【えせほし─似非星─ 】 kyo-ko

『最初の一歩』

(1)

「さてと、そろそろ帰るか…」
 名残惜しそうにつぶやきながら、仙石は重い腰を上げて立ち上がった。
 行はソファに座ったままで、反射的に尋ねる。
「帰るのか……?」
 この態勢だと、上目遣いに仙石を見つめて小首をかしげる、という非常に愛らしいポーズになるのだが、もちろん行にその自覚はない。

 ……無意識だから参るんだよなぁ…。
 仙石は堪らずに頭を抱えた。それでも行は相変わらず、きょとんとするばかりだ。
 二人が恋愛関係に発展しても、未だに人の心の機微に疎い行には、ずいぶん悩まされるが、それでも、そんな顔もますます可愛い、と思ってしまう仙石は末期的かもしれない。


「これといった用事もねえんだけどな」
 仙石は困ったように苦笑を浮かべる。
「なんだ。…泊まっていかないのか」
 ふいに行はうつむき加減で、ぽつりと口の中でつぶやいた。が、仙石の耳はまるでセンサーが付いてでもいるかのように、鋭くその言葉を拾い上げる。

「泊まって欲しいのか?」
 思わず勢い込んで訊ねてしまうが、行はしれっと返した。
「別に。いつも泊まっていくから。今日は違うんだな、と思っただけだ」
「…そうか」

 行から可愛い言葉が返ってくるとも期待してはいなかったが、例によってあまりに淡白な物言いには、いつも落胆させられてしまう。しかしこのくらいで負けないのが仙石恒史だ。
「いつもと違うってのが分かるようになっただけ進歩だな」
「オレはそんなに鈍くない」
 すかさず拗ねた口調になる行に、まだ子供っぽいあどけなさが感じられて、仙石を微笑ましい気持ちにさせた。

 ここまで引きとめられると、仙石も心が動くけれど、今日は泊まらないことに決めていたのだ。右手を伸ばして、行の長い髪をくしゃくしゃと掻き回して、最後に一言。
「やっぱり帰るよ。じゃあな」


 そうして背を向けてしまうと、ひどい罪悪感と後悔が一気に押し寄せてくる。固い決心がにわかに揺らぎそうになり、仙石は何もかも振り切るように玄関に向かった。
 それでも意識は背後に向けられているので、後ろから行が付いてくる気配も感じ取っている。女々しいというか、往生際が悪いというか。

 仙石が自嘲の笑いを浮かべると、そこへ行がやはり独り言のように、ぼそりとつぶやく。
「…帰るなって、言って欲しいのか?」

 もちろんそれもしっかり聞き取った仙石は、振り向いて、行の姿を見やった。こちらを見つめる行の黒い瞳は静かで、何の感情も読み取れない。
 仙石はまた苦笑を浮かべた。
「それもあるけどな…。それだけじゃねえよ」

 気を引きたくて、わざと逆のことをしてみせる…、なんて女子高生ではあるまいし、いい歳をしたおっさんがすることではないし、さすがに仙石もそこまではしない。
 今日は『泊まらない』と決めた理由は別の所にある。


「オレにどうしろって言うんだ」
 はっきりと言わない仙石に、行はじれったくなったのか、怒りすら含んだ口調になる。
 しかし、それを見た仙石の苦笑は、微笑みに変わった。行が自分なりに、仙石を理解しようとし、仙石の望む行動を取ろうとしているのが伝わってきたからだ。

 …焦るなよ。
 仙石は自分を戒めるように心の中でつぶやく。
 変わっていないように見えても、こうして行は少しずつ、自分の方に歩み寄って来てくれているのだ。一歩、また一歩と自分の足で歩いているのだから、仙石はひたすら待つより他にない。
 きっと行ならば、何度転んでも、つまづいても、すぐに立ち上がって、またこちらに歩いてくることが出来るだろう。仙石が過保護に手を出してやらずとも。

 それはまるで歩き始めた子供を見守る父親のような心ではあるが、仙石自身はそんな経験をした覚えはない。他所の家の子供の成長は早く感じるというが、仙石の場合もまさにそれだった。
 長いこと家を開けて、戻ってきた時には、いつも娘はずいぶんと成長しているように感じたものだ。

 だから、あるいは仙石は、もう一度、子育てをし直しているのかもしれなかった。二人にその自覚はないかもしれないが…。


「俺は、お前にもっと広い世界を見せてやりたいんだ」
「…いきなり何の話だ」
「いいから聞けよ。お前は俺と一緒にいるだけで満足なのか? お前を取り巻く世界には、お前を愛してくれる人も、大切に思ってくれる人も他にたくさんいる筈だ。そうして多くの人と知り合ってから、やっぱり俺の所に戻ってきても遅くはないと思うぞ」

 仙石の話を聞くうちに、行の目が鋭く細められていく。最後の言葉が終わる頃には、その視線だけで人も射殺せそうなほどの険しい光を放っていた。
「オレはあんたが必要なんだ。あんただけがいれば良いんだ。それなのにあんたはそうじゃないって言うのか。オレのことを好きだと言ったのは嘘か。それとももう飽きたから捨てるとでも!?」

 行にしては珍しく、そのままの感情を荒々しくぶつけてくるが、仙石はそれも静かに受け止める。
「俺のお前への気持ちは変わらない。今でももちろん好きだ。誰よりも大切な存在だよ。だが、お前は違うだろう…?」
「何が違うって言うんだ」


 どこか捨てられた仔犬のような顔になる行に、仙石はやわらかく微笑む。
「お前が俺のことを大切に思ってくれるのは、言ってみれば『刷り込み』みたいなもんでよ。つまりあれだな。鳥のヒナが最初に見たものを親だと思っちまうって奴だ。お前にとって俺は、最初に心を開いた人間なんだよ。それで特別な存在のように思えているだけだ」

 仙石の言葉を、行はじっと噛みしめるように聞いていた。先刻までの激昂もすっかり鳴りを潜めている。
 その沈黙がかえって恐ろしく感じるものの、とにかく全てを話してしまおうと思った。ずっと胸につかえていた物を吐き出してしまいたかった。そうしないと、新しい一歩を踏み出すことは出来ないのだ。


「お前は俺を特別だと言ってくれる。だが、お前は俺の他に誰か知っているのか? 俺にしたのと同じように心を開いたことがあるのか? きっと無いだろう。
 それはな、比べようがないってだけだ。俺以外に選択肢が無かっただけなんだ。でも今は違う。お前はもっとたくさんの物をつかみ取ることができるんだぞ」
「言いたいことはそれだけか?」

「ん?」
 行のあまりにも冷ややかな口調に、仙石の反応が一瞬遅れる。しかし構わずに行は言葉を続けた。
「あんたはバカか。ずっとバカだと思っていたが、想像以上だ。オレだって子供じゃない。これまで生きてきて、たくさんの人と関わってきたんだ。あんたが思っているよりもずっとな。
 それでも誰もオレの特別にはならなかった。あんただけだ。それの何が悪い? あんたはオレに、これ以上何を求めているんだ?」

「行…」
 行の言葉は、もちろん仙石も嬉しい。たとえ『刷り込み』だとしても、その最初の人間になれたことが、やはり特別なのだろう、と思う。だからそれに甘えてしまえば良いのかもしれないが…。
 仙石には出来なかった。


 これだけは言ってはいけないのかもしれない、と思いながら。これで全てが壊れてしまうかもしれないけれど。仙石は再び決意を固める。
 そして、どうしても今夜は帰ると決めた、その理由を告げた。

「お前、本当は俺に抱かれるのが嫌なんじゃないのか…?」

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