『残しておきたい物は 』 |
仙石が家に来ている時でも、行がキャンバスに向かっていることは、それほど珍しくはない。誰が来ていようがお構いなし、ということではなく、仙石だからこそ、気にせず振舞っているのだろう。 と、仙石はプラス思考でそう認識していた。 でなければ、はるばる館山で何時間も掛けてやって来ているのに、朝から晩までずっと放ったらかしの自分が寂しすぎるではないか。 それに行は絵を描くことに夢中になると、睡眠すら忘れてしまうし、食事も取らなくなってしまうから、自分が傍に居られる時くらいは、ちゃんと見ていてやらなくては、という義務感も存在していた。 だから今日も仙石は、無心でスケッチをしている行の傍らで、一人黙々とリンゴの皮を剥いている。 八百屋の店先で、見事な大きさと色合いがいかにも美味しそうで、つい買ってきてしまったのだが、食べ物には関心を見せない行が、そのリンゴを見た瞬間、いかにも嬉しそうな笑顔を浮かべたのだ。 「良いな、それ」 「だろ? 良い色ツヤしてるよな。絶対に美味いぞ、これ」 行の予想外の反応に、すっかり気を良くした仙石は、鼻歌混じりにキッチンに向かう。そこをすかさず行にリンゴの袋を取り上げられた。 「おいおい、そんなに慌てなくても、すぐに剥いてやるって」 苦笑を浮かべた仙石に、行はきっぱりと答える。 「剥いたら意味ないだろ。この形が良いんだ」 「形?」 きょとんとしている仙石をよそに、行はどこからか小さな椅子のような物を持ってきて、リビングの窓辺にそれを置くと、上にリンゴを無造作に並べた。 「こんなもんか」 満足げにうなずく行の様子で、仙石もようやく理解する。 「静物画用のモデルか?」 「別にそういう訳じゃない。ただスケッチに良いなと思っただけ」 「まぁ、お前が気に入ったんなら、『食う』でも『描く』でもどっちでも良いけどよ」 答えながらも仙石は少なからずがっかりした。 行は食べることへの執着がない。 おそらく口に入るものなら何でも良いのではないだろうか。少なくとも毒ではない限りは。仙石が作るものならば、美味しいと言って食べるけれど、本当にそう思っているのかどうかは疑問だった。 そんな行がようやく食べ物に興味を持ってくれたのかと思ったのに。 仙石は行に食事の楽しさを教えたかった。食べることはただ生きるためだけではなく、もっと喜びに満ちたものなのだと。 そうして一人ではなく、誰かと食卓を囲むことの幸福に、いつか気付いてくれたなら、自分が行の傍に居る意味もあるのではないかと思うのだ。 まだまだそれには先が長そうだったが。 「しょうがねえなぁ」 仙石は苦笑を浮かべながら、リビングのソファに腰を下ろす。行はさっそくスケッチブックを持ってきて、リンゴの絵を描き始めたようだ。 一心不乱に絵に向かっている行の姿を見ていると、絵を描くことそのものが、行にとってはとても重要なものなのだと思い知らされる。 仙石は以前に"いそかぜ"の内部を細密に描いた行のスケッチも見ているから、こんなリンゴの一つや二つ、あっという間に描けるのではないか。むしろ馬鹿馬鹿しくて描く気も起こらないのではないかと思ったが、どうやらそうではないらしかった。 真っ直ぐにリンゴを見つめる行のまなざしは、厳かで敬虔ですらあって、決して遊び半分ではないことを仙石に感じさせた。 仙石は一つ溜め息を吐くと、キッチンから果物ナイフと皿を持ってくる。袋の中にはまだリンゴが残っているから、それを剥くことにした。自分でも食べたかったし、行もあれだけ夢中に描いていたら、食事も忘れてしまうだろうから、口の中に放り込んでやれば良い。 仙石は無骨でもっさりしたオッサンではあるが、見た目に反してそれほど不器用な訳ではない。手の中でくるくるとリンゴを回してきれいに剥いていく。皿の上には赤いリボンのように皮だけが残った。 こういう単純作業はついムキになってしまうもので、仙石はリンゴの皮をどれだけ長く剥けるかに挑み始める。真剣に集中してやらないと、すぐに切れてしまう。気付けば皿の上は長い皮でいっぱいになっていた。 「あー、惜しい。もうちょっとだったのによ」 あと少しで全部剥ける所だったのに、皮が切れてしまって、仙石は思わず声を上げた。すると、こちらをじっと見つめていた行と視線が合う。 「悪りぃな、驚かしちまったか」 「……別に」 行はそっけなく答えると、またスケッチブックに目を戻した。 仙石は失敗を悟り、リンゴの皮剥き競争は断念した。第一、そんなに何個も剥いても二人で食べきれやしないのだ。 そこで仙石は、皮が剥かれたリンゴをさくさくと切り分けて芯を取り八等分にすると、その一つを自分の口に放り込んだ。 行に食べさせてやろうと思っていたけれど、自分が食べたい気持ちも抑えられなかったのだから仕方がない。 「うん、美味い」 予想通り、リンゴは瑞々しくて甘かった。といっても人工的な甘さではなく、自然のほのかな酸っぱさも含んでいる。仙石はこういうリンゴが好きだった。すかさずもう一個口の中に頬張る。 と、ふいに視線を感じ、そちらに目を向けると、やはり行がじっと仙石を見ていた。 「どうした、お前も食うか?」 行が絵を描いている時に気を散らすのは珍しいと思いながら、仙石は尋ねるが、行はまたそっけなく『別に』と言うだけだ。 仙石は首をかしげる。どうも行の様子はおかしかった。気になりはしたが、行のことだから、無理に追求しても逆効果だろう。 仕方がないので、仙石はまたリンゴの方に意識を戻した。すでに二個分の皮を剥いてしまっているから、これ以上は必要ないだろう。もう一つのリンゴも八等分に切り分けて、残った皮と芯を捨てるためにキッチンに向かう。 ついでにちょっと洗い物をしたり、出ていた食器を片付けたりして、またリビングに戻ると、何故か行の姿はそこには無かった。 トイレかな、と思いながら、仙石がそれに手を伸ばしたのは、単純な好奇心からだ。行がどんな風にリンゴを描いたのか見てみたい、ただそれだけで置かれていたスケッチブックをめくり、言葉を失った。 「……これは」 「バカ、見るな!」 そこへ戻ってきた行が、慌ててスケッチブックを取り上げようとするから、仙石はすかさず後ろに隠して尋ねる。 「お前、リンゴを描いてたんじゃねえのか?」 「描いてたけど、もう終わったから、だから……」 そう答える行の頬はリンゴのように赤く染まっている。 「どれ?」 仙石が紙を一枚めくると、そこには明らかに描きかけのリンゴのスケッチがあった。 「ふーん、なるほどね」 意地っ張りな行の可愛い嘘に、仙石の頬は自然とゆるむ。しかし行はそんな仙石を許してはくれなかった。 「返せ!」 鋭い声で叫ぶと、同時にゲンコツが腹に食らわされる。おそらく行はかなり手加減したのだろうけれど、仙石にとってはキツイ一発だ。スケッチブックも奪い取られてしまう。 「痛てて……」 「人の物、勝手に見るな」 「悪かったよ。でも俺には見る権利があると思うぞ。モデル料代わりにな」 仙石がニヤリと微笑むと、行は何も言えなくなったのか、ただきつい目で睨み付けて来るばかりだ。頬が真っ赤に染まっているから、そんなことをしても可愛いだけだが。 「仙石さんのバカ!」 行はそう言うと、脱兎の如く逃げ出そうとする。仙石は慌ててその手を取って、自分の胸の中に抱きしめた。 それでも行は抵抗を見せて、仙石の胸板をゲンコツでぽかぽかと殴っている。もちろんこの程度では痛くも痒くもない。気持ちが浮かれていれば尚更だ。 「本当にお前は可愛い奴だよ」 すっかりご機嫌の仙石に、行は何をしても無駄だと悟ったのか、ようやく大人しくなった。そこで仙石はすかさず行に口付ける。 やがて甘い吐息と共に、行がぼそりとつぶやいた。 「……リンゴの味がする」 「美味いだろ?」 「………バカ」 頬を染めて答える行の言葉には、先刻までの強さはない。そんな行の変化に仙石が気付かないはずもなく、またすぐにキスが再開された。 ほどなくして、行の手からスケッチブックが床に落ちる。その音で二人とも一瞬だけ我に返るが、それも束の間のことだった。 熱く抱き合いながら、口付けを交わす恋人たちの傍らで、スケッチブックが寂しげに横たわっている。 その白い紙の上には、行の描いた仙石の姿があった。 顔ではなく、リンゴを剥いている無骨で大きな手が、細部まで克明に描かれている。描いた者の想いがそこには宿っているかのようだった。 リンゴを持っていた手が、今度は自分の身体を抱いていることを、何よりも喜んでいるのは、行なのかもしれなかった……。 おわり |
ここまで読んでくださってありがとうございました。
少しでも楽しんでいただけたら嬉しいです。 このネタは、ずいぶん前からメモしてあって、 いつか書こうと思っていたものなのですが、 基本的な話は行がスケッチをするだけなので、 どこをどう盛り上げようか、さっぱり分からず(苦笑)。 このネタって本当に面白いの?と疑問も湧いてきたので、 お蔵入りになっていたものなのでした。 それをあえて引っ張り出してきた理由は、 ネタ切れ以外のナニモノでもなく(笑)。 出来上がったものを読み返してみても、 萌えとかイチャとかラブとかどこにあるんだろう…、と 自分でも首をかしげたくなります。 私の書きたいことの一つに「可愛い行たん」があるので、 少しでも可愛くなっていれば良いなーと思うのですが、 上手くいったでしょうか…。 2009.06.17 |