(1)
「釣りに行かねえか?」
朝早くやって来た仙石は、いきなりそんなことを言い出した。その理由は分からないが、行は即答する。
「行かない」
釣り糸をたらして、ぼんやりと魚が食いつくのを待つ、なんていう行為にも何の魅力も感じられなかったし、海を見たい気分でもない。
そもそも魚が好きではない。食べたいとも思わない。魚だけではなく、イキモノを口にいれることすら厭わしい。
いや、昔はそうではなかった。少なくとも『仕事』をしている時は、食べなくては戦えなかったし、生き残れなかった。生きるためにはどんなものでも口にした。
その反動だろうか。
とはいえ、たまに仙石が作ってくれる、訳の分からないものが入った大雑把な味付けの海鮮鍋もどきや、半日以上も掛けて煮込んだという御自慢らしいカレーなどは食べられるのだから、単なる気分の問題かもしれないのだけれど。
にべもなく断る行を、仙石は信じられないような目で見つめ返した。断られるなんて思っても見なかったという顔で。
まるで道端に捨てられている仔犬のようだ、と行は思った。
そして、そんなことを思ってしまったら、冷たい態度も取れなくなる。
いつもこんな風に仙石には負けているような気がするが、自分の言葉で傷つけてしまったことは確かだ。
「海を眺めるくらいなら良い」
仕方がなく最大限の譲歩をしてやると、仙石はあっさり明るい笑顔になる。現金なものだ。
「よし、それなら行こうぜ」
なぜそんなに急いでいるのか、とにかく早く早くとせっつかれ、行は取るものも取りあえず家を後にするのだった。
高台にある行のアトリエ兼住居からは、もちろん海が見える。夏には海水浴客で賑わう館山湾が一望できるだけではなく、白い帆を張った優美な帆船が寄港するのも眺められた。
しかし、二人が向かったのは、館山からは少し離れた小さな漁港。ぽつぽつと漁船が泊まっているだけのうら寂しい印象だ。
「船に乗るのも久しぶりじゃねえか?」
やけに楽しげに仙石が尋ねてくる。行は黙ってうなずいた。久しぶりどころか、館山に住むようになってからは、ほとんど家から出ないので、最後に船に乗ったのが、いつだったかすら思い出せない。
いくら何でも、『あの時』が最後、ということはない筈だが。。
「あんたはよく乗っているんだろうな」
逆に尋ね返した行に、仙石はちょっと驚いた顔になる。そしてすぐに自慢げに笑った。
「まあな」
自衛官でなくなっても、船が好き、海が好き、と全身に描いてあるような男だ。無理もない。
最近では海の見える家に引っ越したい、などと、わざとらしく行に聞こえるような独り言をつぶやいている。行の家に住みたいというアピールなのか、それともどこか別の家に二人で住もうとでも言いたいのか。
そんな時に素直に返事をしてやるような行ではなかったけれど。
「そら、これだよ」
ふいに仙石が一艘の船を指差す。漁船に毛の生えた程度ではあるが、釣りをするにはこれで十分なのだろう。
「あんたの船か?」
「そんな訳あるか。借りてるんだ」
答えながら、仙石はいそいそと船に乗り込む。行も後に続いた。仙石は手慣れた動作でアンカーを上げて、エンジンを掛ける。運転している人間の性格が現れるのか、船はかなり荒っぽい動きで港から離れていった。
「大丈夫か…?」
船が転覆して、二人で心中なんて洒落にならない。仙石は何が可笑しいのか、ガハガハ笑っているから、余計に不安がつのった。
「ちゃんと免許は持ってるぞ」
「そんなの当たり前だ」
いくら何でも、仙石が小型船舶の免許を持ってない、などと思っている訳ではない。が、免許があるというのと操船できるというのは違うだろう。使わなければ腕も錆びる、そういうことだ。
しかし、そんな行の危惧をせせら笑うかのように、船は一直線に沖に出ていく。波濤を越えて船が進むたびに、白い水飛沫が上がった。潮の香りのする風が、行の長い髪をふわりと揺らす。
「目指す場所があるんだな?」
尋ねる行に、仙石はちょっと苦笑してみせた。
「ああ。俺がいつも絵を描いている場所さ。たまにこうしてやってくるんだ。やっぱり実物を見ないとピンと来なくてな」
「あんたらしいな」
行は思わずつぶやいた。
自分は実物を見なくては描けない、などということはないから、仙石の気持ちが分かりはしないが、想像で描くというのは、虚構の世界を描くと言えなくもない。嘘よりも自分の目で見た真実を選ぶ所が、いかにも真っ直ぐなこの男らしかった。
誉めたつもりの言葉だったのだが、仙石は苦笑を浮かべるばかりだ。
「克美画伯のような才能はないんでね」
行は小さく吐息をつく。
自分ではそれほど大それた才能の持ち主だとは思っていない。仙石が生み出すものと、自分が描くものと、いったいどれほどの差があるものか。
実際にも、仙石の描く絵は彼自身を象徴しているかのようで、行はとても好きだったから、そんな風に引け目を感じたり、卑屈になったりするのを聞くと、自分のこの想いも侮辱されたような気持ちになる。
仙石が自分の絵を高く評価してくれているのは嬉しいけれど、それほど大げさに奉られるようなものでもない、と思うのだ。
寂しげに笑う仙石の姿を見ていて、行はふと思いついたことがあった。
「クールベは」
「ん?」
「クールベは天使なんて見たことがないから描けない、と言ったらしいな」
仙石がギュスターヴ・クールベの描く海の絵を敬愛していることは、行も知っている。画壇に受け容れらなくとも自分の思う絵を描き続けたクールベは、やはり不器用な仙石とも似ているのではないだろうか。
「あんたに似てるよ」
お世辞ではなく正真正銘、心からの言葉だ。それが仙石にも伝わったらしい。
「よせよ、照れるじゃねえか」
困ったように目を逸らしながらも、まんざらでもない顔になった。
そんな仙石を見つめ、行も思わず微笑みを浮かべるのだった…。
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