【えせほし─似非星─ 】 kyo-ko

『Let's cooking!』

(1)

「いってらっしゃい」
「ああ、行ってくる」

 名残惜しそうに家を後にする仙石を見送ると、行はリビングのソファに腰を下ろした。
 数日前から、仙石はセンゴクストアの仕事の関係で、朝早く出かけて、夕方頃に戻ってくる生活になっていた。まるで普通のサラリーマンのようだ。さしずめ行は夫の帰りを待つ新妻という所か。

 ふと見ると、テレビからにぎやかな声が聞こえてくる。仙石が点けっ放しにしたのだろう。行はほとんどテレビを見ないが、どうやら主婦向けの情報番組をやっているようで、エプロンを付けた女性が料理の解説などをやっていた。
 その様子をぼんやりと眺めていた行は、ハッとしてつぶやく。
「…もしかして、オレも専業主婦なのか?」

 実際の所は、この新居の購入費用は行の貯金から出しているし、絵が一枚売れれば、一年くらいは二人で暮らせるほどの収入があるのだから、専業主婦とは呼べないかもしれないが、行自身に『働いている』という意識がないのは確かだった。
 そして、主婦なら家事や子育てをする、という認識くらいは行にもある。しかし行に子供が産めるはずもないので、出来ることは『家事』に限られるだろう。


「家事か…」
 行はつぶやきながら、どんなものが『家事』なのか考えてみた。

 まずは掃除…と思い、部屋を見回してみても、チリ一つ落ちていない。
 そもそも仙石は物を散らかすということをしなかった。長い護衛艦暮らしのせいか、あるいは前妻に厳しく言われていたのか。掃除機を掛けることも好きらしく、絵に行き詰ったりすると、いきなりガーガーと掃除を始める。ただの逃避かもしれないが。
 どうやら床を磨くのも好きなようで、いつもフローリングもピカピカだった。つまり、行のする仕事は残っていないということになる。ついでに仙石は窓も磨くし、風呂やトイレも洗うし、エアコンのフィルターも台所の換気扇も掃除しているのだが、そこまで行の考えは及ばない。

 次は洗濯…、と見ると、ベランダにはすでに洗濯物がひるがえっている。
 当然ながら、仙石が干していったのだろう。行はいつ仙石がそんなことをしていたのかすら知らなかった。
 そこで行は夕方になったら洗濯物を取り込もうと決める。取り込んだ洗濯物をたたんでタンスにしまったり、アイロンをかけたり、というようなことまでは考えていない。もちろん。

 すると残りは食事の支度だ。他にも主婦の仕事はいっぱいある!と怒られてしまうかもしれないが、行の考えつくことは、ここまでなのだ。
 さりとて、これまではずっと食事の支度は仙石の仕事で、行は出された物を食べるだけだった。行に好き嫌いはなく、口に入るものなら何でも良いというレベルだから、正直に言えば味の美味い不味いも分かっていない。

 仙石が一日かけて煮込んだ特製ビーフカレーであろうと、三分で作ったレトルトカレーであろうと、味の違いなんて分からなかった。それを知ったら仙石はさぞや嘆くだろうから、行は言わずにいるのだが。
 そんな人間が料理を作っても、美味いものが作れるかどうか疑問ではあるけれど、行はとにかくやってみることにした。まずは専業主婦に向けての第一歩だ。
 むしろ仙石の方がよほど主婦に相応しい仕事をしていることは考えないでおく。


 しかし、何を作れば良いのか全く分からないので、インターネットで検索をかけてみた。ダイスでは食べられる野草の見分け方は教えてくれても、簡単な家庭料理の作り方は教えてくれなかったのだ。花嫁修業の場ではないので当たり前だが。
 『簡単 料理 レシピ』などのキーワードで検索すると、とんでもない量の結果が返ってきて、行はパソコンを前に途方に暮れた。

 それに、いくら簡単だと言っても、料理に慣れている人のことで、自分のように包丁を持ったことすらない人間用ではないのだろう。書かれている言葉の意味すら分からないのだ。
 せん切りと、乱切りと、短冊切りと、みじん切りでは、どれが一番細かいのだろう、と行は首をかしげた。それにネットではほとんどが出来上がり後の写真だけなので、途中経過がどうなっているのかピンと来ない。


 そこで、まずは本屋に行って、一番初歩的な料理の本を買ってくることにした。考えてみれば、一人で家を出ることも、こちらに引っ越してきてからは初めてだった。それでも駅までの道は分かっているし、駅前にはたいてい本屋の一軒くらいはある。
 幸い本屋はすぐに見つかり、『料理』のコーナーも分かった。そこに並んでいるスゴイ量の本の中で、なるべく薄くて、写真が多くて、説明が丁寧に書かれている、非常に初歩的な物を二冊買い、行はまた家に戻った。

 本当なら、材料の買い物も一緒に済ませてしまえば効率が良いのだけれど、行は一人でスーパーに入ったこともほとんどない。買う物をきちんとメモしておかなくては、買い物すら出来そうになかった。
 そんなことで、よくこれまで一人で暮らして来れたもんだ、と仙石が聞いたら呆れたかもしれない。が、二人が再会してからは、ほとんど仙石が食事の面倒を見ていたのだから、甘やかしていたのは仙石自身である。
 ようやく、やる気になった行の変化を、仙石は喜ぶかどうか。行には分からなかったが、何事も経験だ。


 ソファに座って、料理の本を丹念に読み進めていくうちに、少しずつ料理用語の意味も理解出来てきた。そしてなるべく簡単そうなレシピを選んでいく。つまり焼くだけ・煮るだけ・炒めるだけ、というものだ。揚げ物は難しそうなので除外する。
 どうやら『鍋物』は切った野菜を土鍋に放り込むだけで簡単そうだったが、今はまだ残暑も厳しい。さすがに鍋物は暑いだろう。という訳で、同じように切った野菜を煮るだけの料理にすることにした。

 以前に仙石が「煮物はとにかく時間をかけて煮込めば、誰でも美味く作れるんだ」と言っていたのを思い出したからである。それが本当かどうかは知らないが、ここは信じてみようと思った。
 そこで煮物料理の定番らしい『肉じゃが』の材料をメモして、ついでに『あさりの味噌汁』の材料も書いておいた。やはり味噌汁くらいは無いと、献立として寂しい。

 それからスーパーで材料を買い揃えるのにも、ずいぶんと時間が掛かり、ジャガイモをじっと見つめて悩んでいる行の姿に、他の買い物客がうっとり見惚れたり、何かの撮影かときょろきょろしていたりしたのだが、ともかく材料だけは揃った。


 そんなことをしている間に、気が付けば夕方である。
 行は時間があまりに早く進んでいるのに驚きながら、慌てて洗濯物を取り込んだ。が、出来たのはそこまでで、その後はソファの上に放置する。初心者主婦には、そんなに色々出来ないのだ。
「急がないと…」

 夕食の支度に、どれだけ時間が掛かるか想像も付かないので、行はもう準備に取り掛かることにした。
 食材を指示どおりの大きさに刻んだ…つもりだったが、包丁を使うことに慣れていないので、ニンジンとジャガイモの大きさがバラバラになったり、そもそも皮を剥くことすら上手く出来なくて、ジャガイモが半分くらいになったりした。

「オレってこんなに不器用だったかな…」
 ちょっとショックを受けながらも、これを毎日当たり前のようにこなしている仙石を尊敬する行だった。
 どうにか一時間をかけて、料理の材料と調味料をレシピどおりの分量でずらっと並べ終え、いよいよ調理開始、と思ったその時。


 いきなりドアベルが鳴った。しかも鳴らし方のリズムと回数で、インターホンに出なくても行には相手が分かる。
「仙石さん?!」
 …まだ何も出来ていないのに、と思いながら、仕方がなく、玄関に仙石を出迎えにいく行なのだった…。


          
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