「うー、寒みぃなぁ、今日は。きっと雪になるぞ」
今日も例によって、朝早くからドアベルの連打で行を叩き起こした仙石は、寝ぼけ眼でドアを開けた行に開口一番そう言った。
「雪なんて降る訳ないだろ」
行は即答する。
この家に住むようになってから、まだ二年しか経ってはいないが、去年も雪など降らなかった。子供の頃にも雪が降った記憶など残っていない。ただ単に忘れているだけかもしれないが。
しかし仙石は、能天気な笑みを浮かべたままで答える。
「そうか? この辺りでも一年に一回くらいは降るだろ?」
「あんたの家の方はそうかもしれないけどさ。こっちは温かいんだ。少なくとも去年は雪なんて降ってないよ」
それは確かだ。さすがに一年前のことまで忘れはしない。
すると仙石はぽりぽりと頭を掻いた。
「でもよ、今日は降りそうな気がするんだよな。この空の暗くて重い色と寒さは、いかにも雪が降りそうな感じがするじゃねえか」
「ふうん。オレは全然そんな感じしないけど」
行には全くピンと来なかった。雨ならば、空気の匂いや空模様である程度は察知できるが、雪に関しては何の知識も持ち合わせてはいない。
そもそも仙石の話には、具体的な根拠が何も無い。そんな気がする、というだけでは納得出来なかった。
行の不満げな気持ちが顔に表れていたのだろう。仙石はますます自信たっぷりの表情を浮かべた。
「護衛艦乗りのカンを信じろ」
サムズアップのおまけつきでにやりと笑う仙石に、行は呆れるより他にない。
「ますます信じられなくなってきた」
「お前なぁ。いや、絶対に降るって。だからよ、今のうちに買い物を済ませちまって、夜は鍋でも囲んで雪見酒としゃれこもうぜ」
仙石はどうあっても雪が降ると信じているようだ。
こういう時の仙石には、何を言っても無駄なのだと行も分かっている。心から納得した訳ではないが、仕方がなくうなずいた。
「……分かった」
「それじゃ、さっさと支度しろ。ちゃんと厚手の上着にしろよ。マフラーや手袋は持っているか? 外は本当に寒いからな。思いっきり厚着しておけ」
にわかに世話焼き先任伍長モードが発動してしまう仙石だ。
「この前着ていた上着じゃ絶対に寒いぞ。それしか持ってなかったら、中にセーター着ろ。いつもお前が着ているトレーナーじゃ駄目だ。いくらお前だって、セーターくらい持ってるだろ?
それから」
「……うるさい」
際限なく続く仙石の言葉にうんざりして、行が思わずつぶやくと、仙石はますますヒートアップした。
「うるさいとは何だ。俺はお前を心配しているんだ。お前は自分が丈夫で風邪も引かないと思っているんだろうが、そんなことはねえんだからな。風邪を引いてから、やっぱり俺の言うことを聞いとけば良かった、なんて言っても遅いんだぞ。そういや、この間だってお前は」
「あーはいはい、分かりました」
仙石の説教に大人しく付き合っていたら日が暮れてしまう。行はおざなりに返事をして逃げ出すと、寝室へ飛び込んだ。
とはいえ、あまり外に出ない行は、それほどたくさんの服を持っていない。仙石に指摘されたとおりのトレーナーと薄い上着では、確実に怒られるに決まっているので、トレーナーの下にシャツを着てごまかした。行の感覚ではこれでもかなり厚着だ。
「出来た」
「よし、行くぞ」
張り切って家を出ようとした仙石は、ふいに眉をひそめる。
「お前、マフラーと手袋はどうした」
「そんなの持ってないよ」
「しょうがねえなぁ。それじゃ買ってやるよ。駅まで行こうぜ」
「いいよ、別に。必要ないから」
遠慮している訳ではない。本当に必要がないのだ。家の中ならばトレーナーで十分だし、こんな寒い時にわざわざ外に出ることもない。買い物ならば通販で事足りる。
すると仙石は、くしゃくしゃと行の髪をかき回して、苦笑を浮かべた。
「ホントにお前は欲が無えなぁ」
欲が無い訳ではなく、要らないものを要らないと言っているだけなのだが、仙石には伝わらなかったようだ。
どうして良いか分からなくて、行が押し黙っていると、仙石はポケットから何かを取り出した。
「ほれ、持ってろ」
「え?」
手渡されたものは、一組の手袋だ。
「いいよ、あんたが使えよ。オレは必要ないって……」
「うるせえな。俺は大丈夫だからお前が使え。大事な画家の指だろ。ちゃんと温めとけ」
「……分かった」
行はまたも渋々うなずく。
仙石はおせっかいな所はあるが、何よりも行のことを一番に考えて、大切にしてくれているのだ。その気持ちまでも無碍にすることは出来なかった。
「よし、それじゃ今度こそ行くぞ」
仙石の掛け声で外に出ると、確かに今日はいつもよりもずっと寒かった。冬の風は肌に突き刺さるようだし、冷たい空気を吸い込むと肺がきしむようだ。
「ホントに寒いな……」
「そうだろ、そうだろ。今日は絶対に雪だからな」
この寒さの中でも、仙石は一人で春のような笑顔を浮かべてご機嫌だ。行が寒いと認めたのが嬉しかったのか、それとも雪が降るのが嬉しいのか。
どちらもしても、どこか子供っぽくて、行は苦笑を浮かべた。
自分よりも親子ほども年の違う仙石だけれど、こんな時はそこまでの年齢差を感じさせない。そこが無邪気で可愛いと思うのは、明らかに惚れた欲目だろう。
「ほら、手袋しろよ」
「あ、そうだ」
行は慌ててポケットから仙石の手袋を取り出して、自分の手にはめた。
「……ちょっと大きいか?」
「脱げるほどじゃないから大丈夫」
仙石と行の指の長さにそれほどの違いはないが、手のひらの大きさと厚みは仙石の方がずっと上なので、結果として仙石の手はずいぶん大きい印象になる。
けれど、この大きな手のひらに、どれほどのぬくもりを与えられているか。
自分の手にはまった仙石の手袋を見下ろして、行は小さく微笑んだ。手袋をしているという以上の温かさがそこには宿っているような気がした。
そこへ、おもむろに仙石の大きな手のひらが行の頭の上に降りてくる。くしゃくしゃと髪を掻き回されて、行は首をすくめた。
まるで子供扱いされているようで、時にはシャクに障ることもあるけれど、やっぱり仙石の手のぬくもりが心地良いことは変わりなかった……。
買い物を済ませて、スーパーから出てきた二人は、目にしたものに驚いた。空からヒラヒラと白いものが落ちてきている。
「……ホントに雪だ」
「そらみろ。俺の言ったとおりだろうが。風邪引いちまうから、さっさと帰るぞ。傘も持ってこなかったしな」
仙石の言葉に、行は素直にうなずいたものの、何となく『さっさと』帰ってしまうのは、もったいないような気がしていた。
めったに見ることが出来ない雪を、仙石と一緒に見ることが出来たのは、とても幸運な偶然ではないかと思うから。
そんな気持ちが現れたのか、家までの道を二人で並んで歩きながらも、行の足取りは少しずつ遅くなってゆく。普段は仙石を置き去りにするほどだけれど。
すると、不意に仙石が右手を差し出した。
「ほれ」
何かを渡されたのかと思ったが、仙石の手の中には何も入っていない。腕にスーパーのビニール袋が掛けられているだけだ。
「何?」
いつものように行がそっけなく尋ねると、仙石はあっけらかんと笑う。
「荷物、貸せって。疲れたんだろ?」
「違う」
行は即答した。少なくとも仙石よりは体力もあるし、荷物を持ってもらわなければいけないようなお姫様ではない。
「じゃあ、何だよ」
歩調が遅くなったのを、気にしてくれていたらしい。行は自分の今の気持ちをなんと表現すれば良いのか分からずに、戸惑った。
寒くて荷物もあって、仙石が早く帰りたいと思うのは当然だ。行も普段なら、そうしただろう。めったに見られない雪だからと、子供のようにはしゃいでいる訳でもないと思う。
ただ、それでも今日は何となく帰りたくなかったのだ。
この『何となく』としか表現しようのないぼんやりした気持ちを、言葉に変換することが、行は得意ではない。だからいつも上手く言えなくて押し黙ってしまうけれど。
それがいけないことだとも分かっている。仙石はいつも行に言うから。ちゃんと言葉にしないと分からないぞ、と。
「……雪だから。もうちょっと見ていたい。あんまり早く帰りたくない。……何となく」
行が不器用ながら、ぽつぽつと自分の気持ちを言葉にするのを、仙石はじっと耳を傾けていたが、やがてやわらかく微笑んだ。
「そうだな。俺も雪は久しぶりだ。暖かい部屋の中で見るよりも、せっかくだから、もうちょっとじっくりと味わうか。それに家に帰る前に止んじまうかもしれねえしな」
行はこくりとうなずいた。
そして心から安堵した。もしかしたら仙石に、何をバカなこと言ってるんだ、さっさと帰るぞ、などと怒られるかもしれないと覚悟していたから。
仙石が同意してくれた嬉しさに、自然と顔がほころんでいくのが分かる。きっと今の自分は変な顔をしているんだろうな、と思ったら、ほんの少し恥ずかしくなった。
そこをいきなり仙石に抱きしめられた。
いや、そうではない。仙石が着ていたダウンジャケットの前を開けて、行の頭を包み込むように引き寄せたのだ。
「ちょ……、何する……っ」
「頭が雪で濡れないようにな」
「誰かに見られたらどうするんだ」
「こんな雪の中、誰も歩いちゃいねえよ」
確かに仙石の言うとおり、周囲には誰も人影はない。例え誰かが通り過ぎたとしても、こんな日は他人に目を向けている余裕もないだろう。
けれど、落ち着かないことには変わりなかった。
すると仙石がぼそりとつぶやく。
きっと行には聞かせるつもりのない独白だったのだろうが、行の耳はちゃんとその言葉を拾い上げていた。
「……あんな顔、他の奴に見せられるか」
どうやら自分は、よほど変な顔をしていたらしかった。
行はますます恥ずかしくなるが、赤くなった頬も仙石のジャケットの中で隠れているから、誰にも気付かれないだろう。それに何より温かい。
……まぁ良いか。
行は心の中でつぶやく。
そうして仲良く寄り添いながら、ゆっくりゆっくりと家路を辿る二人なのだった……。
おわり
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