ、昔はそんなこと絶対に聞かなかったじゃないか」
「……そうだったな」
 御剣は、当時の自分を思い出し、複雑な気持ちでうなずく。
 成歩堂はそれにやわらかい微笑みを返しながら、言葉を継いだ。

「みぬきのこと、気にならなかったはずもないのにさ。お前は決して言わなかった。僕がみぬきを引き取ることにした時も、責めるでもなく、問い詰めるでもなく、ただ黙ってうなずいて受け容れていた。まるで、そんな日が来ることを覚悟していたかのように、ね」
 御剣はそれにもうなずいた。
 事実、そのとおりだったから。

 自分が成歩堂にとって一番大切な存在ではなくなる日が来るかもしれない、とずっと怯えていた。
 成歩堂がどんなに愛の言葉をささやいてくれても。
 成歩堂の誠実さも、想いの深さも、愛情も、真心も、一つとして疑ったことはなくとも。
 御剣自身が、成歩堂を永遠に引き留めておける自信がなかったのだ。


「私はただ……、君に嫌われたくなかったんだ」
 成歩堂が一度決めたことを翻すはずもない。
 ならば、御剣は事実として受け容れるしかなかった。
 どれほど反対しても、不満をぶちまけても、彼の心を変えることが出来ないならば、何も言わない方が良いと思ってしまったのだ。
「僕がお前を嫌いになることなんて、天地がひっくり返ったって有り得ないのに?」
 御剣は何も言い返せない。

 すると、成歩堂は困ったように笑う。
「やっぱり、そういうところは変わってないか。言いたいことはたくさんあるはずなのに、全部自分の中に呑み込んで、ただ黙って受け容れて。そして一人で苦しむんだろう?」
 御剣はうつむく。
「……そうだ。私は臆病だから。不用意な言葉で君を傷付けたくない。そのことで自分も傷付きたくないんだ」

「話してくれない方が傷付くこともあるって、そろそろ学習して欲しいんだけどなぁ」
「ああ……、そうだな」
 つい先日も成歩堂に怒られたばかりだ。
 成歩堂に弁護士に戻って欲しいと頼みに行った日にも、遠回しな言葉ばかりを積み重ねて、一番肝心な御剣自身の想いを告げなかったことで、彼を傷付けてしまったのだ。


「……私はいつも同じ過ちを繰り返しているな」
 ぽつりとつぶやいた御剣の髪を、成歩堂がさらりと撫でる。
「でもお前は今日、みぬきのことを僕に聞いたじゃないか。だから変わったな、と思ったんだ。ちゃんと話してくれるようになって嬉しかったんだよ」
「そう……、なのか?」
 おずおずと顔を上げた御剣に、成歩堂がからかうようなキスをした。

「もちろん。お前はもっと僕に本音を言うべきだし、僕だってそれを受け止めるくらいの覚悟はあるからさ」
「……成歩堂」
 御剣は彼の胸の中にぎゅっとしがみつく。
 成歩堂がそう言ってくれるのは嬉しかった。さりとて、そう簡単に自分を変えられる訳でもないけれど。
 それでも、成歩堂が喜んでくれるなら、変わりたいと思った。

「分かった……、努力する」
 すると成歩堂の大きな手のひらが、ぽんぽんと御剣の背中を叩く。
「だから、そうやって自分を追い込まないの。僕はお前に強要しているんじゃない。むしろ、もっと楽になって欲しいんだから。努力とか根性とか止めて欲しいね」
「ムう……」
 成歩堂が本音を言えと言うから、そう努力をしようと思ったのだが、それが気に入らないと言われては、御剣はどうして良いか分からなかった。


 そんな御剣の戸惑いを感じたのか、成歩堂はやわらかく髪を撫でてくれる。
「良いんだよ、無理しないで。難しく考えることもない。少しずつ、ゆっくり変わっていけば良いんだ。僕達にはまだこれからたくさんの時間があるんだから」
「少しずつ……?」
 小首を傾げた御剣の頬に、成歩堂が軽くキスを落とす。

「そうだよ。例えば、今お前は何を考えた? 僕の顔を見ながら、どんなこと思ってるの?」
 その問いに、御剣はあまり深く考えずに、反射的に応えた。
「もっとキスして欲しい」
「あはは、積極的だね。その調子だよ。それじゃ、キスをしてあげたら次は? どんなことして欲しい……?」

 何やら趣旨が違ってきているような気がしたが、御剣はそれにも素直に応える。
「……抱いて欲しい」
「うんうん、そうだよね。僕もそのつもりだ」
 成歩堂は嬉しそうにうなずくが、ふいに真剣なまなざしになった。
「でも……、その前に」
 成歩堂の口調が変わったことに御剣は戸惑う。

 それでも成歩堂の言葉は続いた。
「僕もお前にちゃんと言うべきことは言っておかないと。お互いに気にして楽しめなくなりそうだから」
「……何をだね」
「もちろん、みぬきのことだよ」
 御剣はハッとする。思えば、その言葉を切っ掛けに話が進んでいたのだった。


「まずは謝らせて欲しい。本当にごめん」
 深々と頭を下げる成歩堂に、御剣は眉間のヒビを深くする。
 今更何を言っているのか。謝るくらいなら、最初から引き取らなければ良かったではないか。
 そう思った御剣を否定するように、成歩堂は続けた。

「僕はお前が何も言わないことを寂しいと思いながら、同時に甘えてもいたんだ。お互いに失うことを恐れて、深く踏み込まずにいる状態を、間違っていると分かっていてもね」
 御剣はうなずく。
 そして、みぬきを引き取ったことを謝らなかった成歩堂に安堵もしていた。そんなことをされたら、御剣がずっと苦しんできた意味が無くなってしまう。彼が後悔していないのならば、それで良かった。

「私はそのことについては気にしていない。お互い様だからな」
「うん、ありがとう。そう言ってもらえると救われるよ。でも、お前が苦しんでいるのも分かっていて、放っておいたのは事実だからね」
「君だって、苦しんでいたのだろう? だからもう良いんだ」
 みぬきを一人で残して、御剣の元へ来ることを、成歩堂が苦しんでいなかった筈がない。罪悪感を抱かなかった筈もないのだ。


「そうだね。でもそれは昔のことだ」
「今は違うと?」
 成歩堂はうなずく。
「お前も見ただろう? みぬきはすっかり大人になって、立派なマジシャンとして独り立ちしていてさ。僕よりも稼ぎは多いくらいなんだ。もう僕が面倒を見てやらなきゃいけない子供じゃないんだよ」
「確かに彼女のマジシャンとしての腕はたいした物だった」

 成歩堂と共にみぬきのショーを見に行ったことを思い出し、御剣もうなずく。その後に一緒に食事をした時も、しっかりした言動に驚いたものだ。むしろ成歩堂よりも大人なのではないかと、からかったほどに。
「だからさ、お前ももう僕と一緒に居ることに、罪悪感を抱かなくて良いんだよ。みぬきだって、いつかは大切な人を見つけて、僕の手を離れてゆく。そうなれば、また二人きりに戻る訳だしね」

「成歩堂……、私は……」
「言ってごらん。お前の思っていること」
 ふわり、と成歩堂は微笑む。
 いつもは真っ直ぐにこちらを見つめる大きな瞳が、やわらかく細められて、優しいまなざしを注いでくれる、その顔が御剣は好きだった。
 だからだろうか。すんなりと言葉が口からこぼれる。


「私は……、君を独占しても良いのだろうか。いや、全てとは言わなくとも、半分くらいは私のものになってくれたら……、とても嬉しい」
 はにかみながらささやくと、いきなり成歩堂に抱きしめられた。
「な……、成歩堂……?」
「そんな可愛いこと言われたら、ガマン出来ないよ」
 耳に吐息を吹き込みながら言われて、御剣は身体を震わせる。

「それにさ」
「ん……?」
「僕の全ては、もう最初っから、お前のものだからね」
「そんな筈は……」
「ちょ……、そこは素直にうんって言ってくれないと」
 そう言われても、信じられないのだから仕方がない。
 少なくとも御剣は、成歩堂を独占したと思ったことなど、これまでに一度もなかった。

「しょうがないなぁ。それじゃ分かるまで、じっくり教えてあげるよ。一晩中でもね」
 成歩堂にくすくすと笑われて、御剣は頬を染める。
 それでも成歩堂に導かれるままに、ベッドへと向かうのだった……。



           おわり

 
読んで下さってありがとうございます。

『罪と罰』の続編、というか後日談です。
それにしては雰囲気が違いすぎる、
と思われるかもしれませんが、
何より私が一番驚いています(苦笑)。

いや、だって「5」のナルミツったら、
あんなに素でラブラブイチャイチャなんですもの。
ああ、御剣さん幸せなんだね、と思っちゃって。
暗い話になりようがないですね、うん。

そもそも書いたのは、こちらの方が先でした。
で、会えない間の御剣さんの話は、
回想シーンでチラッと出すだけのつもりで、
いざ書き始めたら止まらなくなってしまって。
むしろ本編よりも長くなるような結果に。

まぁ、あんなにウツな雰囲気になったのは、
ほとんど御剣さんのせいですけどね(笑)。
一人でぐるぐる悩んで迷走するタイプなので、
ナルホド君が居てくれないとダメなのです。

精神安定剤……というよりは船の碇みたいな。
そこに繋ぎ止めて置いてくれる存在なのですね。

2013.09.20

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