『愚か者の朝 』 |
いつものように行の家に泊まった翌朝、目を覚ました仙石は、意外な光景に驚く。 「……行?」 低血圧で朝に弱いはずの行が、ベッドの中に居なかった。 まだそれほど長くはない付き合いではあるが、それにしても仙石よりも先に行が起きている所など、未だかつて見たことはない。春の珍事とでもいうべきか。 あるいは昨夜、少々無理をさせてしまったせいだろうか。 最近は躰を重ねることにも慣れてきた二人である。 仙石は若くて可愛い恋人の存在に、すっかり溺れていたし、性的に未熟だった行を自分の手で開発していく悦びとも相まって、はっきり言ってメロメロだった。 行も体力には自信があり、それ以上にプライドが高いから、そう簡単に弱音を吐かないので、結果的に仙石が求めるままに何度でも応じてしまうことになる。 事後は言葉も出ないほどに消耗して、ぐったりとなった行を見るにつけ、『無理をするな』『つらかったら言えよ』と仙石はいつも言ってはいるのだが、『無理じゃない』『別につらくない』とそっけない答えが返って来るばかりだ。 それならば、仙石が自制すれば良いのだけれど。 それが出来れば苦労はない。 感情表現が苦手な行は、いつもは無表情・無口・ぶっきらぼうという取り付く島もない状態だから、ベッドの中でだけ見せてくれる切ない表情や愛らしい声が、たまらなく可愛くて仕方がないのだ。 行のことを抱くたびに愛しくなる。 もう行の存在しない人生など考えられないくらいに、毎夜毎夜、行のことが好きなのだと自覚する。 それは半分くらい枯れかけていたオッサンの仙石にとって、身に過ぎるほどの至福な日々であった。 そして翌朝、目が覚めた時に、隣で行が無邪気な姿で眠っているのを見るのは、何よりも幸せな瞬間だ。 だからこそ今朝は、行が隣に居ないのが不思議でたまらない。 本当に何かあったのではないかと心配になって、仙石は慌てて起き出し、服を身に付けた。 落ち着かない気分で寝室を出ると、リビングのソファに行がちょこんと座っているのが目に入る。それだけで仙石は安堵した。 「ずいぶん早いじゃねえか。これじゃ今日は雨かもな」 からかうように尋ねた仙石に、行はさしたる反応を示さない。意志の強そうな黒い瞳が、ただじっとこちらを見つめているだけだ。 「どうした。具合でも悪いのか?」 そう言って、何気なく仙石が行の隣に座ろうとすると、何故かいきなり行が立ち上がった。そして向かい側のソファに腰を下ろす。 いつもならば、狭いだの暑いだのと文句を言いながらも、二人掛けのソファにぎゅうぎゅうになって座っている恋人たちだというのに。 今朝は何かがおかしかった。 いや、『何か』ではなく、『何もかも』が。 仙石は言い知れない不安と胸騒ぎを覚えながらも、大人しくソファに座る。 しばらく無言のままで向い合っていた二人だったが、先に口を開いたのは、珍しく行の方からだった。 「仙石さん、大切な話があるんだ」 重々しく話し始めた行のまなざしは真剣で、仙石は思わず息を飲んだ。 「ああ……、何だ?」 もしかしたら聞いてはいけないのかもしれない。聞くべきではない話かもしれないと思いながらも、問わずにはいられなかった。 そんな仙石の予感は、見事に的中する。それも最悪の形で。 「オレと別れて欲しいんだ。あんたとは二度と会わない」 「……な……、何を」 仙石は茫然とする。自分の耳が信じられなかった。 冗談だろう? と笑い飛ばしたかったけれど、行の目を見てしまっては、それすら言うことが出来なかった。 本気なのだと。言葉よりもずっと雄弁に、そのまなざしが語っていたから。 「……そうか。…………分かった」 そう答えるより他に、いったい何が出来ただろう。 むしろ行のような見た目も良い未来ある若者が、自分みたいなオッサンとこれまで付き合ってくれていたのが奇跡なのだ。 行の将来を考えれば、自分と別れて、新しい人生を送った方がずっと良いに決まっている。 それが行の意志だというのなら、それを引き止める権利は自分には無い、と仙石は思った。 すると、いきなり行の表情が険しくなった。 「何でだよ。何でそんなにあっさりと受け容れるんだよ」 「いや……、だってよ。お前がそう言うなら俺は……」 「あんたがそう簡単に信じたら、面白くも何ともないだろ。少しは疑えよ、このバカ!」 どうして自分は、いきなり恋人に別れを切り出されたあげくに、怒られなくてはいけないのだろうかと仙石は困惑する。 しかし行は怒りを隠そうともせずに、話を続けた。 「それともあんたはオレと本当に別れたいってのか?」 「そんな訳ねえだろ」 途方に暮れていた仙石も、ここは間髪入れずに即答する。 「……そんなら良いけど」 行はまだ納得していない顔で、ふてくされながらつぶやいた。 「いったい何なんだよ」 ただちょっと拗ねてみただけなのだろうか。あるいは仙石の気持ちを知りたくて試したということか。どちらにしても、行には似つかわしくない行動ではあるが。 すると行はボソリと尋ねてくる。 「今日は何月何日だ?」 「また唐突だな。えーっと三月……、じゃねえか。四月一日だ」 と悩みながら応えた仙石は、そこでようやく行の不可解な行動の意味を悟った。 「ちょっと待て。エイプリルフールだからってんじゃねえだろうな?」 「だって嘘を吐いて良い日なんだろ」 あっけらかんと答える行に、仙石はがっくりと肩を落とす。 「あのなぁ……、それにしたって、もっと他愛もない嘘が他にいくらでもあるだろうが。お前は俺をショック死させる気か」 普段は誕生日やクリスマスですら頓着しない性格のくせに、よりによって、こんなものにだけ積極的に参加しないで欲しい。いきなり爆弾を投下されても困ってしまう。それに許されるのは、罪のない嘘だけではなかったか。 しかし行は反省するどころか、きっぱりと反論してきた。 「信じるあんたの方が悪い」 「いつもは冗談すら言わないような奴が、いきなりあんなこと言ったら、誰だって信じるだろ」 「じゃあ、どんな嘘を吐けば良いんだよ」 行の思わぬ逆襲に、仙石は戸惑いながらも答える。 「うーん、そうだな。今日は空から雨じゃなくて飴が降ってるぞ、とかな」 夢があって可愛い嘘だと思ったのだが、行はあっさりと切り捨てた。 「そんなの誰が聞いたって嘘に決まってるじゃないか」 「そのくらいの嘘にしとけってことだ」 「……だから、そうしただろ」 ふいに行の口調が変わる。 「ん……?」 「オレは絶対に有り得ない嘘を吐いたつもりだったのに、あんたが簡単に信じるから……」 「行……」 仙石は胸を衝かれた。 行にとっては、二人が別れるということは、空から飴が降ってくるくらいに、いやそれ以上に考えられないことだったとは。 「すまん! 俺が悪かった」 仙石は深々と頭を下げた。あまりの申し訳なさに、土下座してもし足りない。 そうして顔を上げた仙石が目にしたのは、はにかみながら小さく微笑む行の姿だった。 「いいよ、もう。慣れないことをしたオレも悪かったし」 かすかに頬を染めて、照れくさそうに目を逸らした行は、言葉に出来ないほどに可愛らしくて、仙石はおもむろに立ち上がり、行の身体を抱きしめた。 といっても、行は一人掛けのソファに座っていたので、妙な体勢になってしまったけれど。 あの言葉が嘘で良かったと、自分の腕の中に行が存在する幸福をしみじみと噛みしめながら、仙石は行の耳元にそっとささやいた。 「俺だって、お前と別れたくなんかない。本当に本当だ。だがな、お前がそれを望むなら、俺はお前を引き止めることは出来ないからな。だから、あんなこと嘘でも絶対に言わないでくれ」 「エイプリルフールでも?」 小首をかしげて、どこか無邪気に行が尋ねる。 仙石はきっぱりと答えた。 「でも、だ」 「……分かった」 行は素直にうなずくが、すぐに何かを思い付いた表情で、こちらを見つめる。 「仙石さん」 「ん?」 至近距離で見つめ合いながら、その可愛い唇をどう塞いでやろうかと不埒な妄想を始めた仙石に、行はしれっと言ってのけた。 「仙石さんなんか、大嫌いだ」 面と向かって言われた言葉に、仙石は息を飲んだが、すぐに行の真意を悟る。 「……ったく、もうエイプリルフールは終わりにしとけ」 苦笑しながらつぶやくと、二度と嘘を言われないように、すかさず行の唇を奪うことにするのだった……。 おわり |
ここまで読んでくださってありがとうございました。
少しでも楽しんでいただけたら嬉しいです。 季節ネタではありますが、 完全にタイミングを外しました……。 だって、思いついた時にはすでに過ぎていたんですよ。 でも来年まで持ち越すほどの話でもないし。 という訳で、すっかり遅くなってしまいました。 スミマセン、色々と……。 でもまぁ、当日じゃない方が、 読者様も予測できなくて良いかも? とか思ったり思わなかったり。 とりあえず、びっくりしてくれたら嬉しいな。 2009.04.10 |