【えせほし─似非星─ 】 kyo-ko

『愛の賛歌』

(2)

 逃げるように店を後にして、急ぎ足で歩く仙石の背中を見つめながら、行も後ろをついていく。
 やがて緑の鮮やかな公園に辿り着いた。まだ夏の暑さが厳しいせいか、ほとんど人影は見られない。

 そこの木陰になったベンチを選んで仙石が座りこむ。行は別に座りたい気分ではなかったが、仙石にならって隣に腰掛けた。
 きっと何か話があるのだろう、と行は仙石の言葉を待っていたのだが、当の仙石は一向に口を開く気配がない。

 しかし、行はこんな時に自分から進んで話題を振ったり、話を盛り上げたりすることの出来る性格ではないから、二人の間にはしばらく沈黙が流れた。
 いつもならば仙石の方から、日常の他愛もないことや、くだらない冗談などを、行が望んでいようといまいと、お構いなしに話しかけてくるのだが。
 どうやら今日の仙石は、何も言うつもりがないらしい。

 そこで、非常に珍しいことに、行から口を開いた。
 …いや、言わずにはいられなかったのだ。


「あの絵のことだが」
 しかし、行がそう言った瞬間、仙石が慌てて遮った。
「いや、いい。何も言わないでくれ、頼む」
「何故だ」
 それはおそらく、行にだけは見て欲しくない、という理由とも同じなのかもしれない。そう予想した行は、どんなことをしてでも理由を聞き出す決意をした。こんな風にされては気になって仕方がない。

「だから、その…」
 やはり仙石の言葉はおぼつかないから、行は無視をする。
「あの絵は良い絵だ。ただ美しいだけじゃなく、見ていると気持ちが安らいで、穏やかになるだろう。誰もがあの絵に心を癒されていると思う」

「…お前もか?」
 行の言葉に、ようやく仙石は嬉しそうな顔をするが、行は容赦なく、かぶりを横に振ってやった。
「いや、オレはならない」
「そうか…」

 目に見えてがっかりする仙石に、行はなおも言葉を継ぐ。それが仙石を喜ばせるか、悲しませるかは分からなかったが、あの絵を見て感じたことを全て伝えたかった。

「最初はオレもあの絵に穏やかな安らぎを感じた。だが、見ているうちに、それだけでは済まされないものがあると思った。呑み込まれてしまいそうな、絵の中に引き込まれてしまいそうな、何かが。
 それがオレはちょっと怖かった。多分、そんなことを感じていたのはオレだけなのだろうけれど、言い知れない…不安のようなものを感じたんだ」

 全てを吐き出した行は、そっと仙石を見つめる。ますますがっかりさせてしまったか、と思ったが、仙石は、意外にもさっぱりした顔で空を見上げていた。
「そうか…」
 そのつぶやきは先刻のものと全く同じだが、口調はまるで違っている。吹っ切れたとでもいうのだろうか。あるいは開き直ったのか。


 仙石を見つめる行の顔に、『?』が灯っているのが見て取れたのだろう。仙石はそんな行を見つめ返し、明るい笑顔を向けた。
「頼子にも同じようなことを言われたよ」
 そう言って、慌てて説明を付け加える。

「頼子ってのは俺の女房だが、直接聞いた訳じゃなくてな、佳織に。ああ、佳織ってのは娘で、その佳織が言ってたんだよ。女房が俺の絵のことを『これではあの人が海に出て行くのは仕方がないわね』と言ったんだとな」
「なるほど」
 行はうなずく。

 仙石の口から元妻のことを聞かされるのは、あまり良い気分ではなかったが、彼女の言うことは理解出来ると思った。
 あの絵には仙石の海に対する想いが全て詰まっていると思う。それだけ全身全霊を傾けて描いたのだろう、と同じ絵描きとしては想像が付く。

 かつて、艦の上で男が一人海に向かっていた時のように。行が惹かれ、憧れた背中だ。
「あんたが、どれほどの想いを込めて、あれを描いたのか、あの絵を見ただけで伝わってくるよ」
 行が正直な気持ちを告げると、仙石は決まり悪そうに微笑んだ。


 そしていきなり、まるで関係のなさそうなことを言いだす。
「お前、『愛の賛歌』って知ってるか?」
「…歌だろ」
「当たり前だ、そんなの」
 呆れた顔で溜め息をつくと、仙石はなにやら鼻歌を歌い始めた。かなり調子外れではあったが、そのメロディは行にも聞き覚えがある。

「ああ、それか。分かった」
 行の言葉に、仙石は嬉しそうにうなずき、また話に戻った。
「それでな、シャンソン歌手のエディット・ピアフは、飛行機事故で恋人を亡くしてな。その恋人への想いを込めて歌ったのが、『愛の賛歌』なんだとよ」

「それで?」
 今の話と、仙石の絵といったい何の関係があるのか、行には分からなかった。そのことが仙石にはかなり衝撃だったらしく、信じられないという顔で茫然と見つめ返す。
 しかし、深い溜め息を一つ吐いた後に、ぼそりと呟いた。

「俺があの絵を描いた時、お前は死んだと思っていたんだ」
「あ…」

 行はようやく合点がいった。いやむしろ、もっと早く気がつくべきだったのだ。自分のあまりの鈍さに恥ずかしくなるほどだった。
「愛の賛歌か…」
 噛みしめるように呟いた行に、仙石は慌てた様子で言い添える。
「いや、さっきのは単なる例え話だからな。俺の絵が愛って訳じゃなくてだな、その、なんだ」

「オレに手向けてくれたんだな」
 あの海は…、行が消えていき、眠っている海。そして行の墓標でもあるのなら、行自身がそれを見て、落ち着かない気持ちにさせられたのも無理はない。
 だからこそ、波一つない穏やかで凪いだ海なのだろうから。

「ありがとう、仙石さん。オレはやっぱりあの絵を見て良かった。あんたがあの絵を描いてくれて、良かったよ」
「行…」
 行が感謝の想いを込めて微笑むと、仙石はちょっと眩しげに目を細めた。そして何気ない口調でつぶやく。

「お前が描いてくれた絵へのお返しみたいなもんだ。まぁ、俺の方が描いたのは先だろうけどな」
「さあ、どうだろうな。オレもあの絵は事件後それほど経っていない時に描いたんだ。出したのは、その半年くらい後だけど。もしかしたら、あんたと同時期だったかもしれないな」
「へえ、そうなのか」

 全く違う場所で、二人が互いに捧げる絵を描いていたかもしれない、というのは、なかなかに素敵な偶然だと、行には思えた。仙石も同じ気持ちらしく、ようやく曇りのない明るい笑顔を浮かべる。


 そこで行は、珍しく軽口を叩いてみることにした。

「あんたからもモデル代をもらわないとな」
「え?そりゃないだろ。実際に顔を描いた訳じゃあるまいし」
「あれだけの大きな絵だから、安くはないよな」
「おい、行。…頼むから、冗談を言う時はそれらしい顔をしてくれよ。そんな真剣な表情で言われたら本気にするだろうが」

 そう呟いて、いかにも困りきった顔をする仙石を見つめ、行は明るい笑い声を上げるのだった…。

                   おわり

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ここまで読んで下さってありがとうございましたm(_ _)m

いかがでしたでしょうか…?
一応タイトルとは合っていると思うのですが(そんなレベル)。

仙石さんが「愛の賛歌」の逸話を知っているかというと、
微妙な所ではありますが、きっとどこかで耳にしていたのよ。

ちなみに私の場合は、ぼんやりと深夜番組を眺めていたら、
その話が出てきて、「これは仙行だ!」と確信しました(苦笑)。
いきなりすり変わる自分の思考回路が恐ろしいですが、
そう思った途端に、この話があっという間に出来上がったのでした。

で、勢い余って書いてみたものの、
「番外編」に位置付けるには、かなり重要なエピソードだし、
本当はシリーズに入れたいけど、
でもシリーズの方は二人が出来上がるまで、
順を追って書いて行きたいし。
(これは出来上がっちゃった後の話ですから)。
悩んだ末に番外扱い。いずれはシリーズの中に入れますが。

って、こんな話読んでも面白くないですよね(苦笑)。
もっと楽しいあとがきを書けないものか…。

2005.02.23

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