(1)
ある日のこと。
仙石と行は、東京のセンゴクストア本店にいた。
そして二人並んで、大きな壁画の前に立つ。縦幅二・五メートル、横幅十五メートルの壁一面を埋める静かに凪いだ青い海の絵。
…それはもちろん仙石が描いた作品だった。
きっかけは行が、仙石の絵を見たい、と言ったことに始まる。
それは行にしてみれば当然の欲求でもあり、自分の絵は見ておいて、そっちは見せないのはずるいという子供っぽい意地もあった。
しかし、行の言葉を聞いた仙石は、まるで豆腐だと思って飲み込んだら石鹸だった、とでもいうような複雑な表情を浮かべた。
「何か不都合でもあるのか?」
画廊のオーナーが渋ってしまい込んでいる行の絵と違って、仙石の絵はディスカウントストアに描かれている壁画である。誰でも見ることが出来る筈だ。無論、行も。
不思議に思って尋ねる行に、仙石は困った顔で苦笑する。
「お前に見せるような大したもんじゃねえよ」
「まだあんたはそんなことを言うのか」
行は呆れた。
いったいどれほど言葉を尽くせば分かってもらえるのだろう。自分の感情を表現するのが苦手な行が、それでも仙石の絵については言葉を費やし、想いを伝えてきたというのに。
行は仙石の絵が好きだった。もしかしたら自分の絵よりもずっと。
仙石のような絵を描きたいとは思わない。それは自分の目指しているものとは違うだろうから。だが、たとえ行が同じように描いたとしても、きっと同じ絵にはならないだろう。
技量や才能では測れないものが仙石の絵には存在する。それを行は誰よりも知っていた。
行の絵と仙石の絵と、二つ並べたら、百人のうち九十九人までが行の絵を選ぶかもしれないが、自分だけは仙石の絵を選ぶだろうと思った。
そんな行の想いも、仙石は知っている筈なのだ。
すると、仙石は慌てて言い繕う。
「ああ、違う。そうじゃなくてだな。つまりその…、お前にだけは見られたくないというか。いや、だから」
しどろもどろだ。しかも『失言した』と見るからに顔に書いてある。
「そこまで言われたら、余計に見たくなる」
「…だよな」
仙石は観念したかのようにうなだれた。
そして結局、嫌がる仙石を無理やり案内させて、センゴクストアまでやって来た、と言う訳だ。
目指す絵は、フロアのどこよりも目立つ場所に在った。
東京都内にしては大きな店舗ではあるが、その壁面のかなりの部分を費やしている。こういう店は少しでも陳列棚を多くして商品を並べるのが普通だろうから、かなり思いきった経営方法ではないだろうか。
しかし、それが功を奏しているのは、誰が見ても明らかだ。
穏やかに凪いだ青く美しい海の絵は、自然と人々を集わせる魅力があるらしい。
買い物客もふと足を止めているし、親子連れや年配の客は設えられたベンチに腰を掛けて、飽きずに絵を眺めていた。待ち合わせに利用しているカップルもいる。
行がじっと絵を見つめ続けていても、不審に思う者は誰もいないようだ。
居たたまれないのは仙石だけである。
最初は行の隣で大人しくしていた仙石も、次第に落ち着きがなくなり、あっちへウロウロ、こっちへウロウロし始めた。
すると、店員の中には仙石の顔を見知っている者もいるから、挨拶をされたり、言葉を掛けられたりする。名ばかりとは言え、常務は常務なのだ。
そんな仙石から、もう帰りたいという無言のオーラが発せられていることは、行も背中ごしに感じてはいたが、そこは敢えて無視して、絵を見つめ続けた。
…青い、青い海を。
それから、どれほどの時間が経っただろうか。
行が後ろを振り向くと、仙石が待ってましたとばかりに飛んでくる。行は、仙石にこの絵を見た印象を伝えたかったのだが、本人はそんな気分ではないらしい。一刻も早くここを立ち去りたいという顔をしていたので、行もそれに大人しく従った。
それでももう一度、名残を惜しむように振り向くと、絵の隅にサインがしてあるのが目に入った。
『─海─ 仙石恒史』とあるから、それがこの絵のタイトルなのだろう。まさに見たまんまではあるが、それこそが仙石らしい、と行は思った。
そして他の店舗にある壁画も、きっとタイトルは『海』に違いない、と…。
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